顧問感覚

コモンセンス

非薄味(薄味に非ず)

 今日は開智未来で、4つの学年の「哲学」の授業を行う日です。1時間目は中学2年、2時間目は中学3年、4時間目は中学1年、5時間目は高校1年です。
 それぞれ、気合いと思いを入れて授業をしました。
 「うざいかもしれないけれど、気持ちを入れて授業を行う年寄りを見るのも大事な経験です」
 自虐的かもしれませんが本音です。
 世の中がスマートになり、テクニカルになり、軽やかになりました。気合いや思いは「昭和」の遺物になりかけています。
 薄味で心地よい、とはほど遠い、胸焼けのするような授業かもしれませんが、子どもたちの心を少しでも揺さぶれればと考えています。
 多くの方に体調を心配されましたが、おかげさまで、元気いっぱいに授業をしています。

小宇宙

 7か月ぶりの疾走の残照(残傷)を身体に感じながら(たかが筋肉痛ということです)、昨日の体育発表祭の翌朝を迎えています。今日も朝から見事な快晴。昨日以上に暑くなりそうですね。
 昨晩から考えているのは、この体育発表祭に、生徒たちも保護者の方、教員たちも卒業生たちも、一人一人がドラマを持っていたということ、です。
 昨日、高校3年の女子生徒たちが、後輩の高校2年女子のマスゲームに拍手を送っていました。9回の体育発表祭で私が初めて聞いた、後輩への「思わずの拍手」です。彼女たちにどのようなドラマがあったか、私は知りません。しかし、何らかのドラマがあり、成長があったに違いありません。
 高校課程に上がる際に、他の学校へ外部進学した中学卒業生たちが遊びにきてくれました。かつての同級生たちの躍動を見て、どのように感じていたのでしょうか。私も頑張るぞと決意したかもしれません。ここにもドラマと成長があったはずです。
 わが子の激走する姿を見て、昔のことを思い出した保護者の方もいたでしょう。先生方も自分のクラスの経営、生徒とのこと。いろいろな思いがあって、この体育発表祭を振り返り、月曜日からのことを考えているにちがいありません。
 きっと数百、いや千以上のドラマがあったにちがいありません。
 人間は物語をつくり、物語に生きる生き物である。
 この世界は一人一人の物語によってなりたつ宇宙であり、開智未来も一つの小宇宙である。
 葡萄棚のある自室から、早朝というのに照りつける朝日に輝く、野菜や植栽を眺めながら、そんなことを考え続けました。
 開智未来に関係する皆さんにとって、今日も物語の一日でありますように。

熱中

 猛暑の五月空の下、最後まで生徒たちのエネルギーが尽きることなく、体育発表祭が終了しました。
 なぜ、子どもたちは夢中になって、文字通りの熱中を走り回るのだろう。
 そんなことを考えながら、生徒たちの姿に感動していました。
 私事ですが、昨年の10月に両膝を痛めて以来、ずっと走ることができませんでした。生徒たちの姿を見て、走れるような予感がして、スーパーエイジング走を走ってみました。320メートルを痛みなく走り切ることができました。
 生徒たちのエネルギーが作用したのでしょうね。
 これが「生」というものの正体を垣間見たような気がしています。

教育の原型

 木曜日は開智未来勤務の日。火曜日に予定されていた体育発表祭の予行が、雨により本日に変更されたため予行に参加することができました。
 元気いっぱい、嬉しそうに動き回っている生徒たちと同じ時間と空間を過ごせるということは、本当に幸せなことですね。
 約3時間半、太陽の光を浴び、新緑の風を浴び、生徒たちのエネルギーを浴びました。まさに、日光浴、森林浴、生徒浴。おかげで気力と体力が蘇ってきました。
 もっと頑張ろう。
 生徒たちが頑張っている姿を見ると、頑張ろうという気持ちになります。
生徒たちも、私たち教員が頑張っている姿を見ると、頑張ろうという気持ちになるのでしょうね。
 これこそが教育の原型であり、理想なのだろうと私は考えています。
 もっともっと頑張ります!

