顧問感覚

コモンセンス

言葉を理解する者

 里山探究フィールドワークから戻ってきたところです。素晴らしいフィールドワークでした。
 特に、第8期生たちが言葉を受け止め、理解する力に感心しました。
 こんなことがありました。
 第2日目、森林探究のときのことです。今年は土砂崩れのために例年の場所で行うことができず、スキーのゲレンデの一番高いところからブナ林に入るルートになりました。ブナ林に入るまでにゲレンデをかなり登らなければなりません。さらに、ブナ林に入ると急勾配の山道が続きます。午前中は宿のおとうさんの説明を聞き、昼食をゲレンデの下の施設で取り、午後は再びブナ林で個人探究をします。二度も上り下りをしなければなりません。
 森林探究を開始するに当たって、各宿からマイクロバスで集まってきた全員に私からこんな話をしました。
 「今日の森林探究は山道をたくさん歩かなければなりません。そこで皆さんに守ってほしいことがあります。それは弱音を吐かないことです。弱音を吐かない、という意味は分かりますか?」
 生徒たちは真剣な表情で聞いています。そして、口々に「疲れたと言わないこと」「マイナスな言葉を言わないこと」と答えました。しっかりと理解しています。
 実際、生徒たちはよく登り、よく下りました。
 昼食後、二度目の登坂に当たって、私は生徒たちの先頭に立つことにしました。「スタート!」。小走りに登り始めると、男子生徒も女子生徒も付いてきます。たくましい生徒たちです。
 言葉を理解する者は頑張ることができる。
 突然、そんな言葉が浮かんできました。私の直観です。どうしてそんな直観を得たのだろう。帰りのバスの中でも考え続けました。
 辛くても頑張る意味が、言葉によって明確に理解できるからではないだろうか。
 さて、中学1年生たちは今頃、それぞれの家庭で、うちの人に、課題である「感動したこと、成長したこと」を話しているに違いありません。
 どんな言葉で伝えているのでしょうか。保護者の皆さん。お子さんの成長をしっかりと聞き取ってくださいね。

つつましさ

 7月4日(水)のメッセージに誤りがありました。『時間と自己』(木村敏著、中公新書)からの引用文の中の「ものが眼の前に示されたものであり、目で見られるものである」の部分です。「ものは眼の前に示されたものであり、目で見られるものである」が正しい文です。「が」と「は」では大違いですね。すみません。「もの」と「こと」の違いを述べた部分で、私としては「こと」的なものの見方の大切さを示したかった次第です。
 さて、訂正した後で書きづらいのですが、最近、教育に関わることで腹に据えかねています。少々怒りを伴った文章を書くことになるので、私と文章との距離をとるため、常体で書きたいと思います。このメッセージにふさわしい文章ではないかもしれませんが、教育に関わることなのでご了承願います。
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 最近、教育に関することで、私的な利害が公的な力を通じて教育の中に入り込む「事件」が多すぎる。
 組織は腐敗する。特に、強くなりすぎた組織に顕著である。人間の毒が組織の中で増殖するからであろうか。残念ながら組織にはその毒を浄化する力はない。組織とはそういうものである。私も5年ほど教育行政の世界にいたことがあるので、権力付近の組織の様態について、少々分かっているつもりである。 
 無垢な人間には、今回の事件群は耐え難い。自分で言うのも気が引けるが、私も耐え難い。
 世の中には無垢な人間がいる。つつましく生き、自分だけ得すればいいなどとは考えず、わが子を正直者に育てたいと思っている。そういう人々の中で教育が行われる。少なくとも、私はそう信じている。
 その教育を、はるか上から文部科学省がコントロールしている。その文部科学省の上に内閣があり、そのトップが内閣総理大臣である。その上層付近で不明朗なことが起こっている。そんな組織がいくら立派なことを言っても、どうして信用できようか。
 私は今、文部科学省の通知やその関係の答申など見たくもない。
 「主体的・対話的で深い学び」
 たしかにそのとおりだ。開智未来では開校以来「学び合い」を推進してきた。「哲学」の授業で主体、つまり、自分について考え続けてきた。しかし、その文科省の言葉で日本全国が「右向け右」になっていると、右を向きたくないと思ってしまうのは、天の邪鬼(あまのじゃく)だろうか。いや、邪鬼どころか、「邪(よこしま)」でない人間だからこその感情である。
 今の状況の中、私は教育を続けるのが嫌になってきた。
 教育は人間の営みである。しかも、つつましい営みである。その営みを壊すものは誰であっても許したくない。
 ★  ★
 激情の吐露ですみません。明日から、中学1年生たちと里山へ行ってきます。下界から離れて4日間を過ごしてきます。なお、コンピュータを持っていきませんので、その間はこのメッセージをお休みさせていただきます。

