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顧問感覚

コモンセンス

 これまでの人類の歴史で、人類が一番恐れたのは、戦争ではなく、「疫病」だったに違いありません。「疫病除け」「疫病神」なども、昔の人々には切実な言葉だったのでしょう。
 なぜなら、人々は自然の中に生き、疫もまた自然の中から生まれてくるものだからです。
 昨日、不謹慎ながら「緊張感と清涼感」という言葉を使いました。世界中で多くの人々が亡くなっているのに「清涼感」という言葉を使うのは如何がなものか、と感じた方も多かったと思います。
 私も言葉足らずを感じていたので、少々弁明したいと思います。
 人知や人工に溢れた社会が、ウィルスという原生生物に脅かされているという事実を目の前にして、人間というものが、やはり自然の中で生きているという事実を改めて確認できたこと、そのように受け止めざるを得なくなったこと。その気持ちを表す言葉として「緊張感と清涼感」以外の言葉が見つからなかったのです。
 現在、特効薬も絶対な防御方法もありません。
 あれほど自然を支配したと豪語してきた人工的文明が、こんな原始的な生物になすすべがない。これが人間なのです。そんな人間であることの厳しさ、ときには潔く自然の運命に身を任すしかないという覚悟。なぜか、すっきりした気分になるのです。
 「覚悟は悲壮感ではなく、清涼感を伴うものである。」
 ちょっと哲学風に気取ってみました。
 さて、開智未来生の皆さん、「疫病除け」よろしくマスクをして、「疫病神」を石けんでよく洗って、この状況を耐えて乗り切りましょう。
 耐えること-これが自然に生きる人間が発達させた知恵であり、能力だったのではないでしょうか。

新年度開始

 今日は全職員が出勤して、新年度の準備を開始しました。
 不安の中、新年度が始まりました。
 歴史を振り返ると、世界でも日本でも、人々は何度も疫病に苦しめられてきました。それが過去の出来事のように人類は思っていましたが、テクノロジーの進んだ現代においても、人間は変わっていなかったのですね。
 政府がどうにかしてくれる。科学が解決してくれる。
 現代人が惚けていたことを、今回の新型コロナウィルス禍で私たちは気付きました。
 結局は、自分のことは自分で守る。
 人間は強くなければ生きていけないのですね。
 9年前の東日本大震災のときは、被災者とそうでない者に別れていました。今回はそうではありません。皆、当事者になっています。
 科学が進んでも人間は人間である。
 不謹慎かもしれませんが、緊張感と清涼感を覚えています。
〈開智未来生へ〉
 この状況をよく見てほしい、人間というものを考える契機にしてほしい、と思います。

春が来た:臨時休校24日目

 近くの公園の桜が満開になりました。一昨日は、散歩がてらに、季節はずれの3月中旬の桜を、朝、昼、夕と3回眺めました。私が生まれてから最も早い花見です。
 世界中は、新型コロナウィルスの感染拡大で深刻な状況となっていますが、桜の花はいつものように鮮やかに、まさに華々しく咲いています。不思議な気分ですね。
 ふと、9年前のことを思い出しました。開智未来が開校する直前の3月11日に東日本大震災が起こりました。電車はストップし、ガソリンが不足し、計画停電で1日のうち何時間かは電気のない生活を送りました。放射能汚染のニュースにもおののいていました。そんなとき、いつもと変わらずに咲く菜の花を見て勇気づけられたものでした。
 今度は桜の花。
 なぜ、植物は花を咲かせるのだろう。
 神様が植物を創造した意味がほのかにわかったような気がします。
 さて、私ごとですが、今しがた、開智教育研究所の報告書の編集が終わりました。慣れないワードによる作業で(私は通常、一太郎を使っています)、ずっと気の重い日が続いていましたが、この作業の終了で、2019年度の私の仕事はすべて終了しました。これから一気に、2020年度の準備を始めるつもりです。早速、来年度の「哲」学の授業の計画を立て始めました。
 何かが終わったときは、即、次の一歩を踏み出す。
 本日の開智未来へのアドバイスです。
 加えて、これから4月1日までの1週間、西田幾多郎の哲学を集中して学びたいと思っています。実は、今朝5時半から関係の本を読み始め、そのノートもつくり始めました。
 春が来ました。春は必ず来るものです。