生徒の力

 今日は大学勤務の日なのですが、荒天の中、4時間半の通勤ができるほどの体調ではないため、また、教育研究所の仕事や「哲学」の準備もあるので、一日開智未来で執務をすることにしました。
 というわけで、5日ぶりに開智未来に来てみると、今週末に体育発表祭を控え、生徒たちは体育発表祭モードになっていました。この熱中度は開校以来の伝統ですね。
 放課後、体育館や教室を回ると各クラスとも熱心に、応援合戦や学年種目の練習をしていました。一人一人を見ると、皆いい表情をしています。
 これが学校だ。
 これが生徒だ。
 久しぶりに教員の心が蘇ってきました。
 教員という種族は、子どもたちのこの表情や姿を見るためにこの職を選んだのである(世間の人にはわかってもらえないかもしれませんね)。
 思えば、8年前、開校した頃は授業中や放課後、こうやって学校の中を歩き回ったものです。だんだんと生徒が増え、それに伴い仕事も増えて余裕がなくなり、机の前に座りつづけることが多くなってきました。
 これが教育だ。
 本当に久しぶりに新鮮な気持ちになりました。そして、元気が湧いてきました。体調もよくなりそうな気がしています。生徒の力ですね。
 さて、雨のため本日の午後に予定されていた体育発表祭予行は木曜日の午後に延期になりました。木曜日は開智未来勤務の日なので、私も久しぶりに体操服に着替えて、グラウンドに立っててみたいと思います。やっぱり、体調が戻ってくる兆しを感じます。

咳をして

 「こほこほと咳する 本を読む」
 尾崎放裁の有名な自由律俳句、「咳をしても一人」ほどの孤独感ではありませんが、咳はどうも人の意識を内側に向けるようです。戯れて一句捻(うな)ってみました。
 人間というものが、やっと少しばかり見えてきて、昔の人たちが必死になって、多分、周りの人からは狂っているようにみえるほど、夢中になって考え行動して、そこから沸(わ)き上がった言葉の結晶を、慈(いつく)しむように読めるようになってきました。
 そこでしばし考えました。
 夢中や熱中は人間の生き方としてはとても大切なこと。夢中になって勉強する、仕事に熱中している、等々。
 子どもの頃は、遊びに夢中になっている姿を人はほほえましく見守りますが、ある程度の年齢になると、手放しでよしとしない雰囲気が生じてきます。勉強や仕事であっても、「勉強ばかりして」「仕事ばかりして」とわずかばかりの非難が添加されます。
 なぜなのだろう。
 そんなことをしばし考えました。暇ですね。ちなみに「暇」をギリシア語で「スコレー」と言います。これはスクール(学校)の語源となっています。
 実は夢中や熱中は我を忘れること、つまり、そこに「狂」というものがあるからなのでしょう。それが私の仮説です。
 狂が認められない、さらに許されない時代になりました。酔狂などは死語になりつつあります。たぶん生徒たちには伝わらないでしょう。
 「歌舞伎」という言葉の元となっている「傾奇(かぶき)」は、異風を好み常識を逸脱した行動に走る者のこと。「狂言」にも「狂」という字が含まれています。共に格式ある伝統芸能となっています。絵画というものは画家が夢中に、ときには狂となって描いたものでしょう。しかし、その「狂」の結晶が、美術館に整然と、あたかも理性の代表のように配置され、人々はそれを理知的に観賞しています。美術館の静けさ、厳かさは狂とは対照的なものです。
 1年ほど前のメモートにこんな言葉が記されていました。
 「正常な狂を許さないのは、一般大衆の正常という狂である」
 私は、常に夢中になって生き続けたいと思っています。
 だめ押しのお粗末な句を一句。
 「現世(うつしよ)の 夢中に居りたし 哲学者」

