顧問感覚

コモンセンス

新サプリの予感

 今朝は「学びのサプリ講座」がありました。
 この講座は本年度初めて行ったもので、高校生の希望者を対象に、サプリをさらに進化・深化させようとの試みで始めたものでした。当初の受講生は40名以上はいたのですが、最終会の本日は9名でした。
 「哲学」の授業で言っていることと重複している部分もありますし、私としてはサプリを進化・深化させているとは思っているのですが、それは一部を深めたに過ぎなく、いつも同じことを言っているような気もします。ただ、1週間分の「やる気」は与えられたのかなと、自分を納得させているところです。
 私の出勤日等の都合で、来年は多分行わないでしょうから、今回が最終回になるでしょう。
 そこで、これまで言及したことのなかった「意思の力」について、その試論を今回初めて提示しました。以下、テキストから抜粋します。
 ☆   ☆
〈意志の力〉
 「気分」では、大学受験という長丁場で戦い続けることはできません(人生も同じです)。「意志」の力(これを精神力とも言いいます)が必要です。
 では「意志」とは何だろうか。
(1) 意志とは自分の中で閉じたものではない。公共性を有するものである。(貢献とはこの公共性にかかるキーワードだったのですね)
(2) 強靱ではないものは意志とは言わない。逆境で意志は鍛えられる。
(3) 意志は心理の上にある。心のあり方(心理)を制御するものである。
(4) 意志と身体は関係がある。まずは身体を鍛えよ。
 ☆   ☆
 今後、もっと深めて、「哲学」の授業で生徒たちに伝えたいと思っています。
 もう一つ、「思う」と「考える」の違いについて考えました。これは日本語学者である大野晋氏や森田良行氏の本から学んだことをもとにしています。私たち大人は子どもたちに「よく考えなさい」としばしば言いますが、私たち自身「考えるとは何か」について分かっていません。とも来年度の「哲学」のテキストでまとめ、さらに実践していこうと思っています。
 「『思う』は『考える』と違って、刹那的判断ないしは、感情の没入で、それだけに対象把握は単一的であって、物事を分析的にとらえる知的行為ではない」
 『思考をあらわす基礎日本語辞典』(森田良行著、角川ソフィア文庫)からの引用です。「思う」とは単一的に思考すること。例えば、「思い込む」とは一つのことに拘泥していることです。対して「考え込む」はあれこれと考えを巡らせていることです。
 そこで、「考える」ための呪文を考えました。呪文1「なぜ、なぜ、なぜ」、呪文2「だから、なぜなら、しかし」、呪文3「ああでもない、こうでもない」です。分析的・論理的・多角的に思考するための方法です。これも来年度のテキストにまとめ上げたいと思っています(今の時点で単一的に思ったことを表明しているだけです)。
 まだまだ進化していきたいですね。
 受講生たちにこんなことを伝えました。
「自分の殻(枠)を打ち破らなければ、つまり、限界を超えなければ、さらなる自分へと飛躍できないし、大きく成長できない。そのためには限界を超えること。そこまで勉強すること、そういう生き方をすることが必要である」(本日のテキストより)
 新しいサプリを創る。目標がまた一つ増えたようです。

思想家になるという夢

 ちょうど1週間前のことです。私の高校時代のことで、ふと思い出したことがあります。
 私は「思想家」になりたかったという事実です。
 ほとんど理解できないながらも、倉田百三や亀井勝一郎の著作、パスカルの『パンセ』などを読み囓り、いろいろと考えたことを文章にできる人になりたいと思った時期が、そうそう、たしかにあったのです。当時は、会社などの組織に入って仕事に就くということなど想像もできなかったので、また、生活するために、そして、家族のために「働く」ということがわからなかったので、自由に考えるだけで生きられる(生活できる=お金を手に入れられる)、そんな都合のよい未来を夢見ていました。今の高校生ならば、「ユーチューバーになる」という夢に近いでしょうか。
 そろそろ、生活のために働く必要もなくなるだろうから、思想家になるもいいかなと、ほんのりと考えるようになりました。詩人になる、ダンサーになる、に加えて思想家になる!です。相変わらず、いい歳をしてふわふわしている人間です。
 そのような生徒がいたならば、「もっと地に足をつけて生きなさい」とアドバイスするでしょうが、私の場合はすでに十分に働いてきたのだから、道楽のようなもの。年寄り相手では、「好きにしなさい」とあきらめるしかありませんよね。
 調べてみると、英語では「thinker」と言うようです。結構単純ですね。広辞苑では「思想が深く豊かな人」。これも至って簡素な定義です。
 そこで安易にもスマホで検索すると、〈デジタル大辞泉〉には「社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人」とあります。発表の場を持たなければならないし、他に悪い影響を与えてはまずい。思想家はやめとこうかな、としばし躊躇してしまいました。
 さらに、〈ウィキペディア〉を見ると、「様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人」とあります。この定義では発表しなくていい。試みるだけでいいのですから、私にもなれそうです。それにしても含蓄のある定義ですね。「熟考し、あるいは問うて答えるため」というくだりに鳥肌が立ちました。
 そこで、まさに熟考して、「思想家として生きる」ことを始めてみようかなと思い立ちました。
 「思想家として生きるとは、熟考して得た思想を生き方として示すこと。つま、行動することである。それを『実践』ともいう」
 私なりの定義を考えてみました。
 そんなことで、このメッセージも最近、少々理屈っぽくなりました。しかし、思想とは熟考したものですから、考えが「熟れ」て、広辞苑の「思想が深く豊かな人」という定義のように、簡素なわかりやすい言葉で表現されてしかるべきです。もっと勉強します。
 私は、開校以来、生徒たちに「哲学」を教えてきました。もしかしたら、高校時代の夢が叶っていたのかもしれません。自分の学校をつくる、自分の本を出版する。中学・高校時代の夢を開智未来で叶えてきした。
 「また一つ叶えたよ」。昔の自分に報告したいと思います。
 さて、もうすぐ新年度が始まります。
 悪い影響を与えないように、身や言葉や行動を正しくして、思想を深く豊かにして、来年度の「哲学」の授業に臨みたいと思います。

感謝の単語カード

 卒業式から一夜明け、今日は中学3年生たちによる「感謝の会」がありました。
 開智国際大学の卒業式と重なってしまい、そちらに出席するため、彼らの進級式に出席できなくなってしまいました。そこで第6期生の進級を祝う詩を書き、その会で読み上げることにしました。
 ☆  ☆
完成と名づけられた子たちへ-中学卒業を祝って-

完成と名づけられた子たちよ
完成年度である6年目の年に入学したことで
喜びのあまり
ふと「完成」という名を与えてしまった

そのとき君たちに
とまどいの夢を投げかけてしまったのかもしれない
いつしか君たちに
手に負えぬ宿命を与えていたのかもしれない

完成とは逃げ水を追うようなもの
目指した地点は、近づけば先へ先へと進み行く

完成は目標ではあるが到達点ではない
それは終点のないベクトルであり
形状のない価値そのものである

完成と名づけられた子たちよ
宿命は君たちをつねに試しつづけるだろう
振り返ってみよ
「再生」の子らが
「完成」の君たちのあとに続いている

願わくば
たどり着いた地点にその両足で立ち
合図の口笛を吹き
その3メートル先をそっと指さし
「完成は未完、未完は完成」と
此の地と彼の地をつなげる呪文を唱えよ

あとに続く者たちのため
さきに生きた者たちのため
 ☆  ☆
 感謝の会の最後に、生徒たちからプレゼントをいただきました。91名の生徒一人一人が、担任や私など関係してきた先生方それぞれに、カードの表面には感謝の言葉、裏面にはその先生のよいところを書き、リングで1つにまとめた、いわゆる「感謝の単語カード」です。
 「開智未来をつくってくれてありがとう」「顧問のいいところは生徒想いのところです」。少々こそばゆくて照れてしまいますが、勇気や元気が湧いてきます。鞄の中に携帯し、辛いときや悲しい時など読み返したいと思います。
 心優しい子どもたちです。ありがとう。嬉しいです。
 さて、同じ時間帯でこれから入学する高校生たちのプレ登校がありました。
 進級生たちと入学生たちがこれから同級生となって、切磋琢磨し、大きく成長していくでしょう。
 4月が待ち遠しいですね。

続・卒業式

 卒業式が終了しました。開智未来らしい、いい卒業式でした。
 卒業する高校3年生たちの「顔」がいい。
 これが開智未来ですよね。
 さて、顧問として私も祝辞を述べました。校長ではないので、少しは勝手なことを言ってもいいかなと思い、強い表現の言葉を使ってみました。一部を再現します。
 ☆  ☆
 見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。
 それは、自らの外にあるもの、内にあるもの、共にである。
 それが「自律と正義」である。
 成長しつづけよ。
 ああいう人だと固定されるような人間になるな。
 人の評価を超える人になれ。
 人の評価を得ようと躍起(やっき)になるくらいなら、自分で自分を評価できる人になれ。
 これには2つの意味がある。
 一つは、評価されるほどの人間になること。
 もう一つは、正しく評価できる人間になること。

 もう少しばかり、年寄りの僻事(ひがごと)を聞いてくれ。

 どんなに小さなことでもいい、どこかの領域で「自分が最高」と思える人になってほしい。
 自分の生きる意味を自分で見つけられる人になってほしい。

 私はこのような立派なことを言える人間ではない。見てのとおりだ。
 自分にこそ言い聞かせている言葉である。
 君たちとは、あと少しの刹那、この世界で、同じ時間をそれぞれ過ごすことになる。
 たがいに開智未来に関わった者として、それぞれ生きていくことになる。
 出会うことがあったならば、新たな人間となって、初対面の如く再会しよう。
 ☆  ☆
 「見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。」という表現は、最後まで使うべきかどうか悩みました。「醜い」という言葉は少々刺激的です。もしかしたら差別的と勘違いされないか。そんな不安も持ちました。
 詐欺で老人から大金をだまし取る詐欺者、わが子を虐待する親。ニュースを見ると醜いものばかりです。見苦しい言い訳、見苦しい誹謗が私たちのまわりに充満しています。これらは断固として拒否せよ。それが正義であろう。
 これからは自分で考え、自分で責任を持って、正しく生きよ。「自律」の妨げになる、自分の幼児性や甘え、そして、大人の過保護や度が過ぎた「ものわかりのよさ」等々。こういう「まとわりつくもの」を振り払え、と言いたかったのです。
 「頑固ジジイ」「因業ジジイ」と言われそうですね。
 それにしても、卒業する高校3年生たちの「顔」がよかった。
 年をとってもそういう顔でありつづけてほしいと願っています。卒業おめでとう。

