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顧問感覚

コモンセンス

コロナに負けるわけがない

 本日は開智未来に出勤しています。高校体験授業での「中学生応援サプリ」と中学2年生の「ブリティシュヒルズ・オンラインFW」の視察の、2つの用務があったからです。
 サプリでは「コロナ期のキーワードは“自分”」というテーマで話をしました。
 「コロナ期で高校受験を迎えることをマイナスで考えないようにしよう。この時期に高校受験を乗り切った皆さんは自分を強く、大きく成長させることができるでしょう。私は、この時期に自分を鍛えた皆さんこそがこれからの日本を支えていくと期待しています」
 「公的な場でマスクをしなければならないことには様々な問題点があります。しかし、利点もあります。それは自分と向き合うようになることです」
 マスクで表情を伝えることはできませんが、参加した中学生一人一人と目を合わせて、私の気持ちを伝えました。サプリでここまで目を合わせたことはありませんでした。目の会話ができるようになったのも、目を鍛えてゆたかにできるのもコロナ・マスクのおかげですよね。
 サプリを終えて、中学2年生たちの「ブリティシュヒルズ・オンラインFW」を視察しました。本来は福島県のブリティシュヒルズでの2泊3日の宿泊研修なのですが、今年は昨日と本日の2日間、オンラインでブリティシュヒルズのワークショップに参加するかたちにしました。このFWでは、3日間オールイングリッシュで生活し、英語でメモート(A5版160ページのノート。メモをたくさん書くノートということで「メモート」と呼んでいます)を書くという活動もしてきました。
 見学すると、生徒たちはオンライン講座の時間だけでなく休み時間もオールイングリッシュで過ごし、タブレットで受講しながらも、メモートに英語で懸命にメモをしていました。開智未来の精神はコロナには負けていませんでした。
 体験授業に参加した中学生や開智未来の中学2年生たちの姿から、当然といえば当然のことですが、気付いたことがあります。
 子どもたちはコロナ期であろうとなかろうと成長しなければならない存在であり、また、成長する力強い存在だ、ということです。
 子どもたちは大人のようにコロナに負けてはいられない。
 子どもたちは大人のようにコロナに負けるわけがない。
 世界や日本社会の中で、何か力強いものが、確実に生まれつつある。私はそう予感しています。

野菜物語16:モロヘイヤの逆襲

 近ごろ、モロヘイヤが元気だ。
 5月連休前に種を蒔き、発芽は順調にしたものの、その後の長梅雨で成長がままならず、夏の暑さで息絶え絶えだったのに、急に威勢良くなって鬱そうと茂り始めた。原産は、アフリカ北部からインド西部とのことで、夏に強いはずなのだが、今の日本の猛暑に勝てない軟弱者だ。にもかかわらず、過ごしよい気候になると途端に元気になるところがイヤらしい。
 次女によれば最も栄養価の高い野菜だそうだ。「栄養があるなら、猛暑でも元気でいろ!」と叱咤したくもなる。
 モロヘイヤは、他の、特に日本的な野菜に比べて、地味な黄色い花や葉の根本のひげなどの様子が原始的で古代的である。見た目では、たとえ栄養価が高くても食べたいという気にはならない。
 「モロヘイヤ」と聞くと、私はなぜか「ジェロニモ」を連想してしまう。文字面(づら)では「モ」しか同じ音がないが、なぜか同じ〈音の臭い〉がするのだ。
 ジェロニモとはアメリカ新大陸のインディアンのアパッチ族の勇士で、白人と戦った英雄である。小さい頃、テレビ映画で観た、馬に乗って大草原を走り回る勇姿を思い出す。
 そういえば、インディアンたちの「白人は嘘をつく。インディアン、嘘つかない」という、懐かしいセリフがあった。今思えば、近代文明に対する強烈な批判である。今や日本も近代文明がすっかり浸透し、「オレオレ詐欺」が蔓延しているほどである。いつの間にか「嘘をつかない」ことが日本人の誇りでなくなってしまった。
 他の夏野菜が枯れ始めている中で、秋の気配の下で繁茂する様は、弱い者が何かに逆襲しているようでもある。部族で行動し、前近代的な生活をする、近代兵器に無力なインディアンが「嘘をつかない」ことを誇りに白人に対して逆襲する。その姿が重なってくる。
 モロヘイヤの青臭い臭いには幻覚作用があるのだろうか。妄想が止まらない。
 モロヘイヤは何を誇りに、何に逆襲しているのだろう。
 私は何を誇りに、何に対して戦っているのだろう。
 そうだ。今晩はモロヘイヤを食べてみよう。

