顧問感覚

2018年6月の記事一覧

言葉の国

 3日ぶりのメッセージです。
 6月24日(日)のメッセージは常体で書きました。その理由は何?と開智未来生に問いました。開智未来生の皆さんは、答えをどのように考えましたか。
 私の考える答えは、文章と書き手の距離を離すため、です。
 敬体で書くと、書き手である開智未来顧問の関根から、おそらく開智未来関係者である者読者へのメッセージという意味合いが強くなります。不特定多数を対象としていますが、私から一人一人への私信という印象が色濃くるのです。少なくとも、私はそのように感じてしまいます。そこで、常体で書くことでそのような個人的つながりを弱め、世間に文章を投げ出そうと思ったのです。投げ出された文章は、開智未来そしてその顧問と関係者という枠組みを離れ、一つの作品(エッセイ)になります。作品であれば、読者の解釈の幅が拡がります。思う存分、いろいろに受け取ってほしいと思って書きました。
 さて、今日も常体で書きました。前回と違う理由からです。なぜでしょうか。
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 昨日、党首討論を見た。品格も品性もない言葉の応酬であった。
 政治家は言葉である。
 昔、本で読んだ一文である。政治家は言葉で国民を動かす。言葉の力を磨かなければならない。その言葉を持たぬ者は政治を担う資質はない、という意味であった。
 言葉のあげつろい。相手を小馬鹿にしたような物言い。言い訳。ごまかし。
 一国を担おう、この国の行く道を築こうという気概は一体あるのか。
 リーダーの言葉はその人から離れ、その役目の中で放たれなければならない。そんなことも知らぬのか。
 品格は身に付けるもの。品性は変えようがない。
 別の本に書いてあった言葉である。品性劣悪。この性質は変えようがない、と憤慨した次第である。下品な言葉は聞きたくない。醜い姿は見たくない。私も言葉が過ぎたか。
  ネット上に、劣悪な言葉が垂れ流されるこの時代である。無遠慮、無思慮な言葉で人を批判する。渥美清が映画『男はつらいよ』で演じる〈フーテンの寅さん〉の決めセリフを借りれば、「それをいっちゃおしまいよ」という言葉がいとも容易(たやす)く使われる。
 日本は言霊の存在する、言葉の国であった……はずだ。
 教育に関わる者として、この現状にどう向き合っていけばよいか。どうしたらよいか。
 もちろん、言葉だけの問題ではあるまい。言葉は人間が発するものである。

コーヒーを挽く

 4月から豆を挽いてコーヒーを入れています。
 甥の高校入学祝いのお返しに商品カタログが送られてきて、その中からコーヒーミルとコーヒー豆のセットを選んだからです。
 「4月からゆとりが出来るから、朝はゆっくりと豆を挽いて、コーヒーを味わおうかな」
 妻は訝(いぶか)しんでいる様子でしたが、賛成とも反対とも言わず、あいまいな態度だったので、私の考えで決めました。どのみち、朝にコーヒーを入れるのは私の家事(?)の一つなのて私が豆を挽くことになります。積極的に同調しなかったのは、「豆を挽くのはあなたよ」という、強い意思表示だったに違いありません。
 さて、実際には余裕はなく、豆を挽く3分~5分が意外と私の朝の学習時間を圧迫しています。おおよそ三人前のコーヒー豆を挽くと、急いでガリガリやると結構な労働にもなります。
 これは心を落ち着かせるトレーニングである。
 これは有酸素運動である。
 これは腕の筋トレである。
 これは普段聞かない音を聞く貴重な経験である。
 これはコーヒーの香りを嗅いで嗅覚を鍛える訓練である。
 これは等速円運動を続ける練習である。
 人間は、熱中からさめると、自分の行為に意味を持たせたがるものです。もちろん、悪いことではありません。勉強も同じです。成長するため、人のため、志望大学に合格するため、知識を獲得するため……。
 しかし、意味を考えずに夢中になっているときが、最も意味あることができるものです。勉強も、研究も、仕事も。意味は結果として後からついて来る。先にあるものでも、予め意識するものでもないのかもしれません。
 無心になって夢中になる勉強だ。
 今朝は、そう考えてミルを回しました。
 我ながら浅はかです。