卒業式

 明日は卒業式、今日は予行。毎年のことながら、学校全体が異空間に感じられる時である。私にはそう感じられる。
 今年は顧問なので、式辞のプレッシャーはなくて気が楽だが、中学入学生は6年のうちの5年、高校入学生は3年のうちの2年は、校長であった。どうしても、卒業生たちは開智未来に入学して幸せだったのか、と自問してしまう。そして、責任を感じてしまう。
 卒業の日は、3年間・6年間の思い出が語られる、特別な一日である。「走馬燈のように」とは、少々陳腐で古くさい表現だが、なるほど、ぐるぐると回る紙のスクリーンに映し出された幻のように、過去のことが次から次へと思い出されてくる。
 そのうちに、過去がのしかかってくるようで、私はときどき息苦しくなる。
 私の高校の頃を思い出すと、私は卒業式後、はやく学校を立ち去りたかった。次の未来の方に心が移っていたからである。過去との付き合い方が下手な性分なのかもしれない。
 過去はまぼろしではない。過ぎ去ったことではあるが、確実な堆積物である。未来は未だ来ぬもの。事実ではない。しかし、卒業の日は、この地層となった3年間・6年間に引けを取らぬほどに、未来はあたかも事実のように輝く。過去と未来が共存する不思議な一日である。
 未来をつくるには充実した「事実たる過去」が必要だからか。
 それとも、未来へ先走りをするのを押さえるために「ゆらめく過去」を振り返るのか。
 明日は過去と未来に圧倒されて、今の気持ちを伝えられないかもしれないので、先走って、卒業おめでとう、と卒業生たちにこの場を借りて伝えたい。そして、2年間・5年間の気持ちを込めて、卒業生の皆さん、そして、保護者の皆様に、卒業ありがとう、と記したい。

うつしよ

 現世の疾きものかな。
 朝から詠嘆と言える感慨に浸っています。 
 開智未来の開校まであと3週間を切り、翌日に併願の高校入学生の入学説明会および中学入学生の事前登校日を控えていた、ちょうど8年前のことでした。はやい(疾い)ものですね。
 大地が激しく揺らぎ、街の信号機は消え、電車は途絶え、私はこの学校の開校ができるのかと、南面の窓に駆け寄り、埼玉大橋の存在を確認しました。今でもリアル(現実的)に思い起こすことができます。この頭の中の映像は過去のことではあるが、現実の私のなかに「像」として残っています。
 現世(うつしよ)とは不思議な言葉ですね。今、この時という現実を指す言葉であると同時に、いつか幻と消えゆくはかなさも含意しています。
 この日本が絶望のどん底にあるときに、「未来」という名の本校が誕生しました。機会あるごとに話していることですが、私は一つの宿命のようなものを感じて、この8年間を過ごしてきました。
 未来を創る学校でなければならない。
 未来を担う生徒を育てなければならない。
 使命感、責任感、重圧、足かせ。そして、その使命を果たせていないという申し訳なさ、後ろめたさ。複雑な感情が、ずっと足もとに絡みついていました。
 一方で、日本中を覆った絶望の中で、新しい日本が、そして、新しい日本人が芽吹くものと、不遜ながらひっそりと思っていました。その思いを開智未来に重ねてきました。
 8年経った今、私たちは新たな知性を獲得したのでしょうか。新たな社会を創ってきたのでしょうか。新たな教育を求めてきたのでしょうか。そして、私は校長としてやるべきことをやっていたのでしょうか。
 過去を思い出すのは、ノスタルジーからではない。それが事実だからである。過去を事実として確認しないから、私たちは現世を彷徨(さまよ)ってしまうのだ。
 現世の疾きものかな。
 尻切れトンボのメッセージとなってしまいました。
 亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

ヨクミキキシワカリ

 昨日は、大学を取り巻く状況を知ろうと、「私立大学等改革フォーラム」に参加してきました。会場は四谷にある上智大学でした。
 何事もねらいをもって行動する。
 生徒たちに教えているように、参加に当たって、2つのねらいを設定しました。
 1つは、よく見聞きし分かること。これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ヨクミキキシワカリ」をもじったものです。よく聞いて、よく見て、そして、よく理解することです。
 2つ目は、読みやすい文字でメモを取ることです。私の字はあまり読みやすいものではありません。現在、その改善に向けて、少々ゆっくりでも読みやすい丁寧な文字を書こうとしているところです。
 現在、高等教育(大学教育)の改革については、文部科学省がかなり力を入れています。文部科学省が直接補助金を配当するので、かなり強く要求できるからでしょう。小・中・高校よりもずっと急激な改革が進められています。
 AP、FDという見慣れぬ記号は、意味をもたない符丁にしか見えません。
 コンソーシアム、プラットホーム、コンピテンシー、ディプロマ・サプリメント等々。
 うーん。よくわからない。横文字が飛び交い、話し手はその用語に意味を見出しているのかと、やっかみ半分、訝ってしまいました。
 なんと私は無知な田舎者なのだろう。やっぱり先端の世界は違うなあ。
「よく見聞きし分かる」ことは大変なことである。そこで、自分を鼓舞するかのように、帰りの湘南新宿ラインの電車の中で、「ヨクミキキシワカリ、ヨクミキキシワカリ」と何度も呟きました。「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」。強がる気持ちからでしょうか、いつの間にか、「雨ニモマケズ」を心の中で諳んじていました。

あえてゆっくりと

 あえてゆっくりと考える。ゆっくりと読む。
 別に、加齢ゆえの現象ではなく、意志としてゆっくりと行動するようにしています。すると、深く考え、深く読めるようになってきました。
 かつては「切れ者」であることを望み、「愚鈍」であると思われないようにと、頭の回転のよよさを追求していましたが、60歳を超えたのでそのように思われてもいいかな、という気持ちもあり、「ゆっくり」を自分に言い聞かせて生きるようにしています。
 ゆっくりと聞く。ゆっくりと話す。ゆっくりと見る。ゆっくりと食べる。ゆっくりと散歩する。
 急かない、焦らない、短気にならない。時々、足を止めること。
 昨日のメッセージにも、ニーチェの引用をしましたが。「じっと待つ」ことも大切ですね。
 もちろん、高速も必要です。高速で処理する。高速で対応する。高速で逃げる。
 特に、回避するのは高速でなければなりません。高速で処理するからゆっくりの時間が生まれるわけですから。
「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」
 昨日示したニーチェの言葉です。
 昔、車のエンジンかあまり発達していなかった頃、低速で運転しているとエンジンかエンストすることがありました。
 ゆっくりとできる力量を年相応に持ちたいものですね。

40年前の自分との対話

 「読解力・言葉力・日本語」を真剣に考えるようになり、また、勉強・研究するようになって約50日、最近は言葉に敏感になってきました。
 昨日、西尾幹二氏の『ヨーロッパの個人主義』という本を紹介しましたが、学生時代(なんと40年も前!)の同時期に読んだ、同氏の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を本棚から発見しました。
 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より、p.7)
 パラパラとページをめくると、こんな言葉が目に飛び込んできました。
 うーん。すごい言葉ですね。若い頃にはこの言葉の意味が分からなかったようで、赤の線は引いてありませんでした。自分というものは、歳を重ねるにしたがってその質量が増してくる。最後には自分としてしか世界を味わえないという諦め。このようなことをこの言葉から感じられるほどに長く生きてきたのでしょう。
 「個性は決して主張するものではなく、意図せず自然ににじみ出てくるものでなければならない」(p.118)
 ここには赤線が引いてありました。本を読み直すと、自分の来し方を振り返ることができますね。
 言葉に敏感になるということは人間に敏感になるということ。
 言葉に敏感になるということは自分に敏感になるということ。
 ふと、そんな言葉が浮かんできました。じっくりと考えられるようになったからでしょうか。
 「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」(p.114)
 おいおい、お前はどんなつもりでここに赤線を引いたのか!
 40年前の自分に尋ねてみたいところです。

生身

 昨日は週休日で、しかも、いい天気だったので、3時間半ほどサイクリングしました。春の香りがしてさわやかだったので、52キロメートルと、久しぶりにしては少々長い距離をこいでしまいました。
 自分の力で長い距離を走れることが、自転車のいいところです。もちろん、徒歩では10数キロが限界なので、自転車というテクノロジーを活用しているのですが、車と違って動力は自分の肉体です。自分の力で動いていると、車に乗っていては見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを五感で味わうことができます。そして、精神がいきいきと蘇ってくるような心持ちになります。これが生身の素晴らしさですね。
 話は変わりますが、昨日から、『個人主義とは何か』(西尾幹二著、PHP新書、2007年)を読んでいます。実は、この本は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)として出版された本の復刻版です。学生時代に読んだことを覚えています。前日、本屋で『個人主義とは何か』を見かけて購入し、再読しているところです。最近、昔の文章ばかり読んでいますが、時間に磨かれた文章は滋味ゆたかで、読み込めば読み込むほど、その深さに気づきます。
 読書ノートに抜き書きした部分を一つ紹介します。
 「ヨーロッパの技術文明は、自分の意志(ママ)で着たり脱いだりすることのできる衣裳ではない。いったん着用におよべば、着た人の身体ばかりではなく、その魂までをも変形させる不気味な力を持ったものなのである」
 明治維新、そして、戦後の欧米文明の導入について述べた文章です。ここで書かれている「技術文明」を「テクノロジー」や「ICT」、または「スマホ」に、さらには、「自動車」や「AI」に置き換えて読んでいます。
 最近、私は散歩や自転車がお気に入りです。

読解力

 昨日は、昼頃から生憎の雨になり、残念ながら馬鈴薯の種芋を植えることができず、その結果、地に足をつけるという「倫理的」な営みができませんでした。そこで、「晴耕雨読」という素敵な日本語に寄りかかって、本を読み続けました。
 さて、今日は、昨日読んだ『20歳からの〈現代文〉入門』(中島克治著、NHK生活人新書、2016年)から、いくつかの文を紹介したいと思います。私の拙い文章や考えより、良い本には良い言葉や文章や考えがたくさんあります。時には、「思想」という貴重な宝物も見つけることができます。私は目利きではないので、果たして私の選び出したものが「宝玉」かどうかは不明ではありますが、ご賞味ください。
 ただ、生徒たちに「読む力」を育てるのは大切だということ、そして、私たち大人も「読む力」を付けなければならないことを、一言付け加えておきたいと思います。
 「本を読む行為の中に、主体的な取り組みや模索を改めて組み込めないだろうか」「読んだ作品の、本当の価値の中に歩み出す」(読解という行為はただ意味を読み取るにとどまらず、そこから得たことをいかに生きる行為の中に組み込むか、そのことが大切だということだと私は理解しました)
 「私たちが本当に満たされるのは、自分がどのような人間なのかをつかんだ瞬間、そして、自分の心と他の人の心が通い合った瞬間です」(幸せとは何かを考える上で参考になりました)
 「今のインターネット上には情報があふれ、いいものも悪いものも嘘もまぜこぜになったような文章が氾濫しています。そんな『情報の洪水』に流されてしまわず、自分らしく生きるために必要なのが『読解力』である」(私も心からそう思います)
 「『現代文』のさまざまな文章を深く理解できる者は、さまざまな場面において、機敏に、そして慎重に対処するのです。また、人の輪の中にいて、率直に自分を表出し、人を共感させる力さえ発揮することができるのです。むしろ、悩み多き者とすらいえます。しかし、彼らはとても人間的で、自分の弱さをさえ直視しようとします。苦境を切り抜けるのに、小説的世界を重ね合わせたり、評論的なアプローチを行ったりしつつ、時には友人や教員を頼ることができるのです」(実は中島氏は私立中高一貫校の教員です。生徒たちをよく見ている先生ですね)