インプット・スループット・アウトプット

 振り返ってみると、校長であった7年間はスループットとアウトプットの7年間でした。最後の2年間ほどはガソリン切れのような感じで、やはり、インプットは大切ですね。
 何事もバランスが大切で、インプット・スループット・アウトプットは調和されてこそ力を発揮するものです。もちろん、勉強も同じです。
 4月からすでに3か月経ちましたが、今、猛然とインプットに努めています。いわゆる充電期間です。充電して何をするのかはまだ決まっていませんが、爆発できるだけのガソリンを体内に入れたいと思っています。
 さて、一昨日に『知の体力』(永田和宏著、新潮新書、2018年)を読みました。著者は京都大学の名誉教授で専門は細胞生物学。歌人でもあります。科学と文学が統合された深い知性から、大学教育のあり方についての提言がなされています。開智未来の高校生にも是非読んでほしい本です。
 いくつかの文章を紹介したいと思います。
 「問題には一つの答えがあるものだと思ってきた教育と、何一つ絶対的な答えというのはない実社会とのあいだに、バッファー(緩衝帯)が必要だと私は思っている。大学の大切な役割の一つは、高校までの教育と実社会とのあいだのバッファーとしての役割である」
 「知識を解きほぐし、応用可能なまでに自由に伸び縮みできるようにするためには、その知識が、どのような多くの人々の試行錯誤のもとにもたらされたものなのか、それが作り出されたプロセスを知り、その知がカバーできる外延をなぞり、かつその知によって自分のすでに得ていた知の体系が再構築されることが必要であろう」
 「集団のなかに居ることの居心地の悪さ、周りとの折り合いのつけにくさ、自らの抱え込んでしまった本質的な寂しさ、孤独感、そのような、〈世界〉との葛藤のなかにしか、個性の芽は育たないものだ」
 「あまりにも素早く相手と繋がれる言葉と言うのは、たいてい胡散臭いものだ」
 「真のコミュニケーションとは、ついに相手が言語化しきれなかった『間(あいだ)』を読み取ろうとする努力以外のなにものではないはずである。……別名、『思いやり』とも呼ばれるところのものなのである」
 この本で、永田氏は『時間と自己』(木村敏著、中公新書)を「私のバイブルのような一冊であり、数えきれないほど読んできた」と紹介していたので、昨日購入して読み始めました。
 「ものが眼の前に示されたものであり、目で見られるものである」
 「ことはことばによって語られ、聞かれるものである。……ことの本質は、むしろ言語によっては語り出しえず、言語からは聞き取れないところに潜んでいる」
 「もの的にとらえられた『存在』が見る対象として客観的に理論化されるのとは違って、あくまでこと的に性格を失わない『あるということ』は、一つの沈黙の声という仕方でしか知りえない」
 わずか10数ページを読んだだけで圧倒されています。すごい!
 インプット-スループット-アウトプット。本から学んだことを考え続け、それをアウトプットすることが大切です。
 〈これらのことを教育へとつなげよう〉-身体の奥底に力が湧き始めてくるのを感じます。
 燃料がたくさんあれば遠くまで飛ぶことができる。当分の間、インプットに努めたいと思っています。

