検索
顧問感覚

コモンセンス

お詫び

開智未来のHP管理者です。

先日の同一メールが何度も送信され、皆様方にご迷惑をかけたことに関しまして心よりお詫び申しあげます。

その後、しばらくの間メール配信サービスを止めて、サーバー会社にシステム的な原因究明を徹底的に行ってもらいました。

その結果、それらしき原因が見つかりましたので設定変更を行い、本日から通常通りのメール配信を再開することとしました。

しかしながら、今回の措置が正しいかどうか、まだ様子をみる必要がございます。

つきましては、前回のような事態に三度陥った時は、直ちに設定変更はするものの、何通かのメールが皆様に届いてしまう可能性がございます。

どうか、その場合には、当該メールを削除していただくなどの対応措置を取っていただきたく、お願い申し上げます。

ご迷惑をおかけしますが、ご理解、ご協力をお願いします。

 

開智未来 管理者

 

里山考(1)

 少々雨空に倦みつつ、里山から帰って4日目の朝を迎えました。また里山探究FWの余韻が残っていて、生徒たちと一緒に過ごした3日間のことわ、メモートを見ながら振り返っています。
 今回の里山探究FWでは、1学年の先生方と話し合って、タブレットとカメラを持っていかせないことにしました。保護者の方の中には記念の写真は?と心配なさった方もいるかもしれません。
 このような決定をしたのは、早朝アクティビティや森林探究などの活動の最中、生徒たちがすぐにタブレットやカメラで撮ろうとするからです。じっくりと観察しようとはせず、まず興味をもったものを写し、あとで宿に帰ってからその写真をスケッチノートに描くのです。これではただのお絵かきであって、「観察・発見・疑問」という大切な知的活動にはなりません。
 実際のものをしっかりと見る(観る)。
 便利な機器はこのような知的活動を生徒から奪ってしまいます。
 しっかりと観察すると生徒たちは様々な疑問を持ちます。タブレットやスマホがあるとその疑問についてずくに検索して調べることができます。すぐに答えが見つかります。たしかに便利です。私もしばしば利用しています。しかし、そこで得られるのは単なる「情報」です。
 「知識」とは、その言葉に「知」という語がある以上、知的な活動を伴わなければなりません。疑問をもったらあれこれと考え続ける。このことが大切なのです。しかし、タブレットを持つと生徒たちはすぐに答えを見つけてしまいます。これでは「仮説」は生まれません。これもタブレットを持たせなかった理由の一つです。
 「便利になることは一つ大切な人間の能力を失うことである」
 いろいろな機会に私が言っている言葉です。
 車は便利である。しかし、自らの力で歩く力が弱まる。
 自転車は便利である。しかし、歩いた時のように立ち止まることがなくなる。
 コンビニ食は便利である。しかし、食べ物を調理する力を弱める。
 カメラは便利である。しかし、脳裏に止め置く力が弱まる。
 AIは便利である。しかし、「……」。
 「……」に何が入るのでしょうか。「便利」という概念が経済活動の中心となっている現代社会について、私たちはもっと考えてみなければならなでしょう。もちろん、便利であることは必要なことですし、人間の活動を拡大させ、また、能力をさらに発揮できるようにしてくれます。しかし、「勉強に便利」なことは果たして知的活動にとってよいことなのか。少なくとも手放しでよいことなのでしょうか。そんなことも考え込んでしまいます(最近、ますます哲学っぽくなってきたようです)。
 メッセージが長くなりました。続きは明日としましょう。明日は「カメラ」について考えてみたいと思います。
 雨の一日になりそうですが、よい1日をお過ごしください。

里山と成長

 昨晩、夜11時頃に里山から帰宅し、今日は7時50分から東大ゼミ、1時間目には中学2年生の「哲学」の授業を実施しました。
 哲学の授業では、「里山」のことについて話をしました。ちょうど1年前に行ったので、生徒たちも興味をもって聞いていました。
 「里山から1年、そのフィールドワークで学んだことをしっかりと続けているか、この1年間で成長したか」
 私は生徒たちに訴えました。
 「自然体験のキーワードは覚えていますか」との問いかけにほとんどの生徒ははっきりと思い出せないようでした。とても残念でした。
 「五感、もぎとり、感動です。このキーワードは卒業するまで、卒業してからも、私のような年になるまでずっと覚えてほしい、とても大切な言葉です。しっかりと見ていますか。味わって食事をしていますか。五感を鋭くして自然や人に接すると、いろいろなことに感動できるようになります。そのことを1年前の里山で学んだはずです。思い出してください。あれからどんな1年を送ってきたでしょうか。振り返ってください」
 私は8年前の第1回里山フィールドワーク以来、「五感、もぎとり、感動」「観察、発見、疑問」「自立、自律、集団」といったキーワードを生徒に暗記させ、その意味を考えさせ、3泊4日の里山で実行させてきました。これらのことを身に付けた大人になってほしいからです。
 そして、ずっと参加して、それらを実行している大人(「じじい」かな?)の姿を生徒たちに見せようと努めてきました。
 さて、昨晩別れた1年生たちは、里山でのすべてのプログラムを終え、今、埼玉へ向かっていることでしょう。
 里山で感動しましたか。
 是非、その感動を保護者の方へ伝えてほしいと思います。
 里山で成長しましたか。
 是非、その成長した姿を保護者の方々に見せてほしいと思います。
 そして、学んだこと感じたことを忘れずに、これからも成長しつづけてほしいと思います。
 あと数時間で家に帰ることでしょう。
 1年生の保護者の皆さん、成長したわが子をご覧ください。そして、成長したわが子にふさわしい親子関係を作り始めてほしいと思っています。