倫理的拒絶

 昨日のメッセージで、亀井勝一郎氏の『日本人の精神史』からの引用を、ひとつ忘れていました。
 「拒絶の政治的ポーズの大きさに比べて、拒絶の倫理的深さがない」です。
 とても重要な箇所です。日本人の抵抗というものが、たんに政治的な抵抗、しかも、ポーズに過ぎないとし、さらに、倫理的な抵抗がないという趣旨でしょう。「倫理的深さ」という言葉も洗練されていていいですね。
 今般、起業のデータ改ざんや偽装のニュースが頻繁に報道されています。これだけ掘れば出てくるような状況ということは、きっとそのあたりの土地のあちこちに埋まっているのでしょう。
 この問題には、法令の網の目をかいくぐり、見つからなければよい、という日本人の意識があると私は思っています。見つかろうとなかろうと、「狡いことはしてはならぬ。ごまかしはならぬ。卑怯はならぬ」という倫理観が日本人からなくなっているのです。
 集団で一人をいじめる。これは卑怯な振る舞いです。それは「いけない」と禁止されるものである以上に、倫理として「行ってはならぬ」と一人一人が「抵抗」しなければならない、まさに「思想」に関わることなのです。
 このような「倫理的な抵抗」が日本社会から消えつつある。すでに昭和30年代前半の文章で訴えられているくらいですから、その後半世紀以上経ったこの日本では消滅してしまったのかもしれません。
 最近、「企業倫理」という言葉に変わって、「コンプライアンス(compliance)」という横文字をよく見聞きします。この英単語は「法令に従うこと」という意味です。そこには「倫理」の意味は含まれていません。私は、この変化は単に流行というものではなく、意図的に使われているのだと邪推しています。「法令に従っていればよいのさ」。そんなふうに聞こえてきます。
 教育という人間の営みにおいては、「コンプライアンス」で処理することは、けっしてあってはならない。少々息ばりすぎでしょうか。少なくとも、「それでも開智未来生か」と生徒たちにも言えるように、私自身も、損得論に陥ることなく、「倫理的抵抗」を感じる感性と思想を持ちたいと思っています。
 今日も時代遅れになってしまったようです。
 曇天の日曜日、私は馬鈴薯の種芋を植える予定です。地に足をつけた、これも「倫理的」な営みだと直感しています。「倫理」には「人間」という概念が寄り添っているからです。

時代遅れ

 今日も亀井勝一郎をゆっくりと読んでいると、彼の言っていることが身にしみて分かるようになった自分を発見しました。
 高校時代、彼の『愛の無常について』や『我が精神の遍歴』を読んだことを思い出しました。その頃は、匂いを嗅ぐ程度しか読めていなくて、ほとんど意味が分からなかったため、それらの本の内容をまったく思い出せません。きっと何も得ることはできなかったのでしょうね。でも、匂いを嗅いだという経験は私を成長させたはずだと、昔の自分をかばいだてしたい気持ちもあります。
 「私は『思想』を『思想』たらしめる原動力のひとつは、拒絶の大きさだと思っている」「現代人である我々は、遺憾ながら深い拒絶を失っている」「我々は『ものわかりのよさ』と『あいまいさ』の中に漂っている自己を嫌悪しているのだ」
 自分には軸となる自らの思想がない。私が20代の頃からずっと抱いている感情について明確に書かれています。
 亀井氏は、「日本の思想」をつくる糸口を「日本人の精神史」に見出そうとしたに違いありません。この四部作を読めば、40年にわたる自己嫌悪を消し去ることができるのではないか。そんな期待を抱いています。
 さて、この文章は昭和30年代前半、私の生まれた頃に書かれたものです。「現代人である我々」の「現代」とは60年前のことです。自分の生まれた頃に書かれたことがまったく古くさくなく、亀井氏と対話するように読むことができる。
 救われた気分になります。亀井氏と知人になった心持ちです
 不勉強で能力がなかったため、今頃になってやっとわかり始めてきました。
 遅ればせながら、現代日本の不毛さに抗いながら、生徒たちに大切なことを伝え続けたいです。
 時代遅れと思われそうですが、時代遅れとは時代に遅れることではなく、時代を遡って過去と語り合うことだと考えれば、素敵なことですよね。
 やはり、読むという営みは、ゆたかな精神活動に違いありません。

読解力

 約40日ぶりのメッセージです。
 この「顧問感覚(コモンセンス)」は終了したのかとの質問を何度か受けましたが、執筆を開始できるほどに充電するまで時間がかかってしまいました。
 さて、この間、「読解力・言葉力・日本語」について勉強をしていました。日本人の「読む力」が弱まっているのではないかと感じたからです。もちろん、私も入ります。そこで関連した文献を読み、考え続けています。その範囲は、言語学、哲学、認知科学、脳科学、仏教、日本史、漢文、古文、現代文、英語、教育学など、かなりの広がりをもっています。
 文献を読みながら思ったことは、私自身、読解力がないということです。わからない言葉もありますし、何を言っているのか難解なところもたくさんあります。資料をたくさん読もうとして、速く読んでいると、あいまいなところをとばし読みしたり、浅く考えて分かったつもりになっていることがわかりました。
 そこで、じっくりと、というより、意識してゆっくりと読むことにしました。はっきりと分からないところでは立ち止まり、必要に応じてノートを取るようにもしました。自分自身の読解が「読解の実践」となっています。
 今読んでいるのは、『文学に現れたる我が国民思想の研究』(全8巻、津田左右吉著、岩波文庫)と『日本人の精神史』(全4巻、亀井勝一郎著、講談社文庫)です。津田左右吉氏の本は大正5年に書かれた本で、私が30歳の時にいつかは読んでみたいと思って購入した本です。かなづかいは当時のままで、漢字は新字体を採用しているとはいえ、ルビはなく、けっして読みやすいものではありません。漢字熟語などは今は使われていないものもあり、広辞苑や漢和辞典を引きながらの読解です。昔の人は旧字体で読んでいたのですから、日本人の日本語力は衰退したものです。
 亀井勝一郎氏の本は、大学生の時に途中まで読み始めた本です。40年ぶりです。読みながら思うことは、最近の本と比べて中身が濃いということです。途中、古事記からの引用などもあるので、まるで古文です。共に、日本人の考え方を古文時代から分析しており、1か月くらいかけて読み込んでいこうと思っています。
 私は無学だったと、今、つくづく思っています。
 今からでも遅くないと、ゆっくりと本を読み、じっくりと考え、確かで深い言葉で自分の考えをまとめていこうと決心しました。その成果を、このメッセージでお知らせしたり、「哲学」の授業に役立てられたらと思っています。
 明日も頑張って書く予定です。よろしくお願いします。

生きている実感

 高校3年生のセンター試験、そして、中学校入試全日程を終え、新たな週を迎えました。
 高校3年生諸君、中学受験生の皆さんは全力を出せたでしょうか。人生は続きます。まずは一歩、さらに一歩と前に向かって力強く進み続けてくださいね。
 さて、私の方ですが、合格祈願走(歩)では約17キロを踏破しました。その日の夜から膝が痛み、今も歩行に支障が生じています。
 歳は取りたくないものです。
 しかし、その痛みが生徒たちが直面している現実に、ささやかながらも私も関わっている証に感じられます。
 苦痛や絶望、焦りや緊張こそ、生きている実感。ものごとはマイナスに捉えるのではなく、プラスの意味で受け取るべし。
 苦闘している受験生に伝えたいと思います(自分に言い聞かせていることでもあります)。
 さあ、これからです。がんばれ!

祈り

 明日は、センター試験の初日、そして、開智未来の中学入試の最終日。開智未来に関わる様々な人の、様々な思いが注ぎ込まれる一日になります。
 大学入試を経て、3月に開智未来を卒業していく高校3年生たちには、センター試験で自分のもっている力を発揮してほしいと思います。明日は大学入試のスタートでこれから1か月を超える、自己との戦いが始まります。本日の集会で話しましたが、「立ち向かうこと」と「無心になって(問題を解くことに)没頭すること」が大切だと私は考えます。彼らが、一人で生きることを開始する瞬間です。開智未来を選び、3年間または6年間をここで過ごしてきた開智未来生よ、頑張れ!
 それに対し、中学入試は探究型入試も合わせると6回ある入試の最後となります。これまで落ち続けた受験生もいると思いますが、最後まで立ち向かってほしいと思います。最後まであきらめずに戦った者は、必ず何かを得ることができる。それは自信であり、自負心であり、納得であり、そして「合格」でありましょう。小学6年生でありながら、ひたむきに問題と格闘していた、未来の開智未来生の皆さん、頑張ってくださいね。
 さて、私は恒例の「合格祈願走」を実施します。10月のプレ合格祈願走で25キロメートル走って痛めた膝が完治していないので、歩くような祈願走になりますが、開智未来に入学してくれた君たちへの、お礼と感謝の気持ちで湯島天神から草加駅までの15キロを走破したいと思います。この合格祈願にはH3学年主任の寺岬先生と伊東先生も参加します。特に伊東先生は春日部市の試験会場まで走る予定です。
最後まで開智未来中学に受験してくれた皆さんにお会いしたいので、草加駅から電車で柳生駅に移動し、12時には学校に到着したいと思っています。これから開智未来を飛び立つ受験生、そして、これから開智未来で学ぼうとしている受験生のために、それぞれの思いを感じ取りながら、走って(歩くように見えるかもしれませんが)きたいと思います。
 戦うのは受験生。私たちにできることは祈ることだけです。
 開智未来に入学してくれてありがとう。開智未来を目指してくれてありがとう。走りながら祈り続けたいと思っています。