勉強マラソン

 今日は高校生の「10時間勉強マラソン」を行っています。
 顧問となりましたが、中間考査前の前回も、そして、今回も生徒たちと一緒にアカデメイアで勉強しています。本日は用事があって、午前のみの参加となります。
 いかに学習の質量を高めるか。
 そこで50分を1ユニットとするユニット学習を実施します。詳細は説明しませんが、学習のインターバルトレーニングのようなものです。私も若者たちに負けないよう4ユニットを行いました。
 日曜日にもかかわらず、アカデメイアには高校1年生と2年生が約200名集まっています。高校3年生たちは別にリュケイオンで実施しています。
 若者たちは大人たちよりずっと真剣である。
 彼らの姿を見ているとつくづく思います。その真剣さを大人たちは評価しているのでしょうか。
 心の底で「あんなに真剣になって。若いなあ」と思ってはいないでしょうか。なぜなら、大人の多くは真剣に生きることを忘れてしまっているからです。だから、若者は真剣ではないと文句を言いつつ、真剣な若者を揶揄するのです。
 開智未来生と一緒にアカデメイアで過ごすと、心が洗われ、そのためか大人の醜さが鼻につくようになります。
 テレビのニュースを見ていると、ウソを言ったり、誤魔化したりする大人が溢れています。今朝も「はれのひ」のニュースを見ました。
 60歳を過ぎて青臭いことを書いていると思っている方もいるでしょうが、かまいません。私は開智未来生が大好きです。この若者たちのために、真剣に生きる者が正しく評価される日本社会であってほしいと思います。
 今日はエッセイになりませんでしたね。こんな書き方の日もあってもいいでいすよね。

風の感覚

 今日のメッセージは常体で書きたいと思います。質問です。開智未来生の皆さん、どうしてでしょうか。
 昨日に引き続き、『尾崎芳哉句集』から。
 「咲かねばならぬ命かな捨生えの朝顔」
 広辞苑によれば、捨生えとは、「止みそうなけはいの南風」とある。困難な中でも生きていかなくてはならない人間の苦しさ、逞しさ、いじらしさを表そうとしているのだろうか。あざやかな色の朝顔の花が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
 こんな句もある。
 「のびあがって見る海が広々見える」
 芳哉の句としては明るさがある。彼も伸びあがって世界を見たかったのだろうか。
 「風吹く道のめくら」
 いまでは差別用語となった「めくら」という言葉があるが、昔の俳句の中の表現としてご理解いただきたい。私が中学・高校時代は特に意識せず使っていた言葉である。昔は、今では使うのに憚られる言葉を、荒っぽく使っていた。力強さはあった。
 この句は、〈風が吹く道にめくらがいる〉と情景を詠んだものだろう。勝新太郎の『座頭市』の映像を想起させる。私は〈風が吹く〉と〈道のめくら〉と分けて読んでしまった。生き方が見えなくて迷いに迷っている自分を〈道のめくら〉と表現し、さらに、その自分が風に吹かれていると、身体表現で独白したのではないか。俳句は短い言葉だから、広々とした行間を読むことができる。それが楽しい。
 「ひどい風だどこ迄も青空」
 「風吹きくたびれている青草」
 「壁にかさねた足の毛を風がゆさぶって居る」
 芳哉の句には、風という言葉がしばしば使われる。一人になったとき、人間は身心そのものになる。自分の心の動きを見つめ、自らの身体を通じて感じるしかないからだ。だから、第5感である皮膚感覚も発達し、風に敏感になる。風は、芳哉にとって一人であることの象徴に違いない。
 「一人の道が暮れてきた」
 一人だから感じることがある。見えてくる世界もある。