明日から里山

 5週間ぶりのメッセージです。
 この間、考えつづけることが多く、文章で自分の考えをまとめるための「脳の空き容量」が不足していました。拙い文章とはいえ、文章を書くためには、思考の流れを確保し留める時間と空き容量が必要です。そんなもっともらしい言い訳をして、久しぶりのメッセージを書きたいと思います。
 明日から中学1年生たちは「里山探究フィールドワーク」に出発します。開智未来には週2回勤務ですが、第1日目から3日間、私も参加することになりました。
 下見等も入れると、今回で10回目の里山行きですが、子どもたちと一緒に「ワクワク」できることにワクワクしています。3日間、走り回り、歩き回り、「五感・もぎとり・感動」をして過ごすつもりです。楽しむ力、よろこぶ力、感動する力、ワクワクする力。寸毫も衰えていないと自負しています。生徒たちに「いきいきした表情」を与えたいと思っています。
 さて、九州地方の豪雨のニュースを聞き、ご心配の保護者の方もいらっしゃると思います。生徒たちの泊まる飯山市の北条地区は、崖も急な斜面もなく、近くに氾濫するような川もありませんのでご安心ください。もちろん、引率責任者である藤井教頭を中心に、1学年の先生方と細心の注意をもって積極的なフィールドワークを行ってきたいと思います。
 1年生の保護者の皆様、子どもたちの成長した姿を楽しみにしていてくださいね。

非薄味(薄味に非ず)

 今日は開智未来で、4つの学年の「哲学」の授業を行う日です。1時間目は中学2年、2時間目は中学3年、4時間目は中学1年、5時間目は高校1年です。
 それぞれ、気合いと思いを入れて授業をしました。
 「うざいかもしれないけれど、気持ちを入れて授業を行う年寄りを見るのも大事な経験です」
 自虐的かもしれませんが本音です。
 世の中がスマートになり、テクニカルになり、軽やかになりました。気合いや思いは「昭和」の遺物になりかけています。
 薄味で心地よい、とはほど遠い、胸焼けのするような授業かもしれませんが、子どもたちの心を少しでも揺さぶれればと考えています。
 多くの方に体調を心配されましたが、おかげさまで、元気いっぱいに授業をしています。

小宇宙

 7か月ぶりの疾走の残照(残傷)を身体に感じながら(たかが筋肉痛ということです)、昨日の体育発表祭の翌朝を迎えています。今日も朝から見事な快晴。昨日以上に暑くなりそうですね。
 昨晩から考えているのは、この体育発表祭に、生徒たちも保護者の方、教員たちも卒業生たちも、一人一人がドラマを持っていたということ、です。
 昨日、高校3年の女子生徒たちが、後輩の高校2年女子のマスゲームに拍手を送っていました。9回の体育発表祭で私が初めて聞いた、後輩への「思わずの拍手」です。彼女たちにどのようなドラマがあったか、私は知りません。しかし、何らかのドラマがあり、成長があったに違いありません。
 高校課程に上がる際に、他の学校へ外部進学した中学卒業生たちが遊びにきてくれました。かつての同級生たちの躍動を見て、どのように感じていたのでしょうか。私も頑張るぞと決意したかもしれません。ここにもドラマと成長があったはずです。
 わが子の激走する姿を見て、昔のことを思い出した保護者の方もいたでしょう。先生方も自分のクラスの経営、生徒とのこと。いろいろな思いがあって、この体育発表祭を振り返り、月曜日からのことを考えているにちがいありません。
 きっと数百、いや千以上のドラマがあったにちがいありません。
 人間は物語をつくり、物語に生きる生き物である。
 この世界は一人一人の物語によってなりたつ宇宙であり、開智未来も一つの小宇宙である。
 葡萄棚のある自室から、早朝というのに照りつける朝日に輝く、野菜や植栽を眺めながら、そんなことを考え続けました。
 開智未来に関係する皆さんにとって、今日も物語の一日でありますように。