共に

 本日は開智未来では塾説明会がありました。
 塾説明会は、塾の先生方への学校説明会で、多くの方、多くの立場の方に開智未来の教育を知っていただこうという趣旨の会です。年に2度、5月と9月に実施していますが、今年はコロナのために5月の塾説明会はオンラインで、塾の先生方とは本年初めての直接お会いすることができました。
 「皆さん、無事生きていましたか?つぶれたのではないかと心配していました」
 洒落にも笑いにもならないジョークで挨拶を始めたところ、皆、マスク越しに微笑んでくれました。多くの方は開校前からの、今年で11年目となる付き合いです。コロナでは多くの業種が経営を圧迫されましたが、塾もその一つで、塾の先生方も3月からかなり苦しい思いをしたに違いありません。
 私は開校前から「塾学連携」という言葉を「共育」という言葉とともに使ってきました。「共育」は、保護者も教員も生徒も共に成長しようという考え方ですが、「子どもたちを育てるためにすべての立場の者が手を携えなければならない」という私の哲学に基づいています。決して“Win-win”という利害の考え方ではありません。
 「やっぱり学校に来て、生徒たちを見て、先生方と直接話をしなければ学校はわかりませんね」
 人間が好きなんですよね。
 こういう方々に見守られながら子どもたちは育っていくものだと改めて思いました。
 実際、開智未来の教育に賛同した多くの塾の先生方に支援されて、本校はここまで成長することができまいした。私も校長時代、たくさんの勇気と元気をいただきました。私も時間に余裕ができたので、今度は私の方が応援をできればと思っています。恩返しです。それから、やはり、子どもたちのために、です。

野菜物語15:ゴーヤが生きる意味

 朝晩めっきり涼しくなり過ごしやすくなると、8月の猛暑の頃には姿を見せなかった虫たちも、とたんに元気に活動を始める。暑さに耐えてきた野菜にも容赦なく襲いかかる。
 「狡(ずる)いじゃないか」と虫たちに言い寄りたくなる。
 「自分たちも植物とは違うかたちでじっと耐えてきたのだ」。虫たちにも言い分があるに違いない。
 よく見るとゴーヤの実や葉は相当にやられている。フンもたくさん見かけるようになった。調べると「ウリノメイガ」の幼虫らしい。葉を分けて探すと小さい幼虫たちがかなり見つかる。
 猛暑に耐え、涼しくなれば虫に耐え、一言も文句も言わずにゴーヤたちは今朝も14個の実をつけた。これで延べ524個。あとせいぜい1か月の寿命というのに最後の最後まで頑張り抜く覚悟のようだ。
 「君たちは何でこんなに頑張るのか」
 ある本には「遺伝子をつなぐため」と書いてあった。個体のために種を続けるのではなく、種を続けるために個体がある。それが生物が生きる意味であるということだ。自分の名を持たずに生物たちが生きる理由はここにある。
 人間は野菜たちから学ぶことができるのだろうか。
 ゴーヤの棚は「哲学の棚」なのかもしれない。もう少し一緒に過ごしていたい。