生徒ありて:臨時生徒登校日

 久しぶりに生徒たちが開智未来に溢れています。やはり、学校というところは生徒がいてこそですね。ヨーロッパの大学のいくつかは、歴史的には中世に遡りますが、その中には学ぼうとする者たちがギルド(組合)をつくって教員を迎い入れてつくられた学校もあります。たしかに、学ぶ者の存在があってこそ学校が生まれるのですね。
 久しぶりに学校です。そして、生徒とともに桜の花が舞い込んできました。
 さて、今日は中学3年生の進級式・卒業式です。高校卒業式では祝辞として短歌を詠みましたが、今日は詩を贈りました。こちらも初心者の拙い詩ですが、メッセージを込めたつもりです。
 ☆  ☆  ☆
立ち止まるとき-「再生」の第7期中学入学生の皆さんへ

 走り続けるとき、歩き続けるとき、動き続けるとき
 時間は 過去から未来へと過ぎ
 空間は 前方から後方へと流れ
 かくして
 彼方(かなた)は此方(こなた)へ
 我が身をすり抜けて 此方は彼方へと消え去る

 走り続ける者よ、歩き続ける者よ、動き続ける者よ
 そっと足を止めよ
 決意して立ち止まれ

 立ち止まるとき
 時間は、止まって「今」となり
 空間は、留まって「ここ」となる
 こうして君は
 今、ここに立つ

 360度を見渡し
 通り過ぎた景色を
 取り巻く風物を 確認せよ
 さらに 足元を見よ
 道の上に 君の足が小石とともにある
 さらに 頭上を見よ
 覆いかぶってくる天がある

 水を聞け 風を見よ
 草を嗅ぎ 君が踏みつけた土を感じよ

 僕らは まばゆい世界に生きているよ
 
 立ち止まると 新たな世界が現れる
 迷いながらも
 その世界の入り口で 挑む方角を決断せよ
 そして 再び 生きる歩みを始めよ

 僕らは この一歩を「再生」と呼ぼう

 今、君たちは
 立ち止まる時に居る
 水を聞け 風を見よ
 草を嗅ぎ 再生の土を踏みつけよ
 ☆  ☆  ☆
 進級・卒業、おめでとうございます。開智未来生に幸多かれ。

動き:臨時休校17日目

 空気が停滞すると頭の中も停滞してくるものです。
 新型コロナウィルス感染が報じられる事態が1か月以上が続き、学校の臨時休校、マスク不足、イベントの自粛など私たちの生活も少しずつ影響を受けて、停滞感が強まっています。
 頭が停滞すると、頭も身体も心も動かなくなってきます。
 私の経験上、これはとても危険な状態です。
 こういうときは、何しろ動くことです。これも経験から得た知恵です。
 身体を動かす。新しいことに挑戦する。歩く。走る。自転車に乗る。踊る。新たな本を読み始める。詩を書く。和歌をつくる。絵を描く。土をさわる。木に登る。川岸でからし菜を摘む。ふきのとうを採る。つくしを採る。ジャガイモを植える。菊芋を掘る。草取りをする。食器を洗う。料理に挑戦する。リンゴの皮を剥く。ブランコに乗る。すべり台を滑る。布団の上ででんぐり返しをする。鉄棒で逆上がりをする。懸垂をする。2020年度の日誌を書き始める。「哲学ノート」シリーズを書き始める。
 この間、私が試みた「動き」です。
 ちなみに、「哲学ノート」シリーズとは、「身体」「自己」「思考」「言葉」などジャンル別に考察したことをそれぞれ1冊に記したもので、12冊ほど同時に書き始めました。
 動くと停滞している自分の周りの空気がかき回されて、新たな新鮮な空気が流れ込んできます。
 開智未来生の皆さん。どんな「動き」をしていますか。始めますか。
 動くとこれまでとは違った風景が見えてきます。新たな香りがして、新たな音を聞こえてきます。
 臨時休校17日目、停滞感を吹き飛ばしましょう。

