顧問感覚

コモンセンス

続・卒業式

 卒業式が終了しました。開智未来らしい、いい卒業式でした。
 卒業する高校3年生たちの「顔」がいい。
 これが開智未来ですよね。
 さて、顧問として私も祝辞を述べました。校長ではないので、少しは勝手なことを言ってもいいかなと思い、強い表現の言葉を使ってみました。一部を再現します。
 ☆  ☆
 見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。
 それは、自らの外にあるもの、内にあるもの、共にである。
 それが「自律と正義」である。
 成長しつづけよ。
 ああいう人だと固定されるような人間になるな。
 人の評価を超える人になれ。
 人の評価を得ようと躍起(やっき)になるくらいなら、自分で自分を評価できる人になれ。
 これには2つの意味がある。
 一つは、評価されるほどの人間になること。
 もう一つは、正しく評価できる人間になること。

 もう少しばかり、年寄りの僻事(ひがごと)を聞いてくれ。

 どんなに小さなことでもいい、どこかの領域で「自分が最高」と思える人になってほしい。
 自分の生きる意味を自分で見つけられる人になってほしい。

 私はこのような立派なことを言える人間ではない。見てのとおりだ。
 自分にこそ言い聞かせている言葉である。
 君たちとは、あと少しの刹那、この世界で、同じ時間をそれぞれ過ごすことになる。
 たがいに開智未来に関わった者として、それぞれ生きていくことになる。
 出会うことがあったならば、新たな人間となって、初対面の如く再会しよう。
 ☆  ☆
 「見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。」という表現は、最後まで使うべきかどうか悩みました。「醜い」という言葉は少々刺激的です。もしかしたら差別的と勘違いされないか。そんな不安も持ちました。
 詐欺で老人から大金をだまし取る詐欺者、わが子を虐待する親。ニュースを見ると醜いものばかりです。見苦しい言い訳、見苦しい誹謗が私たちのまわりに充満しています。これらは断固として拒否せよ。それが正義であろう。
 これからは自分で考え、自分で責任を持って、正しく生きよ。「自律」の妨げになる、自分の幼児性や甘え、そして、大人の過保護や度が過ぎた「ものわかりのよさ」等々。こういう「まとわりつくもの」を振り払え、と言いたかったのです。
 「頑固ジジイ」「因業ジジイ」と言われそうですね。
 それにしても、卒業する高校3年生たちの「顔」がよかった。
 年をとってもそういう顔でありつづけてほしいと願っています。卒業おめでとう。

卒業式

 明日は卒業式、今日は予行。毎年のことながら、学校全体が異空間に感じられる時である。私にはそう感じられる。
 今年は顧問なので、式辞のプレッシャーはなくて気が楽だが、中学入学生は6年のうちの5年、高校入学生は3年のうちの2年は、校長であった。どうしても、卒業生たちは開智未来に入学して幸せだったのか、と自問してしまう。そして、責任を感じてしまう。
 卒業の日は、3年間・6年間の思い出が語られる、特別な一日である。「走馬燈のように」とは、少々陳腐で古くさい表現だが、なるほど、ぐるぐると回る紙のスクリーンに映し出された幻のように、過去のことが次から次へと思い出されてくる。
 そのうちに、過去がのしかかってくるようで、私はときどき息苦しくなる。
 私の高校の頃を思い出すと、私は卒業式後、はやく学校を立ち去りたかった。次の未来の方に心が移っていたからである。過去との付き合い方が下手な性分なのかもしれない。
 過去はまぼろしではない。過ぎ去ったことではあるが、確実な堆積物である。未来は未だ来ぬもの。事実ではない。しかし、卒業の日は、この地層となった3年間・6年間に引けを取らぬほどに、未来はあたかも事実のように輝く。過去と未来が共存する不思議な一日である。
 未来をつくるには充実した「事実たる過去」が必要だからか。
 それとも、未来へ先走りをするのを押さえるために「ゆらめく過去」を振り返るのか。
 明日は過去と未来に圧倒されて、今の気持ちを伝えられないかもしれないので、先走って、卒業おめでとう、と卒業生たちにこの場を借りて伝えたい。そして、2年間・5年間の気持ちを込めて、卒業生の皆さん、そして、保護者の皆様に、卒業ありがとう、と記したい。