物語

 昨日から「動詞物語」というタイトルを「動詞の断片」と変更しました。
 「動詞物語」としたのは「野菜物語」の姉妹版ということで名称を統一させた方がよいのではと安直に考えたからです。私は「物語3部作」のようなものを考えていて、もう一つ「今昔物語」というシリーズを予定しています。こちらは、死語になってしまった昔の人の言葉を取り上げて、その言葉を再評価しようと目論む試みで、「今は昔・・」と書き始めてみようかなどとも夢想しています。
 もちろん、開智未来のホームページに「開智未来顧問」として文章を書くわけですから、身勝手な随想でよい訳もなく、教育や人間とつながるような文章にしようと心がけています。
 「物語」という言葉を私は好きで、開校時から「ここに未来がある、私の物語が始まる」という言葉をよく使っていて、かつては入学式・卒業式や学校説明会の折りに、B棟の東壁面にこの言葉の書かれた懸垂幕を下げたものでした。
 「物語」とは、「ことがら」というものを、直線的な時間の経過に置かれた単なる事実の断片でなく、意味をもったストーリーとして捉え直したもの。そんなふうに私は考えています。
 1日も1年も、そして一生も考えてみれば経過しただけのただの時間です。それに意味付けするのは人間です。振り返って意味づけするだけでなく、意味を求めて過ごすことでも物語となります。そんな3年間、6年間を開智未来で過ごしてほしい。「ここに未来がある、私の物語が始まる」には、そんな思いを込めました。
 「野菜物語」も目前で繰り広げられる野菜たちの姿に意味を見つけ、物語として語ってみたいという気持ちから付けた名前です。しかも、野菜という言葉は物語という言葉と相性がいいですよね。
 さて、「動詞物語」シリーズを3回ほど書くうちに、どうもしっくりとこないのです。私は各動詞の姿をじっくりと見つめてはいません。その動詞の一面を切り取り、勝手な解釈とエピソードをつなぎ合わせているにすぎません。まったくもって「物語」ではないのです。
 長い間、無数の日本の人々が、それぞれの生活の中で、いろいろな場面で、諸々の思いを込めてそれぞれの動詞を使ってきました。動詞ばかりではなくそれぞれの「言葉」というものは、名も知れぬ無数の人々がその物語の中で使ってきたものの総称なのです。私が各動詞について書く文章は、その断片に過ぎないのです。
 書いている時の私の気持ちを、少しばかり吐露したくて、言い訳がましい理屈っぽいことを書き連ねてしまいました。
 開智未来生には言葉を理解しようとする人、言葉を大切にする人になってほしいと願っています。

動詞の断片4:浴びる

 昨日、中学1年生の「渡瀬フィールドワーク」に参加しました。勤務日ではありませんでしたが、6月に学校生活を始めた第10期中学入学生たちの成長した姿を確認したくて、午前中だけ彼らの仲間に加わることにしました。
 今年はコロナの影響で開校年度からずっと実施してきた「里山フィールドワーク」を実施することができませんでした。今回のフィールドワークはその代替案として学年と加藤校長が企画したものです。里山フィールドワークのねらいのうち、「五感・もぎとり・感動」と「観察・発見・疑問」というねらいに絞った2日間の学習活動で、9月8日に引き続いて、昨日はその2日目でした。昨日の活動内容は、4時間近くの個人探究活動です。
 「一人で行動し、おしゃべりはしないように」
 「哲学」の授業で生徒たちに訴えたことです。おしゃべりで口を動かしていると五感は働かないし、観察もおろそかになります。疑問など起こるはずもありせん。また、人と一緒に行動すると自分の興味のあるものに「自由」に駆け寄ることもできません。
 この課題は中学1年生には少々難しいことは周知しています。大人だってすぐに人と連(つる)むものです。一人であり続けるには内面の充実が必要だからです。それでも、子どもたちのさらなる成長を望んで、これまで言い続け、時には強いてきました。
 なかなか一人で行動できないなあと思いながら、生徒たちと同様、広大な遊水池を歩きつづけました。真夏並みの日差しの中、うっそうと茂る芦原を歩き、遊水池の水辺をのぞき込み、鳥やセミの声を聞き、2時間ほど生徒たちと一緒に過ごしていると、ふと〈浴びる〉という動詞が浮かんできました。
 太陽を強い日差しを浴びる。膨大な草々の香りを浴びる。葦を騒がす風を浴びる。水辺の空気を浴びる。鳥やセミの声を浴びる。
 〈浴びる〉とは全身で受け取ること、感じること。最近忘れかけた「全身」という感覚です。手だけ水につかっても「浴びる」とは言いません。どっぷりと水に浸からなければ浴びたことにはなりません。本を浴びるように読む。酒を浴びるように飲む。そうしないとその醍醐味を味わえません。
 少なくとも今回、生徒たちは「浴びる」ことを体験しているようです。このことをまず大切にしたいと思います。次の「哲学」の授業では「何を浴びましたか」と聞いてみようかしら。
 私も久しぶりに「生徒」をたくさん浴びました。「生徒」は全身で浴びるものですね。頭で理解しているだけではだめなんですよね。
〈追伸〉
 今回から「動詞物語」というタイトルを「動詞の断片」と変更しました。メッセージの分量が長くなるので、次回に説明いたします。