廉価

 今週の火曜日に浦和への出張の折、本屋に立ち寄り、『尾崎芳哉句集』『原民喜全詩集』『辻征夫詩集』を買いました。すべて岩波文庫です。3冊とも税込みでも600円以内で、その内容からみればとても廉価です。
 今風に言えば「リーズナブル」ですが、廉には「いさぎがよいこと。欲がないこと」(広辞苑)という意味もあります。リーズナブルには「値段の割にはお得」という、損得勘定が見え隠れしてどうもいけません。功利に走るのは危険です。
 私が高校時代は、文庫というと岩波文庫、角川文庫、新潮文庫くらいしかなく、自宅の近くにある個人経営の書店(いわゆる本屋さん)の文庫本の棚を、穴の開くほど見つめていたものです。当時は、だいたい300円以下で、もちろん消費税もありませんでした。特に、岩波文庫は古典・名著が揃っていて、田舎の高校生だった私の貴重な栄養源でした。
 岩波文庫の最後に、「読書子に寄す」という文章があるのをご存じでしょうか。これは岩波文庫発刊に際して、岩波書店創業者である岩波茂雄氏が昭和2年に書いたものです。昭和2年は、関東大震災の4年後の金融恐慌があった年で、2年後に世界恐慌が始まり、4年後には満州事変が起こっています。戦争への道を日本が歩み始めた頃です。
 この文章は「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」で始まる名文です。開智未来生には是非とも読んでほしい文章です。
 「携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし…………この計画たるや世間の一時の投機的なるものとは異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たしめることを期する」
 まさに廉価の書籍ですね。
 さて、『尾崎芳哉句集』よりひとまず1句。
 「針の穴の青空に針を通す」
 尾崎芳哉は孤独の中で41歳で没した俳人です。特に、自由律俳句が有名です。自由律俳句とは五七五の定型にとらわれない俳句です。
 視覚に訴える俳句です。針を空に掲げてその穴に糸を通そうとする。すると、その穴に小さな青空が見える。そんな情景です。さて、実際に針の穴の中に青空は見えるのでしょうか。実際にはよく見えません。頭の中のイメージではくっきりとリアルに青空が見えるのですが……。不思議な句です。
 彼は自分のことを詠んだのでしょう。針の穴ほどの世界にしか自分は住んでいない。しかも、不幸な世界です。それでもそこに青空を見つけたい。そんな思いがあったのかもしれません。
 針の穴の青空に針を通す、とは私たちの人生を表してように感じます。些細な人生ですが、そこに幸福の糸を通そうとする。そこにはきっと青空があるという願い。糸が通れば青空になるのかもしれませんね。
 今日は大学なので、往きの電車の中であれこれと想像してみました。
 この本は2007年7月18日第1刷発行で、私の高校時代には出版されていませんが、あの頃の私、功利に毒されていない当時の私がもし読んだとしたら、この句をどのように味わったでしょうか。
 開智未来生に勧めたい本です。

学び続けるということ

 一枚の葉書が届きました。
 私の仲人からです。氏は私の大学の先輩で、文学部哲学科で学んで埼玉県立高校の社会の教員になり、教育次長にまでなった方です。
 結婚後は、教育についていろいろ教わりました。「今何を勉強している?」と顔を合わせる度に尋ねられるので、お会いする前は必死に勉強したものでした。
 葉書は、「老独に行きつくぬ前に」施設に入所したとの連絡でした。
 「足以外は元気なので勉強のやり直しをしていきたいと願っています」
 94歳にもなって「勉強のやり直し」とは、恩師らしく痛快です。
 すべての人がそうだとは言い切ることはできませんが、なぜ、人間は老いても学び続けようとするのでしょうか。
 止まった時が終点。生きている間は止まらない。だから、学び続ける。
 身をもって教えてくださったに違いありません。氏の歳まであと私は34年もあります。たくさんのことを学ぶことできるはずです。
 「開智未来の校長を退任しました。私も勉学に励みたいと思います。落ち着いた頃に遊びに行きます」
 今朝、返事を投函しました。
 さて、お会いしたとき質問に答えられるよう、これから猛勉強しなければなりませんね。そして、新たに学んだ知見と、かつて抱いていただいた長女がその5歳の長女の手を取り、9か月の長男を抱いた写真をもって、新ホームをお伺いしたいと思います。
 こうやって世代が引き継がれていく。同じように学びが引き継がれていく。
 「ジンルイ」(人類)
 しばしば使う、このありきたりの言葉がふと浮かんできました。