一夜明けての夢

 昨日、第1期中学入学生の「成人式の集い」がありました。
 成人式後の集まりは、地元の出身中学校ごとに行われることが多く、中高一貫生にはそのような場がないことから、同窓会を兼ねて大宮に集まりました。参加者は約7割。教職員も7名が集まりました。
 中学入学生は説明会や入試からの付き合いで、小学生時代の姿も知っています。12歳の頃の面影を、目前の二十歳の彼らに見出しながら、ビールを飲み交わしていると、まるでわが子と対面しているような気分になりました。
 まだ学校が完成していない頃から、各地でサプリを行いながら説明会を実施し、5人、10人と集まった親子を前に、開智未来の夢を語り、集まってきてくれた彼らです。
 彼らは開智未来に入学して幸せだったのだろうか。この学校を選んだことは誤りではなかっただろうか。
 校長として彼らを迎えた者として、ずっと自問してきたことです。顧問となった今でもその自問は続いています。学校を開いた校長として、これからもずっと背負っていく問いでありましょう。
 こうやって多くの卒業生たちが来てくれたのだから、きっと彼らはこの学校を選んだことを悔やんではいないに違いない。
 帰りの電車の中で、第1期生たちからいただいた花束を見つめながら、そんな希望的観測を反芻しました。
 これまで高校入学生も含め、多くの卒業生がこの学校で大切な時期を過ごし、巣立っていきました。今年の3月には第6期高校入学生と第3期中学入学生が卒業します。
 開智未来がどんな学校であるか。それは卒業生たちの未来の姿によって決まるでしょう。大人になった彼らの未来こそが開智未来である。そんなことを考えながら、いつしか、彼ら自身が開智未来の教員として、また、彼らの子どもたちが開智未来生として戻ってきてくれることを、一夜明けて、夢みています。

未来の足音

 中学入試2日目。今日は午前中は「探究型入試2」、午後は「未来A入試」です。
 昨日よりも温かい朝となりましたが、強い風の中、85名の受験生が開智未来に集まってきました。
 さて、昨日の合格発表では、合格発表サイトへのバナーを貼った本校ホームページへのアクセスが集中し、サーバーがダウンしてしまいました。すぐに志願者の皆様へはメールにて合格発表サイトのURLをお送りさせていただきましたが、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
 8年前のこと、本校初めての、第1期生の第1回入試においても同じことがありました。その時は本校のホームページ上で合格発表をしたのですが、やはりアクセスが集中して、ホームページ自体が壊れてしまうという事態になりました。第1期生たちの、新設の開智未来への思いが強かったからでしょう。深夜午前2時まで当時の加藤教頭と西木広報部長で対応したことも今では懐かしい思い出です。その後、現在のように合格発表サイトを通して無事に発表をしてきたのですが、今年度は、受験生が増加し、その熱い思いが臨界面を超えてしまったのかもしれません。新たな改善をしていきますのでよろしくお願いいたします。
 今、午前中の「探究2入試」が終了しました。多くの受験生たちは「ありがとうございました」と私に声をかけてくれます。素敵な子どもたちです。
 午後は「未来A入試」です。受験生の皆さん、頑張ってくださいね。
 強風の中、あらたな「未来」の足音が聞こえてくるようです。春が待ち遠しいです。

頑張れ、中学受験生!

 大変遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。
 最近、常套のフレーズになってしまいましたが、「久しぶりのメッセージで申し訳ありません」。文章を書いて公表するという緊張感に耐えられないほどの「身心度」になってしまったのでしょうか。深く反省する次第です。
 さて、今日から中学入試が始まりました。今日は、午前中に「探究1」入試、午後は「第1回入試」です。
 今朝は、氷点下の中、開智未来で受験生を迎えました。
 「おはようございます」。息を白くして挨拶をしてくれます。「頑張ってね」「ありがとうござます」。礼儀ただしい、そして、素直な受験生たちです。きっと第9期生もいい開智未来生になる。嬉しくなりました。
 あれから8年。
 中学第1期生たちは4日後、成人式を迎えます。開智未来の初めての入試のことを思い出しました。その後、こうやって毎年、挨拶を交わして受験して、開智未来生たちは未来に入学してきました。
 ここに未来がある。私の物語が始まる。
 やはり感無量です。
 未来の開智未来生の皆さん。これから続く、受験の日々を頑張ってくださいね。そして、ぐんぐん成長していってくださいね。
 もうすぐ午後の試験が始まります。受験生の皆さん、頑張ってください。応援しています。

久しぶりのメッセージです

 本当に久しぶりのメッセージです。
 ホームページが更新されて、メッセージを送信できるように調整するのに時間がかかたことも一因ですが、加えて、私が楽を覚えてしまったことも原因だと反省しています。
 何を書こうか。どんなことを書いたらこのメッセージを読んだ人のためになるだろうか。
 文章を書くことも大変ですが、それ以上に、何を書いたらよいかを考えることの方が難しい作業です。書くためには本を読んだりして勉強しなければなりませんし、成長しなければなりません。そういう意味で、このメッセージを書くことは日々の生き方が問われるので、楽をしたいと思ってしまったのでしょう。
 開智未来の開校前、つまり、8年前からこのメッセージを書き始めて、執筆が私の生活の一部となっているので、やはり、これを書かないと、大切なことをせずに1日過ぎてしまったという気持ちになってしまいます。
 生徒たちに負けないように勉強して、そして、少しでも成長して、メッセージを書き続けたいと思います。
 さて、今日は冬期講習の最終日。明日から本格的な冬休みに入ります。そして、新年を迎えることになります。これからもよろしくお願いします。

学びの道

 ご無沙汰しています。久しぶりのメッセージとなりました。
 さて、昨日に引き続き、今日も大学勤務です。
 自宅から大学まで2時間強かかります。往きは加須駅まで妻に車で送ってもらうのですが、帰りは徒歩となります。はじめの頃はこの長い通勤時間が「つらいな」と思っていましたが、連日の通勤も心地よくなってきました。
 やはり考え方一つですね。
 まず、大学と柏駅間の約30分の徒歩ですが、先日のメッセージにも書きましたが、「哲学の道」(The Road for Philosophy:略してRFP)と名付けました。もちろん、ウォーキングのエクササイズでもあり、姿勢をただして歩きます。背負ったDバックは重りとなります。併せて、歩いたり自転車に乗ったりしている人々の観察もします。今日はウォークマンで英語の音源を聴いてリスニングの勉強をしました。歩くリズムと身体活動が思考を深めてくれます。
 春日部と柏間は必ず座れるので、私にとって動く書斎になっています。Dバックを机がわりにして、資料を読んだりノートを書いたりして45分間を過ごします。往きは柏駅が終点なので乗り越す心配はないのでかなり集中できます。しかも、雑踏の中は集中できるものです。スタバで勉強がはかどるのと同じです。さらに、ほどよい振動も思考力を高めるようです。
 加須-春日部間は座れません。そこでつり革につかまりながら、足腰のトレーニングをしながら、「想起法」を実行しています。ポイントはテーマを設定することです。今日は「失敗が成功のもとになるのはなぜか」について、頭の中で英語で説明しました。英語のリスニング勉強をするときもあります。
 そこで電車の中を「移動学習空間」(Moving and Learning Space:略してMLS)と名付けることにしました。
 帰りの加須駅から自宅までは、約20分間、田園風景の中を歩きます。川沿いを歩いたり、木々の中を歩いたりしながら、五感を研ぎ澄ませて、自然を楽しみます。「観察の小径」(Observating Path:略してOP)と名付けました。
 さて、大学の会議が終わったので、これから自宅へ戻り、用務があるので開智未来へ行きます。今日は「職場のハシゴ」です。RFP→MLS→OPのプロセスを満喫したいと思います。ちなみに、自宅から開智未来までは車です。車内では、12月13日の身体表現発表会に向けて、音楽に合わせてダンスの練習をしながら運転する予定です。「Dancing Drive」。DDです!

人が見える

 今日は大学です。やはり、開智未来とは別世界ですね。
 不思議です。私はどこにいても私なのに、開智未来にいる私と大学にいる私が自分自身違う人間であるように感じてしまいます。
 柏駅から大学まで、25分の徒歩での移動中、通りの人々や住宅を見つめながら、いろいろなことを考えています。歩くのは大変ですが、けっこうお気に入りの時間です。
 この家ではどんな人が住んでいるのだろう。
 どんな団らんがあるのだろう。
 この花を植えたのは誰だろう。
 こんな「開智未来の教育」の詩(アフォリズム)を考えました。
〈見る①〉(「五感」シリーズ)
 そこにいない人を意識して見る。
 刈り取り後の、蘖(ひこばえ)の田んぼを見ながら、春に田植えをしていた人を見出す。
 雨戸の閉まった2階の部屋を見上げながら、育った子供たちの姿を見出す。
 そこにいたであろう人の姿を私たちはありありと想像することができる。
 この世界は人に満ち溢れている。
 それほど、人間は人間が好きということだ。
 
 さて、明日は中学部の合唱祭です。私は南浦和の日能研で親サプリをしてから向かいますので、会場には1時20分頃到着します。ぎりぎり間に合うでしょうか。
 一生懸命練習している姿がありありと浮かんできます。
 それほど、開智未来生が好きだということなのでしょう。

試み

 先日、一昨年出版した『学びのサプリ』の第2弾として『学びのサプリ(詩集編)』の企画を思いついた。論理的な説明では間延びする。科学的に追究するにはもっと学問を深めなければならない。理論化は別の機会とするとして、論理になる前の直感を「詩」として表したら、よりサプリの思想が広がり、また、深まると考えたからである。しかも、情感に届けることができる。
 そこで、開智未来のキーワードを詩にする作業を開始した。一種のアフォリズムである。
 この作業がなかなかおもしろい。『学びのサプリ』は筆が進まなかったが、今回はふと気がつくと、サプリの詩を考えている自分がいる。
〈未来スマイル〉
 きっと、生理学的に、心理学的に、そして、哲学的に説明できるのだろうけど、笑うと幸せな気分になる。
 唯一、意識的に笑うことのできる動物である人間は、カブトムシや水仙の花やイヌやネコよりも、幸せな生き物であるにちがいない。
  スマイルを掲げた学校。
 未来へのスマイル。
〈うなずき〉
 意識してうなずくと幸せを感じることができる。
 無意識にうなずく人はすでに幸せである。
 だが、幸せである人は特段に幸せを感じることはない。
 しかし、幸せを感じる人より、間違いなく幸せである。
 「であること」と「感じること」。
〈嗅ぐ〉(「五感」シリーズ)
 朝食の香りを楽しんでいるかな。
 早春の沈丁花、初夏のクチナシ、初秋の木犀はさらなり、
 春は桜、夏は夕立、秋は栗、冬は雪。季節を嗅ぎ取る臭覚を持とう。
 そうすれば、人格の臭いを嗅ぎ分ける人になれるよ。

いい所

 ただ今、16時43分にカナダFWの2Hの生徒たちが羽田空港に到着したとの電話が校長先生から入りました。これで初めてのアメリカとカナダの同時進行FWが無事終了しました。
 開智未来は夕暮れ。職員室では、先生方が安堵の表情で、仕事をしています。
 やっぱり、ここはいい所です。