語り継ぐ

 昨日から『代表的日本人』(内村鑑三著・鈴木範久訳、岩波文庫)を読んでいます。
 この本は、『日本及び日本人』の題で1894年に公刊された書物の改訂版で、書名を変えて1908年に英文で出版されたものです。先日、「BOOK・OFF」で108円で購入しました。
 内村鑑三と言えば、日本におけるキリスト教の発展に尽くした人で、日本史の教科書にも載っています。受験知識としては、主著『余は如何にして基督信徒となりし乎』、教育勅語不敬事件、札幌農学校でのクラーク博士からの感化、日露戦争における非戦論、「2つのJ(JesusとJapan)」などを覚えることになります。
 彼の基本思想は、日本及び日本人には世界に誇る偉大な良さがある、その良さはキリスト教の考えと通じる、というものです。その考えが「2つのJ(JesusとJapan)」であり、この『代表的日本人』の底流にあります。
 彼は日本人の良さを世界に発信しようと英文で本を書きました。しかし、日清戦争における日本の世界への拡大が、本来の日本の良さに基づくのではないことを知り、その後日露戦争では非戦論を主張することになります。
 この本に示された代表的日本人は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人です。読んでいると、内村鑑三も含め、かつての日本人の気骨や精神の気高さを感じます。
 「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実の関係と同じとみます」(p.67 )
 私も、その精神の微塵ぐらいは培い、生徒たちに示し、伝えていかなければならない、と反省させられます。
 さて、「BOOK・OFF」で本を購入したときには気付かなかったのですが、最初から最後まで、各所に緑色のマーカーが引いてありました。きっと店員も見過ごしてしまったのでしょう。書き込みはしてなかったものの、これほど各ページにわたって丹念にマーカーが引いてある本を買ったのは初めてです。
 しかし、ある方がこの本を隅から隅まで読んで、何かを学び取ったあとを眺めながら読むと、。読みづらさはありますが、嬉しい気分となり、読む気力を高めてくれます。私の方は、赤の色鉛筆でもぎ取りながら読んでいます。マーカーのないところをもぎ取ったり、マーカーが引いてあってももぎ取らなかったり、ときどき、緑の上に赤が引かれて深みのある色が出現したりしています。
 内村鑑三を通じて、何かが語り継がれているような気分です。
 お前は何を語り継いでいるか。
 内村鑑三の声が聞こえてくるようです。

ボランティア除草

 本日の午前中、保護者会の役員の方が中心となって行う「ミニボランティア除草」があります。5月25日に実施される体育発表祭に向けて、校庭を整備するという趣旨です。8月25日には「ボランティア除草」があり、こちらは全ての保護者の方から参加者を募ります。8月31日に未来祭を控えての除草です。
 本日は午前中が開智未来、午後が大学という日なので、このボランティア除草に参加しようと思っていたのですが、明け方から体調がすぐれず、参加できません。この場をお借りして、お詫びと、直接言いたかったお礼を申し上げたいと思います。申し訳ございません。そして、ありがとうございます。
 「ボランティア除草」と名付けられていますが、この除草はまさにボランティア(自発的)なものとして始まりました。
 今から8年前になりますが、開校年度のことです。まだ中学第1期生と高校第一期生しかいなくて、教員の数も今よりずっと少なくて、また、開智未来の校地が統廃合となった旧県立高校で、たしか2年間ほど手を入れていなかったこともあり、草が各処に目立つ状態でした。
 そんな折り、朝学校に出勤すると、保護者の方が草を取っているという情景を度々目にしました。
 お礼を言うと、「こちらこそうちの子がお世話になっているので」「孫が元気に学校に行っているお礼です」と言われました。
 昔々の小学校で、先生へのお礼ということで、家で採れた野菜をもっていった、という話を聞きましたが、そんな牧歌的な雰囲気でした。
 「開智未来には寺子屋のような香りがする」
 開校当時、塾の先生から言われたことです。
 さて、そんな雰囲気の中で、発足したばかりの保護者会がこの「ボランティア除草」という企画を開始しました。取っても取っても草が取りきれず、校庭の西の隅に、山積みになっていったことを思い出します。
 開智未来は手作りの学校、という想いが皆の中にありました。その伝統が受け継げられて、今日に至ります。
 今日は参加できなくてどうもすみませんでした。体調が直ったら、私も草取りをして開智未来にお礼をしたいと思います。
 本日参加の保護者の皆さん、暑くなってきましたので、熱中症にはお気をつけてくださいね。