Gifted:臨時休校16日目

 昨日偶然に、「ギフテッド(gifted)」というテーマの番組を、最後の10分ほどチラ見しました。「ギフテッド(gifted)」とは一般の人が持っていないような特別な才能を有した「天才」のことを言います。それゆえにこの社会では生きづらく、ときには、その特別な才能を発揮できずに過ごしてしまうようです。
特に「ギフテッド(gifted)」は学校教育では生きづらいようです。また、その才能も伸ばされにくいようです。一般の枠を超えた能力なのですから、しかたがありません。学校教育という一般の枠では対応不可能なのです。
 ところで、「ギフテッド(gifted)」とありますが、その才能は誰からギフトされた(gifted)のでしょう。英語はキリスト教文化ですので、もちろん、天(神)から授けられたということになります。そう、「天賦の才」の「天賦」です。明治時代に「天賦人権説」が唱えられましたが、これも「gifted」を訳したに違いありません。
 ふと思いました。
 天が授けたものならば、特定の人にだけではなく、すべての人に「ギフテッド(gifted)」されたのではないでしょうか。
 きっと私にもおこぼれほどの、ほんのわずかでかすかな「ギフテッド(gifted)」はあるはずだ。あっていいではないか。そして、生徒たち一人一人にもあるはずだ。
 誰にも特別な才能がある。笑顔が素敵だ、人のことを思いやる力がある、空想力がある等々、その才能を伸ばして発揮すれば、どんな小さなことでも、社会でその力を発揮できるはずだ。その力を一人一人に発見して伸ばせる学校をつくりたいと、「才能発見プログラム」を企画したことを思い出しました。
 1907年(大正6年)に、澤柳政太郎は成城小学校を創設した際、その趣意書で「個人の天賦の性状・能力を伸展させる」ことを教育の目的にしました(小針誠著『アクティブラーニング』講談社現代新書、2018年、p.75)。115年も前のことです。今の教育が昔と比べて進んでいるわけでもないのですね。
 さて、開智未来生の皆さん、この有り余る時間の中で、どんなにささいなことでもいいですから、自分の「ギフテッド(gifted)」を探してみませんか。
 「私にはギフテッド(gifted)がある。しかし、ギフテッドだから人から評価されないのだ。でもギフテッドだから仕方がないのだ」「変わっている?天賦の才があるのだからそう見られても当然!」
 楽しくなってきませんか。

卒業おめでとう:臨時休校14日目

 雨の中の卒業式でした。今日のメッセージは、卒業式での顧問である私の祝辞に代えたいと思います。卒業生と職員だけの卒業式でしたので、その雰囲気の一端をお伝え出来たらと思います。
 ☆  ☆  ☆
 躍動の第4期中学入学生の皆さん、再生の第7期高校入学生の皆さん、卒業おめでとうございます。保護者の皆様の参列も、校歌や学年歌の斉唱もかなわず、君たちの大切な旅立ちを祝わなければないことをとても残念に思います。しかし一方で、この静寂の中で、卒業式というものの本義に触れたような心地がしています。
 君たちに短歌を3首つくりました。初心者の拙い歌ですが、どうか受け取ってください。

 躍動と再生の名の君たちは 幸せなりしか あらためて問う
 (躍動と再生と名づけた君たちは、開智未来で幸せだったのだろうか。あらためて自らに問いかけている)

   このときは 歌わせてしか 歌はばや われらの校歌 君が学年歌
 (新型コロナウィルスの脅威のときではあるが、この卒業のときだけは、私たちの校歌と君たちの学年歌を君たちに歌わせたいものだ。一緒に歌いたいものだ)

 ぬばたまの闇を旅立つ運命(さだめ)なれば 未来の光は君らにこそあれ
 (新型コロナウィルスが拡大する闇の時に卒業する運命だからこそ、開智未来の光は君たちを照らすだろう。そして、君たちには光り輝く未来が来るだろう)