わが子の重み

 2Sの生徒たちがワシントンFWから無事成田空港に到着したとの連絡が入りました。カナダFWの2Hの生徒たちももうすぐ到着するでしょう。加藤校長、藤井教頭、そして引率の先生方、お疲れさまでした。
 1週間ずっと開智未来で勤務して、久しぶりに担いだ肩の荷が、今、下りようとしています。やはり、開智未来中学・高等学校はずっしりと重いですね。あたかも、昔背負ったわが子の重みを懐かしむような気持ちです。
 この間、十分に時間があるので、哲学の授業や東大ゼミ・先端コース以外に、高校3年生の面接指導をしました。どの生徒も真剣で、そして、純粋で、成長していました。これもまた楽しいひとときでした。
 さて、明日から、開智未来と大学で交互に勤務する日々に戻ります。しばらくは背中が寂しいかもしれませんね。
 気が付けば11月。私にとって大きな変化のあった平成30年も残すところ2か月となりました。一日一日を大切にしていきたいですね。

山河あり

 久しぶりのメッセージです。すみません。
 加藤校長と藤井教頭が、共に海外FWを引率しているため、この間管理職が不在にならないようにと、大学で勤務せずに開智未来に先週の木曜日から毎日来ています。昨年までは当たり前のことでしたが、懐かしい気分になっています。昨日は、宇都宮線が人身事故で不通になり、慌ただしくその対応をしました。
 校長の頃は、週休日であっても登校時間の交通状況が気になりました。また、台風が来るとその対応へ向けて準備を始めました。今日でちょうど1週間、そんな気分になっています。明日の夕方、アメリカから、そして、カナダから生徒たちが帰国します。あと1日半。高校2年生たちは現地での最後の夜を過ごしているはずです。
 今朝は冷え込んだので、開智未来から360度、山々のパノラマが見えました。富士山はすでに上部が雪に覆われ、北東の筑波山、西北の男体山、西へ目を転ずると、遠くに信州の山々、さらに秩父の山々や浅間山、そうして、南には富士山が見えます。
 「何もないところですが、360度の山々とゆたかな田園があります」
 そんなうたい文句で開校初年度に集まってきた中学入学生はすでに大学2年生に、高校入学生は社会人1年生になっています。
 「夢叶って山河あり」(「夢破れて山河あり」のパロディです)。
 第9期生の生徒募集も大詰めの季節となりました。360度の山々とゆたかな田園を目指して、開智未来に向かっている凛々しい表情が浮かんできます。
 やっぱり開智未来はいいですね。
  再び、高校2年生の皆さんへ。大きく成長して、元気に、開智未来に帰ってきてくださいね。

先生方の未来

 今日から高校2年生たちは海外フィールドワークです。
 ワシントンFWは午後2時に成田駅集合、カナダFWは午後3時30分に羽田空港に集合とのこと。開智未来生の皆さん、パスポートだけは忘れないでくださいね。天気も快晴。快適なフライトを祈っています。
 さて、校長先生と教頭先生が引率していますので、この間、顧問の私が管理職の一人として学校の留守番をしなければなりません。大学の学長にお願いして、11月1日(木)の夕方に校長先生と教頭先生が帰国するまでは、毎日開智未来に出勤することにしました。
 今年になって、月曜日が開智未来、火曜日が週休日、水曜日が大学、木曜日が開智未来、金曜日が大学、土曜日が開智未来、と交互出勤の腰の据わらない生活をしていたので、新鮮な気持ちです。しかも、大学へはDパック、開智未来には鞄で出勤し、毎回荷物を入れ替えていたので、シンプルな生活になりそうです。
 今朝は、始業前に中学3年生の「先端コース」講座を行って、職員朝会を行いました。これから四谷大塚柏校で学校説明があるので、出張になります。3月までの生活に戻ったようで懐かしいです。
 校長時代は肩に力が入っていましたが、本日、朝会でこの間のことについて話をした時に、先生方のまなざしの真剣さと温かさを感じ、いい先生方だなとつくづく思いました。
 先生方はこの開智未来での仕事を楽しんでいるだろうか。自分を生かしているだろうか。それぞれの思いがあると思います。それぞれの人生があります。それがいとおしく感じられるようになりました。
 開校したときに、開智未来の「未来」について、それは生徒たちの未来、保護者の皆さんの未来、教育の未来、日本の未来、そして、先生方の未来と言ったことを思い出します。もちろん、私の未来でもあります。
 それから8年が過ぎようとしています。今はあの時の未来です。私は、この先生方に、もちろん一部ではありますが、どのような未来を差し上げることができたのだろう。ふと、そんなことを考えてしまいました。
 では、これから柏市に行ってきます。柏市にある開智国際大学には今日から11月1日まで出勤しないことになったのに、初日から柏市に行くことになりました。妙な気分です。
 それから、高校2年生の皆さん。勇気をもって意欲的に、充実したFWを送ってきてくださいね。

いい気持ち

 昨日、週休日に大学へ出勤したので、今日は振り替えで自室にこもって『月刊高校教育』の原稿を書いている。
 明後日の昼が最大限度の締め切り。まだ一行も書けていない。そろそろ書き出さなければ間に合わなくなるので、やっとワープロに向かったが書き始められない……。そんな最中にこのメッセージを書いている。
 親サプリで「グズはいけない」と言いながら、筋金入りのグズである。
 「差し迫って崖っぷちに追いつめられれば、神が降りてきて、必ず原稿が書ける」
 そう言い続けて10年が経つ。
 さすがに、これまでなら一行ぐらいは書き始めていた。今回はその一行も出てこない。
 昨日のメッセージに書いたように、「やっぱり焼きが回ったか。」
 今回の原稿のテーマは「反応」である。もちろん、「6つの授業姿勢」の「反応」のことである。言いたいことは、反応という日常語を、教員の側からも生徒の側からも深めて「教育用語」へと高めた、と言うことである。少々、自画自賛であろうか。
 400字詰め原稿用紙11枚。エッセイ風に仕上げることを旨としているので、読売新聞のコラム「編集手帳」よろしく、話を左右へと動かして、まとめてみたい。もちろん、私の力量を超えている。
 先日、編集長と電話で話をした。
 「今、教育現場に元気がないと思うんです。ですから、読者が元気の出るような、頑張っていこうよと声を掛けるような原稿にしたいですね」
 「いいですね。お願いします」
 後悔している。その言葉が足かせになっている。
 われながら、さっさと取りかかればいいのに。でも、日本中にいる読者を元気づけたい。その志を察して、神はきっと降りて来てくれるだろう。
 このメッセージを読んだ開智未来生たちは、顧問の私のグズさに嘲笑するに違いない。私以下だね、と。
  弱みを見せられるのも顧問の特権である、と開き直ってみる。
 やっぱり焼きが回ったか。
 でも、それも結構いい気持ちである。
〈追伸〉
 明日から、高校2年生たちは海外フィールドワークです。中学入学生はアメリカへ、高校入学生はカナダです。準備は出来ましたか。英語が心配な人もいるでしょう。12時間という長いフライトを不安がっている人もいるでしょう。勇気をもって思い切り海外に飛び込んできてくださいね。

ロースト

 昨日のメッセージに表れているように、最近妙にやさしくなってきたように思える。
 今朝、柏駅から開智国際大学へ向かって歩いていると、小雨の中、スーツ姿の母親が幼児を自転車の前に乗せて、駅に向かう坂を上っている。きっと保育園に寄ってから会社へ出勤するのだろう。3歳くらいの男児が私の方をちらっと見た。かわいい盛りだ。共稼ぎだろう。これから大変な時期が続くだろう。男児はどんな人生を歩むのだろうか。
 ある会社の門近くで、初老の女性がカッパを着て草取りを始めようとしている。かなりの歳に見えるが収入が必要なのだろう。人間は生きるために働かなければならない。私はその年齢まで働けるだろうか。
 大学の近くにある家は、2階の雨戸がいつも閉まっている。老夫婦が住んでいるが、現在、2階を使っていないに違いない。昔はこの2階に子ども部屋があって、子どもたちは巣立っていったのだろう。手入れされた庭木に雨露が結んでいる。
  その度に、なぜか胸がつまる。彼らはどんな思いで生きてきたのだろうか。
 焼きが回ったのだろうか。焼きが回ってもほどよいローストなら香りのあるコーヒーになる。オーバーローストでは苦くて閉口だ。
 大学へ行く時は、加須駅まで妻に車で送ってもらっている。今朝も家に戻っていく妻の車を見送っていると妻の運転する姿が見える。彼女はどんな思いで生きてきたのだろうか。
 やっぱり焼きが回ったか。

遅ればせながら

 2学期に入ってから月曜日が休日のことが多く、1か月半ぶりの月曜日の「哲学」(中学1年、中学2年、高校1年)の授業でした。
 それぞれの発達段階に応じて、中学1年「哲学」では「学び合い」を、中学2年「哲学」では「中学2年という時期」を、高校1年「哲学」では「考えるということ」をテーマにして授業をしました。その時々の自分を思い出しながら、タイムマシーンで旅しているような1日でした。
 久しぶりに会ったからでしょうか、真剣に授業を受けている各学年の生徒たちを見ながら、どの生徒もかけがえのない自分の一生を、文字とおり一生懸命生きているのだな、と痛切に感じました。当たり前のことなのですが、一人一人がいとおしいですね。
 生徒たちをいとおしく思う。
 これまでになかった感覚です。
 これまでは、生徒たちを伸ばそう、育てようと思っていました。もちろん、その思いもあるのですが、それ以前に存在自体を大切に感じるのです。
 当たり前のことかもしれません。
 やっと当たり前のことを感じられるように成長したのでしょう。遅ればせながら成長中。生徒といっしょです。

幸せになる方法

 今日は高校募集の体験入学です。80組近い方が参加してくれました。
 私は中学生ミニサプリと親サプリをともに15分間行いました。顧問というやや自由な立場から、中学生たちやその保護者の方たちのことだけを考えて、時には、言いづらいことも遠慮せず正直に話しています。とても楽しいです。
 サプリを聞いている人も私が楽しんで話していることが分かるのでしょう。いい表情で聞いてくれます。
 「点数を上げようと勉強してはいけません。頭をよくすることです。もちろん、頭が良くなれば点数も上がります」
 中学生ミニサプリは、こんな調子で始まりました。
 「頭の悪い人は無表情な顔をして授業を受けます。賢い顔をして、積極的にうなずきながら話を聞きましょう。それから18ページを開けなさいと言われたらすぐに18ページを開けましょう。頭の悪い人はグズグズして反応しません。指先も器用に動くようにしましょう」
 勝手なことを言っていますね。
 親サプリでは、こんなことを話しました。
 「保護者の方にお願いがあります。お子様の前で人の悪口を言わないようにしてください。その毒がお子様を蝕んで、人の悪口を言う人間になってしまいます。人の悪口を言う人間に育ってほしいですか。それに、親から人の悪口を聞き続けた生徒は、何事も人のせいにする人間になってしまいます。自分が勉強しないのに学校が悪いとか、先生の教え方が悪いとか言うようになります」
 うなずいて聞いてくださる中学生たちや保護者の方を見ながら、ありがたくて、嬉しい気持ちに浸っています。
 さて、これから個別相談で学習アドバイスをしたいと思っています。
 人のために生きる。
 これは年配者が幸せになる方法ではないでしょうか。