妄想する力

 6月29日に関東甲信地方が梅雨明けしたと、気象庁の発表がありました。6月の梅雨明けは、観測史上初めてだそうです。
 おかげて、先週の金曜日から猛暑日が続いています。この状態が少なくとも7月・8月と、これから2か月続くかと思うと、「61歳の私は生きていられるのだろうか」と弱気になってしまいます。「歳だから暑さが耐えられないほど辛い」のではないかと、若手教員に「この暑さは辛くないか」と尋ねると、「今年は例年以上に厳しいです」とのこと。年齢が原因ではないとしたら、生徒たちも大変に違いありません。
 猛暑対策はこれからの日本の最重要課題の一つである。
 夏の暑さに対してこんなに深刻に感じたのは初めてです。そこで、この難題への対処法についてノートにまとめ始めました。
 「まずは、涼しいうちに行動を開始すること。/これから3時台に起きよう。4時には散歩をして冷えた外気を楽しもう。ストレッチや軽い運動で身体を爽快にしよう。自転車もいいかもしれない。それから朝焼けを見て、そうして、これまでのように妻にコーヒーとヨーグルトを用意する。/さらに、脳が気持ちよく動く間に、本も読まなければならないし、考えごともしたい。エッセイも書きたいし、研究もしたい。朝7時には自室の室温が上がってしまうので、かなり忙しい。それなら3時に起きなければいけないか。まるで爬虫類のような生き方である。いや、猛暑の間は爬虫類として生きるのだ。」
 妄想のような言葉を書き続けました。まじめと言うか、バカと言うか。我ながら呆れかえってしまいますが、間違いなく、夏の生き方を本気で(狂気で?)考えなければならない時代になってしまったのです。
 AI、平均寿命100歳、70歳定年、言葉の消失・弱体化、そして、猛暑。このような未来に生きる子どもたちをどのように育てるか。
 妄想する力は、すでに重要な能力なのかもしれません。

この指止まれ

 養老孟司氏の『遺言。』(新潮新書)を、一気に読んでしまいました。引き続き、二度三度と読み返したいと思っています。
 続けて何度も読み返したい、というほど面白かった本は久しぶりです。『頭がよくなる思想入門』(新野哲也著、新潮選書:絶版)以来かもしれません。それ以前では、『人間へのはるかな旅』(森本哲郎著、角川文庫:絶版)を上げることができますが、私の人生の中でも数冊しかありません。
 養老氏は『バカの壁』(新潮新書)が有名ですが、実は解剖学者で、いわゆる理系の人間です。しかし、それまでその専門分野から得た知見をもとに、彼は人間とは、特に人間の意識とは何かを考え、今の社会、さらに、これからの社会について考察していきます。
 真理を前には理系も文系もない。
 このことを体現した人です。
 それにしても、エキサイティングな本です。
 書名を『遺言。』としたのは、「ぼちぼち死んでも当たり前の年齢になった」からであり、自分の考えをまとめたいと考えたからでしょう。
 「特別に新しいことを考えてきたわけではない。ただ全体にまとまりがついてきたと自分では思う。ヒトとはなにか、生きるとはどういうことか」
 氏は80歳。そんな心境に至った養老氏がうらやましいです。私もレベルは養老氏の足下にも及びませんが、サプリや開智未来で深めてきたことを、そろそろまとめてみたいと思っているのですが、「全体にまとまりがついてきた」と言い切れずにモヤモヤしています。あと20年を費やさなければダメですね。焦らずに考え続け、実践を重ねていきたいと思います。
 氏の主張を私なりに簡単にまとめると、次のようになります。
 「人間はものごとを『同じ』にしようとする意識を有している。それが人間と他の動物の違いであり、その人間の意識が作り上げたのが言葉であり、理論であり、都市化社会であり、デジタル社会である」
 私もサプリや哲学で人間の意識や思考について考え続けてきました。漠然と考えてきたことがこの本でかなり明らかになってきました。この本で20年分くらい賢くなったような気がします。人間や世界が一気にクリアーに見えてきました。この本のおかげで、サプリや開智未来のまとめも70歳くらいで完成しそうです。
 あんまり嬉しくて、2学期になったら、「いっしょに『遺言。』を読む人、いませんか?」と高校生に「この指止まれ」を促したいと思っています。昔風に言えば読者会です。一人で喜ぶのはもったいないと思ったからです。いくつになっても養老氏のようなみずみずしい知性をもっていたいと思います。
 このメッセージの読者の皆さんにもオススメします。