『君たちはどう生きるか』その2

 今日は大学勤務、ということで、野田線アカデメイアで『君たちはどう生きるか』を読み続けました。
 主人公のコペル君は旧制中学の2年生で、15歳の男子生徒です。
 次の部分を赤でもぎ取りました。
 「『汝自身を知れ』とか『己を顧みよ』とか、こういう文句には、考えてみると小学校以来、もう何度もお目にかかって来たことか知れません。……コペル君も、とうに知っていました。もし、この文句を記して『右ノ句ノ意味ヲ説明セヨ』なんて問題が試験に出たら、今までだって、立派に満点を取って見せることが出来たでしょう。しかし、言葉だけの意味を知ることと、その言葉によってあらわされている真理をつかむことは、別のことでした」(p.272)
 当たり前のことではありますが、その当たり前のことに、人間というものの深みや面白みを感じてしまいます。
 往きの電車では、私の隣の席で、中学生とおぼしき男子生徒がずっとスマホゲームに興じていました。
 開智未来生には、真理をつかむ人間になってほしいと、いつも、心から願っています。

『君たちはどう生きるか』

 月曜日は、午前中は大学、午後は開智未来の2つの勤務場所の日。通勤時間と移動時間で5時間以上費やすハードな日です。
 昨晩ふと手に取った『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、岩波文庫)に引き込まれて、プラットホームで電車を待つ時間も含めて出勤・移動時間があっという間に過ぎました。しかも、至福の時間となりました。
 昭和10年、日本が戦争への道を突き進んでいた時に、このような作品が書かれたのは奇跡のように思われます。
 「空には月が、相変わらず怒りもせず、笑いもせず、嘆きもせず、静かな顔つきで、屋根を越え、電信柱を越え、欅の枝をくぐりながら、二人といっしょに歩いていました」
 なんと美しい擬人表現なのでしょう。このように詩人の感性を持ちながら、一方で深い思索が随所に光っています。
 「君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおい知って来るだろう」
 陳腐な表現ですが、現代日本の私たちが失った「精神文化」や「倫理観」がこの本の中にあります。
開智未来生に是非とも読んでほしい本です。そして、読んで感銘してほしいと願っています。
 そして、実は、この本は大人にこそ読んでほしいと思います。その理由は読んでいただければお分かりいただけると思います。
 もってまわった言い方ですみません。今の日本社会は、大人こそ反省しなければならないと考えるからです。

蕗(ふき)

 休みの日も仕事の日も5時前に起き、コーヒーを入れ、ヨーグルトとチーズとバナナの朝食を取りながら、今日一日を見通し、自分のやりたいことを深く覗き込み、本を読み始め、ノートにメモを書き記す。
 少なくとも、開智未来を開設してから、この生活を続けています。
 特に、この時期は夜明けが早くなり、自室の窓からは植栽や菜園の新緑が清々しく、風光明媚な名勝や庭園とは異質の美を感じます。柿の木の下の蕗は、昨日の夕方、それを40本ほど鎌で掻き取り、葉を取り、茎の皮を一枚一枚と指で剥きました。キーボードを打つ指にはその渋が残っており、この庭と私との関わりを実感させます。
 咳には少々閉口しているものの、至福のひとときを過ごしています。(ちなみに、今晩、妻の手で調理されたこの蕗を食卓で味わえることが今日の一番の至福の時になりそうです。)
 昨日から『完本 日本語のために』(丸谷才一著、新潮文庫、2011年)をノートを付けながら読んでいます。この本は復刻版とも言うべきもので、ここに載らせられている文章は、昭和40年代から50年代に書かれたものです。私の中学~大学時代の頃です。丸谷氏は当時の日本語の状況について憂えていますが、もし今の日本の状況を見たら、どう思うでしょう。彼はこの文庫を出版した翌年に亡くなっています。
 この本が発行されたのは、東日本大震災の直前の3月1日です。この年に開智未来が開校しました。不思議な縁を感じます。
 「現代日本文明には古典主義が欠如している」「ヨーロッパに追いつこうとして焦燥したこの百年間の日本の市民の、勤勉な実利主義」
 ノートにメモした文です。
 さらに、「今(※昭和50年代)の日本に横行してる」対話の問題として次のようなことを挙げています。懐かしい言葉であり、私たちが反省しなければならないことです。
 「まくしたて、こけおどし、揚げ足取り、言いのがれ、言い抜け、言いがかり、水かけ論、空念仏、生返事、空理空論、すれちがい」
 さて、今日は12時から大宮ソニックシティで「親子でぐーんと学力を伸ばす言葉力講座」を行います。まくしたて、こけおどし、空念仏、空理空論にならないよう、気をつけたいと思います。
 よい一日がスタートしましたか。今日は昨日より気温が下がるそうです。風邪をお引きになりまらせんように。