秋晴れ

 今日の午前中は、中学1・2年生のペア駅伝と中学入試の「探究型入試説明会」が同時併行で行われます。加藤校長と藤井教頭がペア駅伝に関わり、顧問の私が説明会に関わることになりました。
 このペア駅伝は開校年度より行われているもので、今年で8回目になります。共に走る相手の息づかいを感じて他者を理解すること、そして、力を合わせることで一人以上の力を発揮することを学ぶ教育活動です。今年は応援できないのが寂しいですが、きっと頑張ってくれるものと思います。来校の保護者の皆さん、私に代わって応援をよろしくお願いします。
 探究型説明会は、今の中学3年生の入試の際、未来型入試として始まったものです。昨年から、社会探究と科学探究に分けて「探究型入試」と変更し、1回だった入試を2回に増やしました。学びの基礎となる読解力と計算力をそれぞれ「読解基礎問題」と「計算基礎問題」で評価し、さらに、思考・表現力を「探究問題」で問います。大学入試が2020年度から大きく変わりますが、その入試改革と軌を一にする入試です。
 私はこの探究型入試に期待をかけています。この入試で開智未来に入学した生徒は、開智未来の教育でさらに成長し、単に大学入試だけでなく、大学入学後、さらには大学卒業後に社会で活躍して人々に貢献し、身心ともに成長して幸せに生きていけると考えています。
 今日はこれからどのような学びをしていったらよいか、保護者に対してもどのようにお子様を育てていったらよいかについて、説明できたらと思っています。
 最近、自分の年齢について言及することが増えていますが、60年も生きていると何が大切か、何をどの時期に行うべきか、自分をどのように成長させたらよいか、そんなことが多少なりとも見えてきます。そうやってものごとが見渡せるようになって、「探究型入試」の意義を再認識しています。
 秋晴れの中、校庭では中学1・2年生たちが躍動しています。アカデメイアではこれから開智未来で躍動するに違いない小学6年生たちがその準備を始めます。
 清々しい天気が彼らを応援しているようです。
〈追伸〉
 おかげさまで、左膝の痛みも和らいできました。

悲しい自問自答

 昨日は午後3時までお休みをいただき、孫娘の保育園の祖父母遠足に参加してきました。
 これは5歳と6歳のクラスの行事で、子どもたちと一緒に保育園から近くのコスモス畑と公園に歩いて行って、昼食をとって帰ってくるという日程です。妻が仕事で参加できないので、私が行くことになりました。
 8時50分に集合し、歌の披露を受けた後、懐かしいお遊戯を一緒にして、9時半頃に出発。目的地までは手をつないで行進し、2時頃に園に帰ってきました。「身心開放」で恥ずかしさや照れを克服すると、多くの園児と「稚心」そのものになって楽しむことができました。まるで「良寛さん」のようですね。これを世間では「好々爺」と呼ぶのでしょうか。
 若い保母さんからは、「すずらんちゃんのおじいちゃん」と呼ばれて、どんな顔をしたらよいのか困ってしまいました。ちなみに、ウォーキングということなので、私はバリバリのスポーツウェアで、トレイルラン用のリュックを背負い、ランニングシューズのいでたちでした。何しろ、スーパーエイジングですから。
 園児たち同士の会話を聞くのも、楽しいことでした。言い合いになることもありますが、どちらにも言い分があって、子どもなりにいろいろと考えていることがわかります。また、言葉もかなり発達しています。
 生徒たちと比べても、私たち大人と比べてもそれほどの差はないのでは、と思ってしまいます。逆に言えば、その後あまり成長させていない、とも言えます。
 教育というものは、未開発な領域かもしれませね。
 ところで、一夜明けて、1週間前のプレ合格祈願走で痛めた左膝が、再びかなり痛くなっています。
 年齢に抗うべきか、年相応になるべきか、悲しい自問自答をしています。

哲学する庭師?

 昨日は週休日で、先週に引き続き家の植木の刈り込みをしました。
 今回は西側にある、2本の金木犀の木です。20数年前、50センチにも満たない苗木を、何かの景品のようなものとして貰って植えたものです。西側なので目につくことが少なく、無精にも一切手をつけなかったため野放図に育ち、2階の窓に達するほどに巨木化していました。
 枝を間引きしないと木の枝は内部に密集するものですね。枝分かれした枝を選んではノコギリで切り落とし、その上で小枝を植木ばさみで剪定することにしました。
 切りながら、精神や脳の中も、不要な枝を切って風通しをよくしなければいけない。
 不思議なもので、密集した太い枝にノコギリを無心に引いていると、勝手に思考が湧いてきます。これは草取りの時にも起こることです。
 妻と一緒に格闘すること6時間。2本で軽トラック4杯分の枝葉が出ました。
 身体労働というものはなぜかくも気持ちがいいのでしょうか。
 作業の結果が目に見えるから?
 それだけではないように思います。
 今朝、開智国際大学へ向かう車中で、『頭がよくなる思想入門』(新野哲也著、新潮選書)を読み直しました。この本は保護者会報「ビリーブ」で推薦した本ですが、私はこの本を何度も読み返しています。私の座右の書の一つです。ちなみに、すでに絶版となっており、残念です。
 こんな文章が眼に飛び込んできました。
 「理屈の世界に迷い込むと、考えなくてもわかることがわからなくなってくる」
 「直感は現実や身体感覚に根ざしている。一方、意識や言葉は、現実を離れて浮遊する」
 「現実だけに目を向けていると、役に立たない空想がいつのまにか消え去り、目の前にクリアな現実が広がってくる」
 庭仕事や畑仕事と哲学は相性がいいようですね。
 特に庭仕事にはまりそうです。

肩の荷を下ろして

 今日は開智未来での勤務です。早朝のアカデメイアで生徒たちと一緒に勉強しました。今日から中間考査ですが、アカデメイアはいつもと変わらぬ空気です。これが開智未来の素晴らしいところですね。
 顧問となって肩書きという肩の荷を下ろして、ありのままの自分を、子どもの頃を思い出しながら、見つめてみると(自分を見つめるほど余裕があるということですね)、自分というものが、つくづく、「臆病で、不器用で、融通が利かなくて、自分本意で、グズグズしていて、組織が苦手で、人見知り」だと思います。これでよく生きてきたものです。ただ、「飽きずに頑張り続けることができて、身の程知らず」なのでここまでやって来ることができたのかも知れません。
 「嫌われるほどではないが人に好かれる人間でもなく、わずかばかりの愛嬌が救いの人間」と、肩書きがなくなったからこそ、正体が丸見えになって、自分を正しく認識できるようになったのでしょう。
 自分よりダメじゃないか、と思う生徒もいるでしょう。安心してください。それでも人間はしっかりと生きていけるものなのですよ。
 それでも、自己を卑下することもなく、自分を嫌いにならない。だから自分というものは面白いと思えるのは、齢を重ねたからでしょう。
 肯定でも否定でもない自己受容。劣等感も優越感も超えた平常感。それでも成長し続けたいという体内エネルギー。
 AIの発展、資本主義の行き詰まり、ネット社会の進展等、社会の急激な大変化が予想される中、自己受容・平常感・体内エネルギーが重要なポイントとなるに違いありません。
 ちょっと話が大きくなりすぎですね。
 これからの教育はどうあるべきか。人間をどのように育てたらよいか。
 考える時間がたくさんあるのが嬉しいです。

懲りない人間

 今日はどうにか歩行できるようになり、開智未来で元気に勤務しています。
 1時間目は中学3年「哲学」です。ねらいは、言葉と思考。61歳の私が考え尽くしたことを、丁寧に伝えることを意識して授業を行いました。
 「哲学をお子様ランチにしたくはありません」
 こんなことを生徒たちに言いました。
 中学3年という発達段階は考慮しますが、相手は中学生だからと話のレベルや内容を落とすつもりはありません。大人にも通用する、小ぶりですが質も味も良いハンバーグやナポリタン、フライドポテトを提供したいと思っています。
 「人間は一つの美徳があれば、その美徳で立派に生きていけるものです。あなたにはどんな美徳がありますか」と生徒に投げかけたあと、「長所と美徳の違いを説明しなさい」という課題を出しました。
 大人でも難しい問いです。私も考え続けています。
 「自分で使う言葉は自分で説明(定義)できなければなりません。自分で説明できないような言葉を話しているから考えが深まらないのです」
 生徒相手でも真剣勝負できる、現役の人間であり続けたいものです。
 ちなみに、私は「現役の人間とは、全力で走り、全力で生き、成長し続けようとする者である」と定義しています。
 早く足を治して、全力で走りたいです。本当に懲りない人間です。

身の程(つづき)

 昨晩から腰から両足にかけての筋肉痛、さらに、悪化した左膝痛で苦しんでいます。今朝はまともに歩行できない状態で、内臓も少々ダメージを受けているようです。
 これが、今の私の「身の程」なのですね。
 それでも、昨日の「強烈走」をすでに懐かしんでいて、正しくトレーニングして体調を万全にして臨めば、もっと楽しく走れるだろうと考えています。我ながら全く懲りていません。
 今現在かなりの痛みを感じているのに、歩行困難なので大学に出勤できないと欠席連絡をしているのに、さすがに医者に行こうと思っているのに、身の程を忘れてしまっている。
 この自己意識こそ、人間の不思議で面白いところなのかもしれません。
 もちろん、いつかは身の程を受け入れなければならない時が来るでしょう。しかし、それまでは強烈に身の程を忘れて生きていきたいですね。
 自転車で日本中を走り回りたい。野山を歩き回りたい、できれば走り回りたい。開智学園の仕事では若手教員を育てる取組をしたい。日本に開智教育研究所の成果を広めたい(まだ成果すら出してはいませんが)。英語を使えるようにして、勇気をもって海外へ出向きたい。まずは、12月のこいのぼりマラソンで10キロメートルを生徒たちと一緒に激走したい。身体表現発表会で創作ダンスを踊りたい。そして、1月19日(土)の合格祈願走では湯島から再度走りたい。
 人はときどき身の程を言い訳の材料にする。
 身の丈に合わすのではなく、身の丈を伸ばす。
 今日は自宅で静養することにしました。左足がしきりに疼いているのですが、身の程知らずの夢に向かって、一日を過ごそうと思っています。