言葉の国

 3日ぶりのメッセージです。
 6月24日(日)のメッセージは常体で書きました。その理由は何?と開智未来生に問いました。開智未来生の皆さんは、答えをどのように考えましたか。
 私の考える答えは、文章と書き手の距離を離すため、です。
 敬体で書くと、書き手である開智未来顧問の関根から、おそらく開智未来関係者である者読者へのメッセージという意味合いが強くなります。不特定多数を対象としていますが、私から一人一人への私信という印象が色濃くるのです。少なくとも、私はそのように感じてしまいます。そこで、常体で書くことでそのような個人的つながりを弱め、世間に文章を投げ出そうと思ったのです。投げ出された文章は、開智未来そしてその顧問と関係者という枠組みを離れ、一つの作品(エッセイ)になります。作品であれば、読者の解釈の幅が拡がります。思う存分、いろいろに受け取ってほしいと思って書きました。
 さて、今日も常体で書きました。前回と違う理由からです。なぜでしょうか。
 ★   ★   ★
 昨日、党首討論を見た。品格も品性もない言葉の応酬であった。
 政治家は言葉である。
 昔、本で読んだ一文である。政治家は言葉で国民を動かす。言葉の力を磨かなければならない。その言葉を持たぬ者は政治を担う資質はない、という意味であった。
 言葉のあげつろい。相手を小馬鹿にしたような物言い。言い訳。ごまかし。
 一国を担おう、この国の行く道を築こうという気概は一体あるのか。
 リーダーの言葉はその人から離れ、その役目の中で放たれなければならない。そんなことも知らぬのか。
 品格は身に付けるもの。品性は変えようがない。
 別の本に書いてあった言葉である。品性劣悪。この性質は変えようがない、と憤慨した次第である。下品な言葉は聞きたくない。醜い姿は見たくない。私も言葉が過ぎたか。
  ネット上に、劣悪な言葉が垂れ流されるこの時代である。無遠慮、無思慮な言葉で人を批判する。渥美清が映画『男はつらいよ』で演じる〈フーテンの寅さん〉の決めセリフを借りれば、「それをいっちゃおしまいよ」という言葉がいとも容易(たやす)く使われる。
 日本は言霊の存在する、言葉の国であった……はずだ。
 教育に関わる者として、この現状にどう向き合っていけばよいか。どうしたらよいか。
 もちろん、言葉だけの問題ではあるまい。言葉は人間が発するものである。