慈悲の心

 連休直前に始まった咳は相も変わらずで、臥せるほどではありませんが、爽快とは言えない状態です。それでも今週は大学と開智未来とを往還して、久しぶりに精力的に活動しています。やはり、遠距離の移動が、たとえ電車の中で座っていられるとしても、身体にこたえているのかもしれません。いや、そういう身体になってしまっているのかもしれません。
 また、この体調不良の時期は、再び毎日このメッセージを書き始めた時期とも重なります。もしかしたら……、頭を使うと身体が疲れるようになったのでしょうか。
 そんなことで、今日は保護者総会ではありますが、自宅で身体を休ませていただくことにしました。大変申し訳ありません。なお、明日は大宮ソニックシティで「私立中学校フェア埼玉 2019」があり、そこで私が12時から特別講座を行うことになっています。テーマは「読解力・日本語」。「親子でぐーんと学力を伸ばす言葉力講座」という、宣伝用のあざといタイトルにしました。本年度からすすめている開智未来の取組を踏まえた、親子が言葉でつながっていけるような講座にしたいと考えています。そのためも今日は身体を休ませたいと思います(言い訳です)。
 さて、二人の園児が亡くなるという痛ましい交通事故がありました。最近、このような悲しい話に目を向けることが辛くなってきました。すぐに胸がいっぱいになり、涙が出てきます。その話をしようとすると声がつまってしまいます。
 虐待、貧困、認知症、事故、天災。ニュースは悲しいことだらけです。
 私たちが生きているこの世界は、「悲しみの世界」なのだろう。人間はずっとこの悲しみの世界で生きてきたのだろう。その悲しみを受け止め、受け入れ、生を重ねてきたのだろう。そして、その中で、祈りや希望や、宗教や哲学や、思想や文化が育まれたのだろう。家族という生きる形態の奥底にもこの「悲しみ」というものが結晶になって鈍くも光っているのだろう。最近、そう思うようになりました。いいえ、そう思って、悲しい気持ちを和らげています。
 仏教には「慈悲」という言葉があります。この言葉は「一切衆生悉有仏性(一切の衆生はすべて仏性、つまり仏になる種をもっている)」という考え方に基づいた言葉で、仏様や菩薩様が衆生(生きとし生けるもの)をあわれみ、いつくしむ、という意味です。
 悲しいニュースに心を痛めながら、最近、「慈悲」とは「悲を慈しむ」ことではないか、と思うようになりました。かなしいことを慈しむ。つまり、頭をなぜるように大切に扱う、ということです。私たちにできることは、心の中で、その子どもたちの頭を慈しむように撫でてやることくらいです。いいえ、せめて撫でてあげたいと思っています。
 言葉は、やはり、大切なものですね。子どもたちに言葉を育てたいと思います。そして、言葉でそっと頭を撫でてあげられたらと思っています。