身の程知らず

 プレ合格祈願走をどうにか走ってきました。
 計画では春日部駅まで35キロメートルを走るつもりでしたが、今の私にはその力がなく、北越谷駅までの25キロメートルまでとなりました。
 走りながら、つくづく「身の程知らず」だと思いました。普通なら身の程の範囲で、せいぜい10キロメートル当たりが順当でしょう。実際、10キロを過ぎてからは足が痛くて、一時期走れませんでした。しかし、不思議ですね。身の程を知らんふりしていると、だんだんと、ゆっくりですが走れるようになってきて、しかも、辛いのですが楽しくなってきて、時々幸せな気持ちにもなってきました。
 身の程知らずだからこそ味わえる幸せ。
 そんなことを感じていました。
 考えてみれば、開智未来を創ったのも身の程知らずだったからでしょう。身の程知らずに、各地でサプリを行って、開智未来生たちが集まってくれました。私が身の程を知っていたら、きっと開智未来はこの世に出現しなかったに違いありません。
 身の程知らずは、けっして自信家ではありません。ただ自分の出来る範囲に対して無知なだけです。
 小賢しく自分を知るよりも自分を知らぬ方がいい。
 これからアスリート、アーティスト、そして、フィロソファーになりたいと身の程知らずに考えています。

強烈

 今日は大学勤務の日。柏駅までの電車の中で『自分の始末』(曾野綾子著、扶桑社新書)を読み返しいると、「いい生涯というものは、例外なく強烈だ」という、鮮烈な言葉に出会いました。
 「強烈な人生」
 私が追い求めている人生のあり方を、見事に表現した言葉を発見して小躍りしてしまいしまた。。
 これまでうまい表現が見つからずに、自分がどのような生き方をしたいのかがはっきりとわかりませんでした。言葉を獲得しないと私たちは自分の知りたいことを理解できないものです。
 よい悪いではない、成功した成功しないではない、人から評価されるされないではない、自分として納得する生き方。
 「強烈な」とは利害でも理屈でも捉えることのできないもので、「鮮やかさ」や「まぶしさ」を伴った形容動詞です。わずかながら美意識も含まれ、かといって審美的ではない。
 県立高校を辞して開智未来を開設した9年間は、私にとって強烈な人生でした。妻子を実家に戻して上越教育大学大学院で学んだ2年間も強烈な時代でした。
 これからは「強烈」を呪文にして毎日を過ごしてみようと思います。
 明日は、プレ合格祈願走を強烈に走り・歩きたいと思います。湯島天神から春日部駅までの激走ならぬ「強烈走」です。実際、左膝痛と両足の慢性筋肉痛で辛くなりそうですが、「強烈走」と考えれば、元気に楽しく・苦しく(楽苦しい:たのくるしい)頑張れそうです。
 まず、これから夕方の会議までの時間を、強烈に草取りをしたいと思います。

「10時間勉強マラソン」実施中

 今日は高校部の「10時間勉強マラソン」です。台風が逸れたので予定どおり8時30分から実施しています。会場はアカデメイア(高校1・2年会場)とリュケイオン(高校3年会場)です。
 アカデメイアでの学習が大好きな私は開校以来、用事がない限りこの勉強マラソンに参加しています。何しろ、10時間アカデメイアで生徒と一緒に勉強できるのですから、こんな幸せなことはありません。残念ながら、本日は午後から家の用事があるので午前のみの参加です。
 この勉強マラソンという教育活動は、私が県立高校の教頭時代に平成18年度に発案しました。その時の勉強マラソンは高校3年生対象で、早朝から夜7時まで、会場となる教室で各自がただ勉強するというものでした。途中、気分転換を兼ねて近くの神社に合格祈願をするというイベントもありました。
 このような50分のユニット学習形式になったのは開智学園に移る1年前、県立高校の校長の時でした。いかに集中して長時間勉強するか。人間の集中力はせいぜい90分が限度と言われています。マラソンでも最初からとばさずペースを守ることが大切。勉強マラソンのやり方も進歩してきました。この県立高校で勉強マラソンを一緒に企画・実施したのが、県立高校を辞めて開智未来に来てくれた工藤先生や寺岬先生で、特に工藤先生は開校以来、この取組の中心となってくださいました。感謝です。
 今日の勉強マラソンでは、2つのねらいを生徒に示しました。一つは「集中力を持続させること」。もう一つは「単位時間学習量を増やすこと」です。単位時間学習量とは1時間当たりに学習できる量のことで、自分の学習量を把握し、その量を増やすよう工夫・努力することが大切です。私もそうなのですが、学習計画を立てるとその計画の半分も達成できません。だから場当たり的な勉強しかできません。この考え方は大人になって仕事でも生かされるはずです。
 参加生徒たちは集中して勉強しています。その中で一緒に勉強できるのですから本当に幸せで、また、予定したこともほぼ100%出来ました。私の単位時間学習量もまだ衰えていないのでは、とさらに幸せな気分になりました。
 多くの先生方が来てくれています。開智未来の先生方は勉強好きです。安心してバトンタッチしてこれから家に帰ります。

向かう力、押す力

 10月11日のプレ合格祈願走へ向けて、昨夕、ジムのルームランナーで5キロメートルほど走ってみました。最近は、自転車やダンスが中心でだったので、久しぶりにジョギングで汗を流しました。
 今朝起きると、筋肉痛に加え、未来祭のダンスで痛めた右膝が悪化していました。今日は歩行も困難です。
 春日部駅までの35キロメートルは、この状態ではちょっと非常識な挑戦かもしれませんね。普通の人ならば絶対にこんな無謀なことはしないでしょう。自分のことながら「変な人間」だと思います。
 「変人であるには力が必要」だと私は考えています。力とはパワーであり、志であり、身体であり、心の力です。
 最近は、ちょっと人と違うことをすると、匿名の無数の、しかも無責任な一般常識によって炎上する時代です。批判が怖くて縮こまっている時代です。
 そんな時代に抗いたいという気持ち、生徒たちへの「愛」(自分で言うのも変ですが、やっぱり開智未来生はかわいいのです)と「感謝」(この学校を選んでくれたことへの感謝です)、そして、頑張っている生徒の姿が、この無謀への原動力となっています。
 当日は、湯島天神に生徒の名前を書いた絵馬を掲げて、全員が大学入試を完走することを祈願し、生徒たちが自分の氏名と意気込みを書いたTシャツを着て走ります。
 絵馬の表面には「全員完走!前へ!! 開智未来中学・高等学校 2018.10.11」と書きました。
 私の無謀が生徒たちの「前に向かう力」を「後ろから押す力」になればと願っています。

恩返し

 今日は大学での会議がなくなったので、急遽開智未来に出勤しました。
 私の出勤日の月曜日、木曜日、土曜日は、始業前にそれぞれ、学びのサプリ講座、東大ゼミ先端コース、そして、東大ゼミがあるので、今年になってから早朝のアカデメイアで生徒たちと一緒に学ぶ機会がありませんでした。今日は久しぶりにアカデメイアで勉強しました。
 やっぱり、アカデメイアは最高ですね。
 開智未来生たちの真剣な気迫というか、清涼で凛々しい空気が私に伝わってきて、身震いするほどの清々しい意欲が湧いてきました。
 彼らから伝わってくるものの、その本体は何なのだろう。
 今日は改めて考えさせられました。
 生命の持っている、成長しようとする力。
 膨大なる未確定な未来。
 代わりに、私が開智未来生に伝えられるものは何だろう。
 老木の厳しさとゆたかさ。
 不滅なる変化への意志。
 どうにか機会をつくって、月に1、2回はアカデメイアで生徒たちと「共振」したいですね。
 さて、別件ですが、10月11日(木)に「プレ合格祈願走」をすることにしました。この日はセンター試験100日前で、高校3年生たちが大学入試で最後まで走り切れるようにと、企画しました。
 開智未来を応援する-これが顧問の私の仕事です。
 もちろん、センター当日の合格祈願走も行いますが、今回は時間をかけてゆっくりと走って、どうにか春日部駅まで約35㎞を目標とし、そこから電車で学校に向かうつもりです。
 老骨にむち打つ姿が、少しでも、生徒たちの困難を乗り切る力になればと願っています。生徒たち、そして、開智未来への、わずかばかりの恩返しです。
 私が開智未来生に伝えられるものは何だろう。
 問い続けていきたいと思います。

ほのかな幸福感

 大学の勤務は時間的に余裕があるので、空き時間に草取りをしています。
 このようなことをしているのは、開智未来の開校時を思い出すからです。もう8年も前になりますが、統廃合された県立高校の跡地に開設したので、校庭は草で覆われていました。開校後も生徒数は少なく、保護者の方の熱心な協力で凌いでいました。朝早く出勤すると、植え込み当たりの草取りをしている保護者の方に何度もお会いしました。
 「うちの子がお世話になっているのでお礼の気持ちです」
 懐かしい思い出です。
 せっかく開智未来に来てくれたのに、その学校が雑草で荒れた学校では申し訳ない。
 学校に到着すると、まずは雑草に目がいき、心が痛んだものでした。
 大学も自然が豊富で、至る所に草が目立ちます。せっかく来てくれた学生に申し訳ないな、と草取りを始めた次第です。
 特に、植え込みに「ヤブガラシ」という、地下茎で繁殖する蔓草が茂っていました。私が住んでいる農村地域では、農家の方が嫌っている植物です。
 草取りの装束に着替えて、各所にある「ヤブガラシ」は完全に取り払いました。
 次は、芝生の中の草です。
 これは途方もない作業になります。カミュの小説『シーシュポスの神話』(新潮文庫)のシーシュポスのように、取っても取っても生えてくる草と格闘しています。
 果たして私が行っていることに意味があるのだろうか。それでもその苦行のような営みに、ほのかな幸福感を感じています。
 カミュはこの小説で「生きることの非条理」を表したと言われていますが、私は途方もない雑草との闘いに、無意味のようでもゆたかな時間を感じています。
 昨日、いつものように草取りをしていると、近所に住む方から「シルバーさん」と声をかけられました。
 「そのような者ですね」と答えながら、楽しい気分になっています。あの時の保護者の方も同じような気持ちだったのかしら。