コーヒーを挽く

 4月から豆を挽いてコーヒーを入れています。
 甥の高校入学祝いのお返しに商品カタログが送られてきて、その中からコーヒーミルとコーヒー豆のセットを選んだからです。
 「4月からゆとりが出来るから、朝はゆっくりと豆を挽いて、コーヒーを味わおうかな」
 妻は訝(いぶか)しんでいる様子でしたが、賛成とも反対とも言わず、あいまいな態度だったので、私の考えで決めました。どのみち、朝にコーヒーを入れるのは私の家事(?)の一つなのて私が豆を挽くことになります。積極的に同調しなかったのは、「豆を挽くのはあなたよ」という、強い意思表示だったに違いありません。
 さて、実際には余裕はなく、豆を挽く3分~5分が意外と私の朝の学習時間を圧迫しています。おおよそ三人前のコーヒー豆を挽くと、急いでガリガリやると結構な労働にもなります。
 これは心を落ち着かせるトレーニングである。
 これは有酸素運動である。
 これは腕の筋トレである。
 これは普段聞かない音を聞く貴重な経験である。
 これはコーヒーの香りを嗅いで嗅覚を鍛える訓練である。
 これは等速円運動を続ける練習である。
 人間は、熱中からさめると、自分の行為に意味を持たせたがるものです。もちろん、悪いことではありません。勉強も同じです。成長するため、人のため、志望大学に合格するため、知識を獲得するため……。
 しかし、意味を考えずに夢中になっているときが、最も意味あることができるものです。勉強も、研究も、仕事も。意味は結果として後からついて来る。先にあるものでも、予め意識するものでもないのかもしれません。
 無心になって夢中になる勉強だ。
 今朝は、そう考えてミルを回しました。
 我ながら浅はかです。

勉強マラソン

 今日は高校生の「10時間勉強マラソン」を行っています。
 顧問となりましたが、中間考査前の前回も、そして、今回も生徒たちと一緒にアカデメイアで勉強しています。本日は用事があって、午前のみの参加となります。
 いかに学習の質量を高めるか。
 そこで50分を1ユニットとするユニット学習を実施します。詳細は説明しませんが、学習のインターバルトレーニングのようなものです。私も若者たちに負けないよう4ユニットを行いました。
 日曜日にもかかわらず、アカデメイアには高校1年生と2年生が約200名集まっています。高校3年生たちは別にリュケイオンで実施しています。
 若者たちは大人たちよりずっと真剣である。
 彼らの姿を見ているとつくづく思います。その真剣さを大人たちは評価しているのでしょうか。
 心の底で「あんなに真剣になって。若いなあ」と思ってはいないでしょうか。なぜなら、大人の多くは真剣に生きることを忘れてしまっているからです。だから、若者は真剣ではないと文句を言いつつ、真剣な若者を揶揄するのです。
 開智未来生と一緒にアカデメイアで過ごすと、心が洗われ、そのためか大人の醜さが鼻につくようになります。
 テレビのニュースを見ていると、ウソを言ったり、誤魔化したりする大人が溢れています。今朝も「はれのひ」のニュースを見ました。
 60歳を過ぎて青臭いことを書いていると思っている方もいるでしょうが、かまいません。私は開智未来生が大好きです。この若者たちのために、真剣に生きる者が正しく評価される日本社会であってほしいと思います。
 今日はエッセイになりませんでしたね。こんな書き方の日もあってもいいでいすよね。

風の感覚

 今日のメッセージは常体で書きたいと思います。質問です。開智未来生の皆さん、どうしてでしょうか。
 昨日に引き続き、『尾崎芳哉句集』から。
 「咲かねばならぬ命かな捨生えの朝顔」
 広辞苑によれば、捨生えとは、「止みそうなけはいの南風」とある。困難な中でも生きていかなくてはならない人間の苦しさ、逞しさ、いじらしさを表そうとしているのだろうか。あざやかな色の朝顔の花が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
 こんな句もある。
 「のびあがって見る海が広々見える」
 芳哉の句としては明るさがある。彼も伸びあがって世界を見たかったのだろうか。
 「風吹く道のめくら」
 いまでは差別用語となった「めくら」という言葉があるが、昔の俳句の中の表現としてご理解いただきたい。私が中学・高校時代は特に意識せず使っていた言葉である。昔は、今では使うのに憚られる言葉を、荒っぽく使っていた。力強さはあった。
 この句は、〈風が吹く道にめくらがいる〉と情景を詠んだものだろう。勝新太郎の『座頭市』の映像を想起させる。私は〈風が吹く〉と〈道のめくら〉と分けて読んでしまった。生き方が見えなくて迷いに迷っている自分を〈道のめくら〉と表現し、さらに、その自分が風に吹かれていると、身体表現で独白したのではないか。俳句は短い言葉だから、広々とした行間を読むことができる。それが楽しい。
 「ひどい風だどこ迄も青空」
 「風吹きくたびれている青草」
 「壁にかさねた足の毛を風がゆさぶって居る」
 芳哉の句には、風という言葉がしばしば使われる。一人になったとき、人間は身心そのものになる。自分の心の動きを見つめ、自らの身体を通じて感じるしかないからだ。だから、第5感である皮膚感覚も発達し、風に敏感になる。風は、芳哉にとって一人であることの象徴に違いない。
 「一人の道が暮れてきた」
 一人だから感じることがある。見えてくる世界もある。