 卒業おめでとう。
 保護者の皆様、ご卒業おめでとうございます。

その日:臨時休校10日目

 その日、私たちは未来を失った
 土手には菜の花が咲いていた
 その日、私たちは未来を夢見た
 空には雲雀が鳴いていた
 その日、すでに私たちはここを目指して歩きだした
 そして、ここに未来が生まれた
 「これ」は、触れ得る〈もの・こと〉
 「あれ」は、遠くに眺める〈もの・こと〉
 あれこれのあいだにあるそれってなあに?
 「それ」は、共に指さす〈もの〉
 「それ」は、共に思い浮かべる〈こと〉
 その日をいつまでにその日と言いい続けよう
 ☆   ☆   ☆
 東日本大震災から9年の年月が経ちました。そして、今日から開智未来は10年目の日々を開始することになります。今、新型コロナウィルスという災いに日本中、世界中が直面しています。人間には夢見る力があります。夢は未来をつくり、未来は今をつくります。
 「日本から未来が消えたときに、未来という名の学校が生まれた」
 入学式のたびに私が言ってきたことです。
 苦難のなか、新たな未来に向かって歩き始めましょう。
〈時間をもてあましている人へ、時間に飽きてしまった人に(その5)〉
 新聞やテレビのニュース等で、東日本大震災について考えてみましょう。そして、自分が考えたことを文章にしてみましょう。

木登り:臨時休校9日目

 3月6日(金)にこのメッセージをアップしたところ、アプリケーションのバグにより、何通もメッセージが送付されてしまいました。大変ご迷惑をおかけしました。7月に同じことがあり、メッセージをアップすることが怖くなって、それを契機に(いい言い訳にして)、メッセージを書くことから遠ざかっていた時期もありました。
 暴走メールの恐怖はありますが、これを口実に再び楽をしようとしないために、また頑張ってメッセージを書こうと思います。よろしくお願いします。
 この土日は受験生に匹敵するぐらい、読書と勉強(研究)に浸りました。まだ一日8時間までは集中して勉強できる身体のようでホッとしました。とは言っても、昔のように12時間勉強するのは無理のようです。
 日曜日は、勉強の合間に1時間ほど散歩をしました。歩くことは、頭の中を整理したり、考えを深めるのにとても効果があります。開智未来生の皆さんにも、勉強の合間の散歩をお勧めします。
 散歩の途中の公園で、小さい頃に木登りが好きだったことを思い出して、手頃な木を見つけて登ってみました。
 いつまでも子どものようなみずみずしい気持ちを持っていたい。
 登ってみると、冒険心と野生の気分でワクワクしました。手で触ったときの木の触覚、足にかかる自分の体重、日常では用いない身体の使い方。そして、ちょっと高いところから見える風景。忘れかけていた懐かしい感覚です。
 背丈の倍ほど登ったとき、身体を支えるために右手でつかんでいた枝が突然に折れて、危うく背中から落ちそうになりました。途中で別の枝を抱えて大事に至りませんでしたが、ヒヤッとしました。
 「あぶない、あぶない」。このドキドキ感も久しぶりです。一方で、「やっぱり私は運がいい」と、こちらも言葉に出して自らを自慢していました。
 家に戻って勉強を開始すると、いつもより脳が動くような気がしました。ワクワク感、ドキドキ感がよかったのでしょう。
〈時間をもてあましている人へ、時間に飽きてしまった人に(その4)〉
 木登りをしてみよう。ただし、落ちないように気を付けよう。(ただし、今は公園で木登りをすると注意されるかもしれませんね。注意されたら「すみません」と子どものように健気に謝りましょう)
 さて、開校前のことです。私は校庭に人工の小川をつくり、その水辺に大きな木を植えて、その木の上に小屋を造って校長室にする、と本気で考えていました。開智未来という学校は、子供心でつくった学校だったのかもしれません。