うつしよ

 現世の疾きものかな。
 朝から詠嘆と言える感慨に浸っています。 
 開智未来の開校まであと3週間を切り、翌日に併願の高校入学生の入学説明会および中学入学生の事前登校日を控えていた、ちょうど8年前のことでした。はやい(疾い)ものですね。
 大地が激しく揺らぎ、街の信号機は消え、電車は途絶え、私はこの学校の開校ができるのかと、南面の窓に駆け寄り、埼玉大橋の存在を確認しました。今でもリアル(現実的)に思い起こすことができます。この頭の中の映像は過去のことではあるが、現実の私のなかに「像」として残っています。
 現世(うつしよ)とは不思議な言葉ですね。今、この時という現実を指す言葉であると同時に、いつか幻と消えゆくはかなさも含意しています。
 この日本が絶望のどん底にあるときに、「未来」という名の本校が誕生しました。機会あるごとに話していることですが、私は一つの宿命のようなものを感じて、この8年間を過ごしてきました。
 未来を創る学校でなければならない。
 未来を担う生徒を育てなければならない。
 使命感、責任感、重圧、足かせ。そして、その使命を果たせていないという申し訳なさ、後ろめたさ。複雑な感情が、ずっと足もとに絡みついていました。
 一方で、日本中を覆った絶望の中で、新しい日本が、そして、新しい日本人が芽吹くものと、不遜ながらひっそりと思っていました。その思いを開智未来に重ねてきました。
 8年経った今、私たちは新たな知性を獲得したのでしょうか。新たな社会を創ってきたのでしょうか。新たな教育を求めてきたのでしょうか。そして、私は校長としてやるべきことをやっていたのでしょうか。
 過去を思い出すのは、ノスタルジーからではない。それが事実だからである。過去を事実として確認しないから、私たちは現世を彷徨(さまよ)ってしまうのだ。
 現世の疾きものかな。
 尻切れトンボのメッセージとなってしまいました。
 亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

ヨクミキキシワカリ

 昨日は、大学を取り巻く状況を知ろうと、「私立大学等改革フォーラム」に参加してきました。会場は四谷にある上智大学でした。
 何事もねらいをもって行動する。
 生徒たちに教えているように、参加に当たって、2つのねらいを設定しました。
 1つは、よく見聞きし分かること。これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ヨクミキキシワカリ」をもじったものです。よく聞いて、よく見て、そして、よく理解することです。
 2つ目は、読みやすい文字でメモを取ることです。私の字はあまり読みやすいものではありません。現在、その改善に向けて、少々ゆっくりでも読みやすい丁寧な文字を書こうとしているところです。
 現在、高等教育(大学教育)の改革については、文部科学省がかなり力を入れています。文部科学省が直接補助金を配当するので、かなり強く要求できるからでしょう。小・中・高校よりもずっと急激な改革が進められています。
 AP、FDという見慣れぬ記号は、意味をもたない符丁にしか見えません。
 コンソーシアム、プラットホーム、コンピテンシー、ディプロマ・サプリメント等々。
 うーん。よくわからない。横文字が飛び交い、話し手はその用語に意味を見出しているのかと、やっかみ半分、訝ってしまいました。
 なんと私は無知な田舎者なのだろう。やっぱり先端の世界は違うなあ。
「よく見聞きし分かる」ことは大変なことである。そこで、自分を鼓舞するかのように、帰りの湘南新宿ラインの電車の中で、「ヨクミキキシワカリ、ヨクミキキシワカリ」と何度も呟きました。「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」。強がる気持ちからでしょうか、いつの間にか、「雨ニモマケズ」を心の中で諳んじていました。

あえてゆっくりと

 あえてゆっくりと考える。ゆっくりと読む。
 別に、加齢ゆえの現象ではなく、意志としてゆっくりと行動するようにしています。すると、深く考え、深く読めるようになってきました。
 かつては「切れ者」であることを望み、「愚鈍」であると思われないようにと、頭の回転のよよさを追求していましたが、60歳を超えたのでそのように思われてもいいかな、という気持ちもあり、「ゆっくり」を自分に言い聞かせて生きるようにしています。
 ゆっくりと聞く。ゆっくりと話す。ゆっくりと見る。ゆっくりと食べる。ゆっくりと散歩する。
 急かない、焦らない、短気にならない。時々、足を止めること。
 昨日のメッセージにも、ニーチェの引用をしましたが。「じっと待つ」ことも大切ですね。
 もちろん、高速も必要です。高速で処理する。高速で対応する。高速で逃げる。
 特に、回避するのは高速でなければなりません。高速で処理するからゆっくりの時間が生まれるわけですから。
「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」
 昨日示したニーチェの言葉です。
 昔、車のエンジンかあまり発達していなかった頃、低速で運転しているとエンジンかエンストすることがありました。
 ゆっくりとできる力量を年相応に持ちたいものですね。