熱中

 猛暑の五月空の下、最後まで生徒たちのエネルギーが尽きることなく、体育発表祭が終了しました。
 なぜ、子どもたちは夢中になって、文字通りの熱中を走り回るのだろう。
 そんなことを考えながら、生徒たちの姿に感動していました。
 私事ですが、昨年の10月に両膝を痛めて以来、ずっと走ることができませんでした。生徒たちの姿を見て、走れるような予感がして、スーパーエイジング走を走ってみました。320メートルを痛みなく走り切ることができました。
 生徒たちのエネルギーが作用したのでしょうね。
 これが「生」というものの正体を垣間見たような気がしています。

教育の原型

 木曜日は開智未来勤務の日。火曜日に予定されていた体育発表祭の予行が、雨により本日に変更されたため予行に参加することができました。
 元気いっぱい、嬉しそうに動き回っている生徒たちと同じ時間と空間を過ごせるということは、本当に幸せなことですね。
 約3時間半、太陽の光を浴び、新緑の風を浴び、生徒たちのエネルギーを浴びました。まさに、日光浴、森林浴、生徒浴。おかげで気力と体力が蘇ってきました。
 もっと頑張ろう。
 生徒たちが頑張っている姿を見ると、頑張ろうという気持ちになります。
生徒たちも、私たち教員が頑張っている姿を見ると、頑張ろうという気持ちになるのでしょうね。
 これこそが教育の原型であり、理想なのだろうと私は考えています。
 もっともっと頑張ります!

生徒の力

 今日は大学勤務の日なのですが、荒天の中、4時間半の通勤ができるほどの体調ではないため、また、教育研究所の仕事や「哲学」の準備もあるので、一日開智未来で執務をすることにしました。
 というわけで、5日ぶりに開智未来に来てみると、今週末に体育発表祭を控え、生徒たちは体育発表祭モードになっていました。この熱中度は開校以来の伝統ですね。
 放課後、体育館や教室を回ると各クラスとも熱心に、応援合戦や学年種目の練習をしていました。一人一人を見ると、皆いい表情をしています。
 これが学校だ。
 これが生徒だ。
 久しぶりに教員の心が蘇ってきました。
 教員という種族は、子どもたちのこの表情や姿を見るためにこの職を選んだのである(世間の人にはわかってもらえないかもしれませんね)。
 思えば、8年前、開校した頃は授業中や放課後、こうやって学校の中を歩き回ったものです。だんだんと生徒が増え、それに伴い仕事も増えて余裕がなくなり、机の前に座りつづけることが多くなってきました。
 これが教育だ。
 本当に久しぶりに新鮮な気持ちになりました。そして、元気が湧いてきました。体調もよくなりそうな気がしています。生徒の力ですね。
 さて、雨のため本日の午後に予定されていた体育発表祭予行は木曜日の午後に延期になりました。木曜日は開智未来勤務の日なので、私も久しぶりに体操服に着替えて、グラウンドに立っててみたいと思います。やっぱり、体調が戻ってくる兆しを感じます。

咳をして

 「こほこほと咳する 本を読む」
 尾崎放裁の有名な自由律俳句、「咳をしても一人」ほどの孤独感ではありませんが、咳はどうも人の意識を内側に向けるようです。戯れて一句捻(うな)ってみました。
 人間というものが、やっと少しばかり見えてきて、昔の人たちが必死になって、多分、周りの人からは狂っているようにみえるほど、夢中になって考え行動して、そこから沸(わ)き上がった言葉の結晶を、慈(いつく)しむように読めるようになってきました。
 そこでしばし考えました。
 夢中や熱中は人間の生き方としてはとても大切なこと。夢中になって勉強する、仕事に熱中している、等々。
 子どもの頃は、遊びに夢中になっている姿を人はほほえましく見守りますが、ある程度の年齢になると、手放しでよしとしない雰囲気が生じてきます。勉強や仕事であっても、「勉強ばかりして」「仕事ばかりして」とわずかばかりの非難が添加されます。
 なぜなのだろう。
 そんなことをしばし考えました。暇ですね。ちなみに「暇」をギリシア語で「スコレー」と言います。これはスクール(学校)の語源となっています。
 実は夢中や熱中は我を忘れること、つまり、そこに「狂」というものがあるからなのでしょう。それが私の仮説です。
 狂が認められない、さらに許されない時代になりました。酔狂などは死語になりつつあります。たぶん生徒たちには伝わらないでしょう。
 「歌舞伎」という言葉の元となっている「傾奇(かぶき)」は、異風を好み常識を逸脱した行動に走る者のこと。「狂言」にも「狂」という字が含まれています。共に格式ある伝統芸能となっています。絵画というものは画家が夢中に、ときには狂となって描いたものでしょう。しかし、その「狂」の結晶が、美術館に整然と、あたかも理性の代表のように配置され、人々はそれを理知的に観賞しています。美術館の静けさ、厳かさは狂とは対照的なものです。
 1年ほど前のメモートにこんな言葉が記されていました。
 「正常な狂を許さないのは、一般大衆の正常という狂である」
 私は、常に夢中になって生き続けたいと思っています。
 だめ押しのお粗末な句を一句。
 「現世(うつしよ)の 夢中に居りたし 哲学者」