読書:臨時休校5日目

 臨時休校5日目。そろそろ退屈して、日々の生活に倦(う)んできた頃と思います。
 与えられたことを消化するのでは生きたことにならず、自分が設定した課題のときに人は真剣になるからです。
 これだけ暇で退屈な日々を過ごすことは、皆さんが老後になるまでないでしょう(皆さんの頃は少なくとも70歳まで働くと思うので、退屈になるのは70歳過ぎかもしれませんが)。せっかくの持てあますほどの大量の時間なので、縁遠い読書に挑戦してみるのもいかがでしょうか。
 老爺心から、迷惑な話とは思いますが、ポイントをいくつか記したいと思います。
(1) 面白いと思った本を読むこと
(2) あえて今まで手に取ったことのないような本を読んでみること
(3) じっくりと1ページ1ページ、理解しようとして、そして、いろいろと考えながら読むこと
 さて、3日前にとんでもなく「凄い本」に出会いました。『哲学入門』(戸田山和久著、ちくま新書、2014年)です。この本は別の本を読んでいたら、その本の中でさりげなく紹介されていた本で、書名はきわめて平凡で、このような「○○入門」という本にはあまり面白い本はないのですが、時間もあるし、「当たりだったらラッキー」ぐらいの気持ちで購入しました。2014年に出版された新書本なので、なぜこんなに「凄い本」にこれまで気付かなかったのか不思議です。
 思わず「凄い」という俗語を使ってしまいましたが、「凄い!」としか言いようのない本です。ページ数は446頁。かなりのボリュームですが、新書なのでこれで1000円です。私にとっては100万円ぐらいの価値がある本なのにたったの千円です。
 この本のテーマは、哲学的な思考・考察を「唯物論的世界観と調和させること」(p.21)、つまり、「科学の成果を正面から受け止め、科学的世界像のただなかで人間とは何かを考える哲学」(p.12)を構築することです。
 わかりやすく言えば、心というものの存在を私たちは感じていますが、あくまで脳の作用として起こっている精神現象であることは間違いないでしょう。そして、その脳についてもかなり科学的に解明されており、最終的には分子レベル、さらには粒子レベルの問題になります。ならば、私たちが自由に想像したり、自分の〈意志〉で決定することも、化学作用であったり、物理現象であったりするわけです。しかし、私たちは「心」の問題を物質の論理(唯物論)で片づけるのを今ひとつ納得できていません。
 それを一つの絵に仕立てようというのがこの本のねらいです。
 実は、私も感覚や身体と思考・学びをいかに繋げていくかについて、開校以来考え続けています。また、サプリはそのための学習法であり、開智未来の教育の根本もここにあります。
 同じ方向を目指している人がいる。しかも、私が死ぬまできっと分からないだろう(しかし、考え続けたい)と思っていたことをまとめた人がいて、その本がここにあるのです。もちろん、謎はたくさん残っていて、すっきりと解明するようなことはないはずなのですが、一つの試みが書かれているのです。
 私はこの本を1か月くらいかけて読み込むと思います。その成果は「哲学」の授業で、1000倍ほどに希釈して生かしてみたいと思っています。その結果、ICTも積極的に活用するだろうし、AI時代における知性のあり方も考えていくことになるでしょう。
 すみません。興奮して、わけのわからないことを書きつづりました。
 もし興味をもった方は是非ともこの本を手にとってみてください。

〈時間をもてあましている人へ、時間に飽きてしまった人に(その3)〉
 昨日のメッセージでも書きましたが、昔を思い出して、身体感覚を取り戻す試みをしてはいかがでしょうか。提案するのは「布団の上でのでんぐり返し」です。今は大きくなりましたが、私の娘たちは、小さい頃、布団を敷くと何度も「でんぐり返し」をして喜んでいました。最近、爺になった私は身体が硬くなって、「でんぐり返し」などしたことがありません。皆さんにお勧めしているのにまだやっていません。妻に何と言われるかわかりませんが、今晩やってみます。
 考えてみれば、女優の森光子は『放浪記』の舞台の上で88歳の時まで「でんぐり返し」(ちなみにこの「でんぐり返し」という身体表現は、最大限の喜びを表現する演技です)をしていました。彼女がそのためにスクワットを欠かさず行って身体を鍛えていたことは有名な話です。
 天と地が瞬間に入れ替わるこの動作を楽しんで見てください。たくさんの星がチカチカするかもしれませんね。