野菜物語14:夏野菜の人生

 東向きの自室の窓から葡萄棚越しの空を見ると、南から北へと薄い雲が動いている。
 時計は5時57分。雲の下方は朝日に照らされ、雲の上方は青い空とのコントラストで白さが際だつ。
 秋がやっと始まったようだ。
 こうして秋が始まると夏野菜は姿を消していく。8月下旬には枝豆とカボチャを食べきり、その後、ズッキーニ、モロッコ(いんげん)が枯れていった。7月の長雨で弱ったミョウガは例年より早く朽ちていき、五月の連休前に苗植えしたミニトマトも1週間前にその棚を撤去した。
 夏の終わり頃から、夏野菜は弱っていく。実のつきが悪くなり、虫に苛(さいな)まれるようになる。すでに424個の実をつけたゴーヤも弱々しくなり、小粒の実には時々小さなイモムシがつくようになった。オクラの背丈もかなり高くなった。あとどれくらい実りを楽しめるのだろうか。
 寂しくなるなあ。
 思い起こすと、あの勢いはどこに行ったのだろう。
 連休あたりで植えた苗はすくすく育ち、枝を張らせる。その姿には勢いがある。グランドで走り回る若者のようだ。その後、花が咲き、実を付ける。この頃は、虫や病気をはねつけ、夏の暑さには敢然と闘って子どもたちを育てる。こちらは母親のようだ。
 子どもたちは大きくなり、親元から離れていき、やがて夏野菜は虫に食べられながら枯れていく。そして、秋が来る。
 わずか4か月ほどの期間で、人の一生を見るようだ。
 夏野菜は運命に抗いながら従順である。
 これが自然というものだ。ところで、彼女らはどんな気持ちで生きているのだろう。植物なのに、いや、植物というものは、ふとしたときにその心を人は感じるものである。
 ひっとすると。
 私も野菜の気持ちを理解できるかもしれない。
 私は妻に抗いながら従順である。
〈追伸〉
 9月5日のメッセージで『街場の教育論』と書きましたが、寺岬先生から『街場の文体論』 (内田樹著、文春文庫)だとご指摘いただきました。全くの聞き違い、勘違い。浅学を恥じ入るばかりです。早速購入して読んでみたいと思っています。

動詞物語3:戯れる

 週2回孫の世話をするようになった。もともとは金曜日の夕方から夜のみだったが、日曜日の日中5時間ほども預かるようにした。親たちが子育てで煮詰まらないようにとの考えからである。長女は仕事もしているので身心を休ませてやりたいという親ばかの気持ちもある。
 小学校1年ともうすぐ3歳になる二人はじっとしていない。これでは親は疲れ切ってしまう。私は子育ての頃は仕事に没頭していて、妻に任せきりだった。「私は仕事をしながら一人で3人の子どもを育てた」との妻の言葉は決して恨み節ではないが、心からの言葉に違いない。
 それにしても孫たちは動き回る。私の足下にじゃれつき、ボールを蹴っては私を一緒に走らせる。プールでは私の周りを潜水する。
 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」
 『梁塵秘抄』にある有名な「今様」とよばれる歌謡である。
 「戯(たわむ)れる」とは「遊ぶ」の意で用いるが、小さな子ども独特の「身体の動き」を意味しているように思う。やはり、動詞は身体の動きを表す品詞であると確信する。
 孫たちを見ていると、カブトムシと戯れるとは、カブトムシを触って驚喜することである、が分かる。彼らは、風に向かって走り、音楽を聞くと自然に身体が動く。
 風と戯れその友となり、音と戯れて音そのものになる。戯れるとは動きの中で相手と一体化することに違いない。
 私は佇(たたず)んで、そんな思いに耽るだけである。彼らの方がずっと楽しそうだ。
 年を取っても戯れる身体でありたい。
 さて、もうじき孫たちが来る。負けじと戯れようか。