父の日

 昨日、2人の子どもを育児中の長女から父の日のプレゼントをもらいました。
 6角形の角箸とお椀、そして、有機干しぶどうです。
 角箸は、私がかつて角箸が好きなことを話していたことを覚えていたからでしょう。お椀は広口。これも私の好みです。有機干しぶどうは、毎朝ヨーグルトに混ぜて、妻に出しているからでしょう。
 思わず反省しました。
 私はわが子にこのように相手のことを考えてプレゼントを贈ったことがあったでしょうか。そもそも、私はそのような姿勢で人にプレゼントをしたことがあったでしょうか。
 相手のことを思い、その思いを品物に変える。
 この年になって、プレゼントの意味に気付いたのですから、笑われてしまいますね。
 子どもを育てるとは、子どもことを考えること。そして、物言わず、プレゼントにそっと品物に思いを込めること。
 6月下旬に長女の誕生日があります。さて、何をプレゼントしようか。昨日からずっと考え続けています。
 「今年から3人の娘にプレゼントを贈ろうと思うんだ。罪滅ぼしかな」
 今朝、妻に告げました。
 父の日とは、世の中の父親に自らを反省させ、子孝行を始めることを促す日なのかもしれません。そこが母の日と対照的なところですね。
 「子どもにもね」
 妻のさりげない返答でした。

休日の楽しみ

 休日の楽しみは、いつものように4時過ぎに起き、コーヒー豆を挽いて、ひとり自室で本を読み、しばし葡萄棚を眺めて思索し、しばしコーヒーを口にして、メモートに妄想とも幻想とも言えるような着想を記すとき、です。
 梅雨も楽しからずや。
 葡萄の、手のひらのような、ヒトデのような葉の、その中指の先に雨粒が、ひとつふたつと結んでは落ちる様を見ていると、ずっと昔から限りない人々が様々なことを考えてきたのだろう、そんな着想が浮かんできます。
 再度、竹内政明氏の本から。
 「ぼくはいつもこういうことになるんだ……トーストを落としても、バターを塗った方が床についてしまうんた」(『名セリフどろぼう』文春新書)
 このセリフは『男女7人夏物語』からです。大竹しのぶと明石家さんまが共演して、結婚のきっかけとなった番組だと聞いています。当時、教員となって5年目の私は、残念ながらその番組は見ていませんでした。
〈私の場合、何度もトーストを落とすが、運良くバターを塗っていない方が床に着き、ちょっと床面の方を手で払って、かまわず食べてきた。運がいいと言うか、厚顔というか。それでも、人目を気にして、何気ないそぶりでそっと手で払ってきたものだ。〉
 葡萄の熟していない青い実を目に留めながら、こんな言葉をメモートに書き留めました。
 もう一つ、同書より。
 「浪人なんてものは、しておくもんだ」
 「はあ」
 「俺も一年やったよ」
 「そうですか」
 「よかったと思っている。学生時代なんて、祭のようなものだからな。その間に、ぽつんと孤独な一年があるのもいいもんだ」
 これは、山田太一氏が脚本を書いた『岸辺のアルバム』の一節とのこと。私が大学に入学した1977年に放映されたドラマです。私も1年浪人しました。たしかに「ぽつんと孤独な1年」でした。だからなのでしょうか、私は孤独が嫌いではありません。
 この自室で月曜日の「学びのサプリ」のテキストとH1年「哲学」のテキストをつくったら、家事をして、実家に母のめんどうを見に行って、と日曜日の定番の日課が始まります。
 それでは、6月中旬のよい休日を。
 追伸。開智未来の浪人生の皆さん。がんばってください。あとでその孤独が懐かしくなる時がきますから。孤独は肥沃な土。いろいろな植物がやがて芽吹きますから。