40年前の自分との対話

 「読解力・言葉力・日本語」を真剣に考えるようになり、また、勉強・研究するようになって約50日、最近は言葉に敏感になってきました。
 昨日、西尾幹二氏の『ヨーロッパの個人主義』という本を紹介しましたが、学生時代(なんと40年も前!)の同時期に読んだ、同氏の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を本棚から発見しました。
 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より、p.7)
 パラパラとページをめくると、こんな言葉が目に飛び込んできました。
 うーん。すごい言葉ですね。若い頃にはこの言葉の意味が分からなかったようで、赤の線は引いてありませんでした。自分というものは、歳を重ねるにしたがってその質量が増してくる。最後には自分としてしか世界を味わえないという諦め。このようなことをこの言葉から感じられるほどに長く生きてきたのでしょう。
 「個性は決して主張するものではなく、意図せず自然ににじみ出てくるものでなければならない」(p.118)
 ここには赤線が引いてありました。本を読み直すと、自分の来し方を振り返ることができますね。
 言葉に敏感になるということは人間に敏感になるということ。
 言葉に敏感になるということは自分に敏感になるということ。
 ふと、そんな言葉が浮かんできました。じっくりと考えられるようになったからでしょうか。
 「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」(p.114)
 おいおい、お前はどんなつもりでここに赤線を引いたのか!
 40年前の自分に尋ねてみたいところです。

生身

 昨日は週休日で、しかも、いい天気だったので、3時間半ほどサイクリングしました。春の香りがしてさわやかだったので、52キロメートルと、久しぶりにしては少々長い距離をこいでしまいました。
 自分の力で長い距離を走れることが、自転車のいいところです。もちろん、徒歩では10数キロが限界なので、自転車というテクノロジーを活用しているのですが、車と違って動力は自分の肉体です。自分の力で動いていると、車に乗っていては見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを五感で味わうことができます。そして、精神がいきいきと蘇ってくるような心持ちになります。これが生身の素晴らしさですね。
 話は変わりますが、昨日から、『個人主義とは何か』(西尾幹二著、PHP新書、2007年)を読んでいます。実は、この本は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)として出版された本の復刻版です。学生時代に読んだことを覚えています。前日、本屋で『個人主義とは何か』を見かけて購入し、再読しているところです。最近、昔の文章ばかり読んでいますが、時間に磨かれた文章は滋味ゆたかで、読み込めば読み込むほど、その深さに気づきます。
 読書ノートに抜き書きした部分を一つ紹介します。
 「ヨーロッパの技術文明は、自分の意志(ママ)で着たり脱いだりすることのできる衣裳ではない。いったん着用におよべば、着た人の身体ばかりではなく、その魂までをも変形させる不気味な力を持ったものなのである」
 明治維新、そして、戦後の欧米文明の導入について述べた文章です。ここで書かれている「技術文明」を「テクノロジー」や「ICT」、または「スマホ」に、さらには、「自動車」や「AI」に置き換えて読んでいます。
 最近、私は散歩や自転車がお気に入りです。

読解力

 昨日は、昼頃から生憎の雨になり、残念ながら馬鈴薯の種芋を植えることができず、その結果、地に足をつけるという「倫理的」な営みができませんでした。そこで、「晴耕雨読」という素敵な日本語に寄りかかって、本を読み続けました。
 さて、今日は、昨日読んだ『20歳からの〈現代文〉入門』(中島克治著、NHK生活人新書、2016年)から、いくつかの文を紹介したいと思います。私の拙い文章や考えより、良い本には良い言葉や文章や考えがたくさんあります。時には、「思想」という貴重な宝物も見つけることができます。私は目利きではないので、果たして私の選び出したものが「宝玉」かどうかは不明ではありますが、ご賞味ください。
 ただ、生徒たちに「読む力」を育てるのは大切だということ、そして、私たち大人も「読む力」を付けなければならないことを、一言付け加えておきたいと思います。
 「本を読む行為の中に、主体的な取り組みや模索を改めて組み込めないだろうか」「読んだ作品の、本当の価値の中に歩み出す」(読解という行為はただ意味を読み取るにとどまらず、そこから得たことをいかに生きる行為の中に組み込むか、そのことが大切だということだと私は理解しました)
 「私たちが本当に満たされるのは、自分がどのような人間なのかをつかんだ瞬間、そして、自分の心と他の人の心が通い合った瞬間です」(幸せとは何かを考える上で参考になりました)
 「今のインターネット上には情報があふれ、いいものも悪いものも嘘もまぜこぜになったような文章が氾濫しています。そんな『情報の洪水』に流されてしまわず、自分らしく生きるために必要なのが『読解力』である」(私も心からそう思います)
 「『現代文』のさまざまな文章を深く理解できる者は、さまざまな場面において、機敏に、そして慎重に対処するのです。また、人の輪の中にいて、率直に自分を表出し、人を共感させる力さえ発揮することができるのです。むしろ、悩み多き者とすらいえます。しかし、彼らはとても人間的で、自分の弱さをさえ直視しようとします。苦境を切り抜けるのに、小説的世界を重ね合わせたり、評論的なアプローチを行ったりしつつ、時には友人や教員を頼ることができるのです」(実は中島氏は私立中高一貫校の教員です。生徒たちをよく見ている先生ですね)