動詞物語2:取る

 「画面上で読むのと本を読むのでは理解が違いますね」
 「そうですね」
 「僕は画面上で文章を読んでも頭に入ってこないのです」
 先日、職員室で日本史の寺岬先生からそんな話を切り出された。
 「本を手に取るとその重みや紙の手触りを感じるからだと、内田樹の『街場の教育論』にあったのだけど、手に取ることが大切なのですね。それに本だとどこまで読んだのかが分かるのもいいですね。このあたりだから本当の結論はもっと先にあるだろうとか、あと少し頑張って読もうとか」
 寺岬先生は読書家で、しかもどの本にどんなことが書いてあったのかをよく記憶していて驚嘆してしまう。私もこの本は2度ほど読んだのに、何が書いてあったのかさえ覚えていない。
 「たとえ電子ブックでも、画面で見た文章は単なる情報だから」
 ポツンと言った彼の言葉にいろいろ考えさせられた。
 たしかに、私は本を読むとき指先でページの上や下の角の部分をよく折り曲げる。大事なページを記録するためだ。書き込みもするし気になったところは赤の色鉛筆でもぎとる。高校時代は愛読書をポケットに入れてよく触っていた。私にとって愛読書は何度も繰り返して読んだ本というより、何度も手で触っていた本だったことに気付いた。
 「たしかに頭で理解するだけでなく、手を使っているなあ」
 「手に取る」とは手で直接触ることである。つまり、身体で本と関わっているということだ。
 「手に取るように分かる」という言葉がある。考えてみれば不思議な言葉だ。「よく分かる」という状態が「手に取る」という言葉で説明されている。
 頭で分かるだけでは十分に分かったとは言えない。肌で感じ、直接関わってこそ本当に理解できる、ということか。ならば、私は自然を手に取って理解しているか。人間は?生徒は?
 そこでベランダのゴーヤ棚からゴーヤを1つもぎって、手に取ってみた。重さや触感を感じる。たしかに手中に「一個のゴーヤ」がある。
 私の妻は私の身勝手を受け止めたり、適当に受け流したりして38年間一緒に暮らしてきた。私を手に取るように理解しているのだろう。対して、私は彼女を手に取るように理解しているのだろうか。手のひらのゴーヤを見つめながら神妙に考えた。
 待てよ。
 妻は私を手に取っているのではなく、手玉に取っているだけなのかも知れぬ。
 「取る」とは面白い動詞である。

動詞物語1:蒔く

 昨日の朝に雨が降ったので、午後4時頃から畑を耕し直し、畝をつくり、冬野菜の種まきをした。畑は耕され、畝がつくられるとき凛々しい畑の顔になる。初々しさ、清々しさ。まさに凛々しい子どもたちの顔になる。
 その畑に種を蒔く。種の中には生命がある。土にも生命感がある。なぜか厳かな気分になる。 夏野菜は苗植えが多く、種で植える野菜も種は粒が大きいのが特徴だ。比べて、冬野菜は苗植えはなく、種は小さい。今回は白菜、大根、にんじん、タマネギの種を蒔いた。どれも定番の冬野菜である。
 種を蒔くと言えば、岩波書店のマークとしても有名なミレーの『種まく人』を思い出す。麦の種を蒔いているのだろうか。
 ふつうはそんな勇ましい蒔き方はしない。オクラや枝豆やいんげんなどは、一粒一粒を指でつまみ、指をさしてつくった穴に2粒ずつ大事に入れる。その後、土を被せて、親指の根本の肉球でやさしく押す。にんじんや葉ものは筋蒔きといって、土に指で直線を描き、中指と人差し指と親指の間に種をひとつまみして、それをこすり合わせるようにして、直線の中に種を蒔く。そして、土を手のひらにのせて指の間からそおっといふるい落とす。
 蒔くとは慈愛に満ちた動作である。
 「蒔く」は「くさかんむり」に「時」と書く。種を蒔くには時期があるという意味なのだろう。野菜のことを考え、その適したときにやさしく種を蒔く。「教育」というものを考えてしまう。
 水をまく、笑顔を振りまく、幸せの種をまく。「まく」という表現は、野菜の種を蒔くだけではない。
 水をまくと自ずから地面の温度が下がって心地よくなり、笑顔で振りまかれた幸せは受けた者がその幸せを発芽させて成長させる。「蒔く」はスタートに過ぎぬ。あとは自然を信じ、人を信じるだけである。
 蒔くとは信じる動作である。
 やはり「教育」というものを考えてしまう。教師は教える人ではなく、蒔く人なのかもしれない。蒔く教師と凛々しい表情の子どもたち。冬野菜の種が蒔かれた畑を見ながら、そんな情景を夢想している。
 「蒔く」。素敵な動詞だ。いや、動詞という品詞が素敵なのだろう。