文章を書く

 本日の1時間目、中学3年「哲学」の授業で次のような問題を出しました。
 「エッセイとは××についての奥深い××を、××を選んで書く作文である。この××の部分にそれぞれどんな漢字が入りますか」
 先日読んだ、『子どもに「日本語力」をつける本』(樋口裕一著、PHP文庫、2007年)に、「今の高校生は文章が書けない」とありました。今から10年も前の話です。なお、樋口氏は予備校講師で、その小論文指導には定評があり、多くの本を書いている方です。
 私も30代の頃、県立の進学校で小論文を教えた時期があります。今から20年以上前のことですが、当時すでに高校生の文章力は低下していました。氏の主張にはまったく同感です。
 今の子どもたちもSNSで文章をたくさん書いているので文章力はあがっているのでは、との反論もあるかもしれません。校長でなくなったので言いづらいこともはっきりと言いますが、SNSも含めネットに氾濫する「文章」は文章ではありません。知性も思考も深められず、思いついた言葉を露出しているだけです。(昨日のメッセージで紹介した竹内政明氏の文章と比べると、私のこのメッセージも文章とは呼べない代物で、生徒たちの文章をとやかく言える資格はないかもしれません。すみません)
 そんな折、大学入試改革で、2021年度入試から「記述問題」が増え、国公立大学では30%を推薦入試で採ることになります。たぶん、小論文入試も増えてくるでしょう。文章力が必要になります。
 思考するから言葉が深まるのか。それとも、言葉を獲得するから思考が深まるのか。
 私は後者が正しいと考えています。言葉がないから思考できない。だから、言葉の未熟な者に「考えろ、考えろ」と言っても考えることはできないのです。
 これからは哲学の時間でもっと文章力を鍛える取組をしたいと思っています。また、学校全体で開智未来生の文章力を高める方法を開発しなければと考えています。
 さて、最初の質問の答えですが、「エッセイとは人間についての奥深い考察を、言葉を選んで書く作文である」てす。中学3年生には、探究フィールドワーク中で「観たこと、考えたこと」から1つテーマを選び、300字のエッセイを書くという課題を出しました。優秀エッセイ集を夏休み前に作成したいと思っています。もしもいい出来でしたら、このホームページ上で発表したいと考えています。
  樋口氏といえば『ホンモノの思考力―口ぐせで鍛える論理の技術』(集英社新書)がお勧めです。何度か読み返した本です。再度読み返して、このメッセージの文章の質を高めなければいけませんね。精進します。

梅雨入り

 今日は大学です。
 通勤時間を有効に使おうと読書に励んでいると、乗り換えの春日部駅を乗り越してしまいそうでした。集中はしたいが乗り越しは避けたい。切実な葛藤です。電車通勤も楽ではありません。生徒たちもこんな思いをして開智未来に通学しているのでしょう。
 柏駅からは傘をさしての徒歩。梅雨入りなのでこんな日が続くのでしょう。ずっと車通勤だったので、雨の中を傘をさして歩くのは久しぶりです。ズボンも濡れますし、カバンにも雨がかかります。子どもの頃は楽しかったのに大人になると憂鬱になるのは不思議な話です。
 「かさ これは あめのおとが よくきこえる きかいです」
 車中で読んだ『名文どろぼう』(竹内政明著、文春新書)に紹介されていた詩です。
 たしかに傘に当たる雨の音は、カタコトと、いい音ですね。別の世界から聞こえてくるようです。私の子どもの頃、半世紀も前の昔から届いた音のようです。
 「梅雨は嫌だね」
 嫌っているのは人間の大人だけかもしれません。
 雨は濡れながらその音を聞くもの。安全地帯の部屋の中で、コーヒーを飲みながら眺めるものではありません。
 実は、子どもの方が贅沢なのかもしれません。
 大人になって忘れてしまったことを思い出そうと思っています。