後半期へ

 台風一過。一昨日は天気は快晴でしたが、台風の置き残した災禍により交通機関が乱れ、午後は放課となりました。準備していた哲学や早朝講座の「学びのサプリ」を実施できなくて、肩すかしの1日でした。
 さて、昨日は週休日で、午前中は自宅の庭や畑の後片づけをしました。ゴーヤ棚は柱が折れ、モロヘイヤや紫蘇はすっかり倒れていました。その他にも、コスモス、皇帝ダリア、バラ、その他の草花も整えました。
 ゴーヤとモロヘイヤは時期が終わったので、これを機に引き抜きました。ゴーヤは120個ほどの実を付け、8月・9月は1週間に5日以上食卓に登場し続けました。ちなみに昨年は200個以上の実をつけました。今年の夏は、猛暑のせいかゴーヤもミニトマトも実のなりが悪く、それに比べモロヘイヤは見事に壮大な林となり、強靱な生命力を発揮しました。
 私の自室から眺められる、庭の中にある小さな畑は、これで、2本のナスの木と満願寺唐辛子1本を残すのみとなりました。目前の葡萄棚も、本日最後の1房を採り、夏の風景はほとんど消えてしまいました。畑の端にある柿の木は、ほのかに実が色づき始めました。
 一年を通して畑を窓から見渡し続けていると、この畑の様相が人生のように見えてきます。
 春から夏にかけての、成長していく野菜の、まばゆい光景。生徒たちを見ているような気分ですね。
 今日は10月3日。大学で勤務です。平成30年度も後半期になりました。

チーム・みらい

 今日は大宮のソニックシティで塾説明会。その後、柏市に移動して開智国際大学の教授会です。
 塾説明会では加藤校長と藤井教頭のあとに「補助的な説明」をしました。リレーの第3走者のような役割で、二人がトップでつないできたバトンを受け取り、最年長者として気持ちよく走らせてもらっているという感じです。
 ちなみに、最終走者は西木広報部長で、私が他チームに抜かれたとしても彼が抜き返してくれる、という設定です。
 昨年までは、自分の力でリードしなければと肩に力が入って、思ったような走りができませんでした。今年は余裕を持って、自分のフォームを意識しながら、時には競技場の風景も楽しみながら走っている感じです。
 今日の塾説明会にきていただいた方には、このリレーチームのバトンパスの見事さを見ていただけたと思います。いかがでしたか。チーム名はもちろん「チーム・みらい」です。
 ところで、昨日の詩の最後の1行ですが、訂正したいと思います。
 「君は「樹」となれり。」を「君は「樹」とならむ。」と変えてください。孫はまだ1歳で、これから「樹」になるのですよね。
 歳を積んで君は樹になるんだよ。きっと立派な樹になるに違いない。
 次の世代に夢を託すのは気持ちいいことです。開智未来の未来も楽しみです。

身の程知らず

 私事ですが、今日は2番目の孫の1歳の誕生日です。
 孫の誕生日に詩をプレゼントしようと思い立ち、6月の孫娘の「涼蘭」の5歳の誕生日に引き続き、二度目の「birthday poem」をつくりました。
 爺バカと言われそうですが、孫を利用して、自分の詩を発表する機会にするという、邪な動機の方が強いようです。
 さて、今回の詩です。
☆  ☆  ☆
「寿樹」
黙していた種子は
双葉となってそっと笑い、
若葉となって風とおしゃべりを始め、
若木となって陽を浴びて天に向かい、遊ぶ。
ときには嵐にあらがい、ときには雪の重みを楽しみ、
十の堅強な枝を持ち、
百尋に葉を茂らせ、
千の実を結んで、壮木となり、
万世のうちの有期に、
寿を積みて
君は「樹」となれり。
☆  ☆  ☆
 下手でも、詩という言葉の形式を、昔の和歌のように、メッセージを伝える手段とする。それが日本の文学の始まりだったのではないでしょうか。
 具体的な誰かに伝えること。その現実性のなかに、人間の感情・感性、そして、言葉が発生するものである。 
 身の程知らずですが、身の程をしらないからこそ楽しめるのだと悟っています。

胡蝶の夢

 一昨日が久喜市の塾での勉強サプリ、昨日が高校の入試講座での「中学生勉強サプリ」と「親サプリ」、そして、今日が中学体験授業での「小学生サプリ」と「親サプリ」と、3日連続で5回のサプリを行いました。
 楽しかったです。最近は保護者の方も私よりだいぶ年下になったので、どのサプリも、聞き手のためになるように、と「やさしい気持ち」になって行っています。そして、楽しんで行えるようになりました。少々熟成してきたのかもしれません。
 サプリは、平成17年に県立高校の教頭時代、高校生対象の「学びのサプリ講座」として始まりました。頭の良くなる方法からスタートしてきましたが、だんだんと生き方の比重が高まり、この頃は、「幸福」というものを意識して行っています。
 いかがでしたでしょうか。
 特に、今年から校長という役割から解放され、より自然体に、サプリの生き方を行えるようになりました。
 私の頭の中でつくったサプリが、私の身体の一部になっている。
 そんな感じです。
 私がサプリなのか、サプリが私なのか。
 これって『荘子』にある「胡蝶の夢」の話のようですね。
 唐突ですみません。以下、インターネットの「コトバンク」の引用で説明します。
 「荘子が夢の中で胡蝶になり、自分が胡蝶か、胡蝶が自分か区別がつかなくなったという『荘子』斉物論の故事に基づく》自分と物との区別のつかない物我一体の境地、または現実と夢とが区別できないことのたとえ」
 胡蝶になって、次の世代に何かを伝えたい。
 「こちょう」と「こもん(顧問)」。ちょっと似ている言葉かな?(いえ、「こ」で始まるしか共通点はないようですね)

苦しみへのチャレンジ

 1週間以上お休みしてすみません。
 『月刊高校教育』の原稿書きがあり、このメッセージの文章を書く余裕がありませんでした。この連載も今年で10年になります。毎月、原稿用紙11枚のマス目を埋めるのに四苦八苦して、毎回、連載を止めようといつも思っているのですが、産みの苦しみを経て書き上げると、また頑張ろうかという気持ちになって、こうして続けています。
 これが男にはわからない母親の気持ちなのでしょうか。
 苦しいことというものは、苦しんでいる時は辛いのですが、それを乗り越えてゴールに達成すると、快感につながるものです。逆に、苦しみのない達成は味気ないものです。
 それでも苦しみから逃れたいと思うのが人情。困ったものです。
 最近、前よりも苦しいことが苦手になってきました。これを老化と呼ぶのでしょうか。困ったものです。
 さて、9月が終わると今年度も後半戦に突入します。
 「苦しみへのチャレンジ」
 これを後半戦のテーマにしようと思います。
 肉体系では、プレ合格祈願走。こいのぼりマラソン参加。ダンス発表会参加。合格祈願走。
 頭脳系では、エンパワープログラム参加。授業サプリ執筆。開智教育研究所の青写真づくり。
 前向きにチャレンジする姿を開智未来生に見せるのが私の仕事だと思っています。

深化・進化

 今日は大学に出勤の日です。柏駅から2キロメートルほど歩くので、Dパックを背負い、最近はハイキング用のシューズて通っています。
 往復で約2時間。電車には待ち合わせ時間も含めて片道1時間20分ほど乗ります。車中を有効に使おうと、座れば読書やメモに専念し、立っているときは考え事をしています。ホームで電車を待っているときはウォークマンで音楽を聴きながら、人知れず踊っています。きっと不気味なオヤジに思われていることでしょう。ちなみに、今日は Ed Shearan の『÷(ディバイド)』で踊っていました。一見ヤバい人です。
 昨日から『唯脳論』(養老孟司著、ちくま学芸文庫、1998年)を読んでいます。養老氏は私の20歳上ですから、彼が今の私の歳に出版した本です。一読スゴい本です。ずっと遙か遠く、彼方の存在です。もともとサプリは養老氏の考えも取り入れているのですが、最近、養老氏の凄さがさらにわかってきました。少しは成長したのでしょうか。
 「あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり、脳の産物に他ならない」
 「現在われわれを捕らえているのは、現実と化した脳である」
 テクノロジーの発達で、私たち人間は、脳の中で想像してきたことを現実にしてきました。空を飛ぶ夢、腕時計で人と話をする夢、時間と空間を超えて誰とでも話ができるという夢。みんな現実になりました。脳で考えたイメージはCGであたかも現実のように画像化されます。ネットという人工的な世界は若い人たちにはすでに現実空間となっています。
 まさに、脳が現実となっているのです。
 しかし、それは本当に現実なのでしょうか。
 氏は「現実とは、われわれを制約するもの」であると述べています。人間は、自分ではどうにもならないこの現実と向き合い、時には抗い、時には屈服されてきました。しかし、脳によって生み出された人工物という現実は、われわれを制約から解き放しました。何でもできるのです。
 人間を制約をしない現実は、本当の現実なのでしょうか。
 私はここで身体に注目します。身体には制約があります。がんばっても50メートルを4秒では走れない。思ったように踊ることはできない。思ったようにギターは弾けない。絵を描くことはできない。そうやって不便な中で現実を取り戻すことが大切なのではないでしょうか。
 そうして、身体を鍛えれば、絵やギターの腕を上げれば、できなかったことができるようになり、私の現実は広がっていきます。脳で空想上の世界を思いのままに広げても、生きた気分にはならないと思うのです。
 現実に制限された人間にこそ、その身体の開発で、一人一人の意味ある世界を持つことができる。
 朝、野田線で考えたことです。
 読んでは考え、読んでは考える。
 サプリをもっと深化・進化させたいと思っています。

英語・世界へ(3)

 2日ぶりに開智未来で勤務しています。やはり、開智未来生と直接関わる仕事は楽しいですね。
 木曜日は始業前に東大ゼミの先端コースの講座があり、14名の中学3年生と一緒に『菊と刀』を英文で読んでいます。この先端コースは昨年度から開講しているもので、英検2級以上を取得している中学3年生に、ちょっと背伸びをして全国レベルの学びを目指したゼミです。
 ちょうど天皇が話題となったところだったので、「日本人にとって「天皇」とは何か?」について考えました。
 「このことを外国の人にどのように伝えますか。日本人ではありませんから、『そーだよね』では通じません。丁寧に説明しても文化の違いから相手はなかなか理解してくれません。理解したとしても納得してはくれないでしょう。その時、どのように論じていきますか?これは単に英語力の問題ではありません」
 世界と関わるということは、もし本気で関わろうとするなら、いいかげんに相づちを打つのではなく、相手の考えを真剣に理解し、自分の考えをねばり強く伝えることが大切です。そんな思いで生徒たちに問いかけました。
 真剣に聴いている生徒たちと接して、自分も背筋を伸ばして生きなくてはという気持ちになります。
  「英語・世界へ」というテーマで3日連続でこのメッセージを書いてきましたが、英語力は後からついてくるもの。やっぱり「飛び込む勇気」ですね。じっくりと考えて覚悟をもって飛び込むのもよし。軽いノリで入り込むのもよし。動き回ったからこそ見えてくる世界、入り込んだからこそ五感で感じる世界が現実世界なのでしょう。
 「エンパワープログラム」の宣伝を連日書きました、このプログラムに多くの生徒が飛び込む、そんなパワーのある学校に開智未来がなることを私は夢見ています。
 もし生徒たちが嫌がらなければ、いい歳でお邪魔かもしれませんが、私も同じ条件の生徒の一人として、萎れかかっている勇気に息を吹き入れて、プログラムに飛び込みたいと思っています。