倫理的拒絶

 昨日のメッセージで、亀井勝一郎氏の『日本人の精神史』からの引用を、ひとつ忘れていました。
 「拒絶の政治的ポーズの大きさに比べて、拒絶の倫理的深さがない」です。
 とても重要な箇所です。日本人の抵抗というものが、たんに政治的な抵抗、しかも、ポーズに過ぎないとし、さらに、倫理的な抵抗がないという趣旨でしょう。「倫理的深さ」という言葉も洗練されていていいですね。
 今般、起業のデータ改ざんや偽装のニュースが頻繁に報道されています。これだけ掘れば出てくるような状況ということは、きっとそのあたりの土地のあちこちに埋まっているのでしょう。
 この問題には、法令の網の目をかいくぐり、見つからなければよい、という日本人の意識があると私は思っています。見つかろうとなかろうと、「狡いことはしてはならぬ。ごまかしはならぬ。卑怯はならぬ」という倫理観が日本人からなくなっているのです。
 集団で一人をいじめる。これは卑怯な振る舞いです。それは「いけない」と禁止されるものである以上に、倫理として「行ってはならぬ」と一人一人が「抵抗」しなければならない、まさに「思想」に関わることなのです。
 このような「倫理的な抵抗」が日本社会から消えつつある。すでに昭和30年代前半の文章で訴えられているくらいですから、その後半世紀以上経ったこの日本では消滅してしまったのかもしれません。
 最近、「企業倫理」という言葉に変わって、「コンプライアンス(compliance)」という横文字をよく見聞きします。この英単語は「法令に従うこと」という意味です。そこには「倫理」の意味は含まれていません。私は、この変化は単に流行というものではなく、意図的に使われているのだと邪推しています。「法令に従っていればよいのさ」。そんなふうに聞こえてきます。
 教育という人間の営みにおいては、「コンプライアンス」で処理することは、けっしてあってはならない。少々息ばりすぎでしょうか。少なくとも、「それでも開智未来生か」と生徒たちにも言えるように、私自身も、損得論に陥ることなく、「倫理的抵抗」を感じる感性と思想を持ちたいと思っています。
 今日も時代遅れになってしまったようです。
 曇天の日曜日、私は馬鈴薯の種芋を植える予定です。地に足をつけた、これも「倫理的」な営みだと直感しています。「倫理」には「人間」という概念が寄り添っているからです。

時代遅れ

 今日も亀井勝一郎をゆっくりと読んでいると、彼の言っていることが身にしみて分かるようになった自分を発見しました。
 高校時代、彼の『愛の無常について』や『我が精神の遍歴』を読んだことを思い出しました。その頃は、匂いを嗅ぐ程度しか読めていなくて、ほとんど意味が分からなかったため、それらの本の内容をまったく思い出せません。きっと何も得ることはできなかったのでしょうね。でも、匂いを嗅いだという経験は私を成長させたはずだと、昔の自分をかばいだてしたい気持ちもあります。
 「私は『思想』を『思想』たらしめる原動力のひとつは、拒絶の大きさだと思っている」「現代人である我々は、遺憾ながら深い拒絶を失っている」「我々は『ものわかりのよさ』と『あいまいさ』の中に漂っている自己を嫌悪しているのだ」
 自分には軸となる自らの思想がない。私が20代の頃からずっと抱いている感情について明確に書かれています。
 亀井氏は、「日本の思想」をつくる糸口を「日本人の精神史」に見出そうとしたに違いありません。この四部作を読めば、40年にわたる自己嫌悪を消し去ることができるのではないか。そんな期待を抱いています。
 さて、この文章は昭和30年代前半、私の生まれた頃に書かれたものです。「現代人である我々」の「現代」とは60年前のことです。自分の生まれた頃に書かれたことがまったく古くさくなく、亀井氏と対話するように読むことができる。
 救われた気分になります。亀井氏と知人になった心持ちです
 不勉強で能力がなかったため、今頃になってやっとわかり始めてきました。
 遅ればせながら、現代日本の不毛さに抗いながら、生徒たちに大切なことを伝え続けたいです。
 時代遅れと思われそうですが、時代遅れとは時代に遅れることではなく、時代を遡って過去と語り合うことだと考えれば、素敵なことですよね。
 やはり、読むという営みは、ゆたかな精神活動に違いありません。