廉価

 今週の火曜日に浦和への出張の折、本屋に立ち寄り、『尾崎芳哉句集』『原民喜全詩集』『辻征夫詩集』を買いました。すべて岩波文庫です。3冊とも税込みでも600円以内で、その内容からみればとても廉価です。
 今風に言えば「リーズナブル」ですが、廉には「いさぎがよいこと。欲がないこと」(広辞苑)という意味もあります。リーズナブルには「値段の割にはお得」という、損得勘定が見え隠れしてどうもいけません。功利に走るのは危険です。
 私が高校時代は、文庫というと岩波文庫、角川文庫、新潮文庫くらいしかなく、自宅の近くにある個人経営の書店(いわゆる本屋さん)の文庫本の棚を、穴の開くほど見つめていたものです。当時は、だいたい300円以下で、もちろん消費税もありませんでした。特に、岩波文庫は古典・名著が揃っていて、田舎の高校生だった私の貴重な栄養源でした。
 岩波文庫の最後に、「読書子に寄す」という文章があるのをご存じでしょうか。これは岩波文庫発刊に際して、岩波書店創業者である岩波茂雄氏が昭和2年に書いたものです。昭和2年は、関東大震災の4年後の金融恐慌があった年で、2年後に世界恐慌が始まり、4年後には満州事変が起こっています。戦争への道を日本が歩み始めた頃です。
 この文章は「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」で始まる名文です。開智未来生には是非とも読んでほしい文章です。
 「携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし…………この計画たるや世間の一時の投機的なるものとは異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たしめることを期する」
 まさに廉価の書籍ですね。
 さて、『尾崎芳哉句集』よりひとまず1句。
 「針の穴の青空に針を通す」
 尾崎芳哉は孤独の中で41歳で没した俳人です。特に、自由律俳句が有名です。自由律俳句とは五七五の定型にとらわれない俳句です。
 視覚に訴える俳句です。針を空に掲げてその穴に糸を通そうとする。すると、その穴に小さな青空が見える。そんな情景です。さて、実際に針の穴の中に青空は見えるのでしょうか。実際にはよく見えません。頭の中のイメージではくっきりとリアルに青空が見えるのですが……。不思議な句です。
 彼は自分のことを詠んだのでしょう。針の穴ほどの世界にしか自分は住んでいない。しかも、不幸な世界です。それでもそこに青空を見つけたい。そんな思いがあったのかもしれません。
 針の穴の青空に針を通す、とは私たちの人生を表してように感じます。些細な人生ですが、そこに幸福の糸を通そうとする。そこにはきっと青空があるという願い。糸が通れば青空になるのかもしれませんね。
 今日は大学なので、往きの電車の中であれこれと想像してみました。
 この本は2007年7月18日第1刷発行で、私の高校時代には出版されていませんが、あの頃の私、功利に毒されていない当時の私がもし読んだとしたら、この句をどのように味わったでしょうか。
 開智未来生に勧めたい本です。