人こもごも

 今日は大学勤務の日です。
 柏市までの車中にて、今日はスマホを見ている人が少ないと思っていたら、ほとんどの人が眠っていました。連休明けの金曜日、疲れがたまっているのでしょうね。
 車窓に目を移すと田んぼには水が入り始め、田仕事をしている農家の方の姿が見えました。目前には疲れて寝入りながら勤めへ向かっている人々、背景には朝日に輝く水面と新緑の中で働く人々。世界を一つの絵に移したような光景です。
 当たり前すぎるほど当たり前のことなのですが、この世界にはたくさんの人が生き、生活しているのですね。
 悲喜こもごも。人こもごも。
 こういう「悲喜こもごも」に生きる「人こもごも」である生徒たちを教える、育てる「教育という営み」って何なのだろう。
 考え込んでしまいました(どうも最近はすぐに考え込んでしまうようです)。
 一人一人を大切にすること。
 理論的ではありませんが、まずは直感の答えを、野田線アカデメイアでノートにメモしました。

幸福論

 今日は一日開智未来の日で、朝のアカデメイアに始まり、1時間目は中学2年「哲学」、2時間目は中学3年「哲学」、4時間目は中学1年「哲学」、5時間目は高校1年「哲学」と、開智未来の日常を送っています。
 開校以来、この生活が基本だったので、ほっとするような、自分に戻ったような気分です。
 この日常の中で、生徒たちをどのように育てるかを各学年の先生方と話し合う時間が、私にとって一番幸せな時間です。アカデメイアで真剣に勉強に励む生徒たちと同じ空間に居ることも一番幸せを感じる時間です。
 あれっ?一番幸せな時間が2つ出来てしまいました。
 先ほど「自分に戻ったような」と書きましたが、果たして自分というものは「戻る」ものなのでしょうか。
 「哲学」の授業であれば、「自分は戻るものではない。向かうものである」と生徒たちを鼓舞するでしょう。自分に戻っているようではいけませんね。
 「我に返らんと欲すれども返る我なし」
 昨日に引き続き、「自分論」でした。
 いつまでも挑戦し続け、その姿を生徒たちに見せ続けたいですね。
 これは私の幸福論です。

私は何者?

 今日は午前中は岩槻校で管理職会議。私はその会議の運営と司会を行っています。これは「理事長補佐」の仕事です。
 午後は、開智未来の顧問として、中学1年生の「田植え体験学習」を見学に行きました。明日「哲学」の授業で、田植え体験学習の振り返りを行うので、それには実際に生徒たちの姿を見なければならないからです。
 このように、今年は4つの役割を兼任しているので、その場その場で変身して過ごしています。
 私は一体何なのだろうと、アイデンティティの分裂を感じるときもあるのですが、「私(関根)」であることは変わりません。昨日のメッセージの「自分のいる場所が自分の居場所」と同じですね。
 中学・高校・大学時代にあれほど「私は何者であるか?何者になるのか?」と問い続けたのに、大人になるとその問いを忘れてしまうのは、一つの場所、一つの役割、一つの自分に安住しているからなのでしょう。
 混沌の中にこそ、自分を見出す契機がある。
 今、生徒のような気持ちになっています。
 独り言のようなメッセージですみません。

動物(動くもの)

 連休が終わり、午前中は柏市の開智国際大学にて学内会議に出席し、昼食後移動して3時半には開智未来に到着、木曜日の「哲学」の打ち合わせや準備おまけに、東武野田線が遅延のため春日部駅でしばし佇むというハプニングもありました。日常は慌ただしいですね。
 本年度は居場所を固定しない生活をしています。
 例えば、今日は、朝は自室で約1時間の勉強-加須駅から春日部駅まで車内で立ちながら本を読み-春日部駅のプラットホームで佇みながら読書-春日部駅から野田線アカデメイアで45分間の集中勉強-柏駅から大学まで約30分のウォーキング-大学で学内会議-再び柏駅から大学まで約30分のウォーキング-野田線アカデメイアで45分間の2回目の集中勉強-春日部から加須まで車中で座れて読書-加須駅から自宅まで20分のウォーキング-自家用車で開智未来へ-開智未来で業務。遊牧の民のように自分のいる場所が自分の居場所となり、自分という存在が「場所(トポス)」となっています。
 自分というものが相当に確固としたものでないと、「浮き草」のように漂ってしまう。もしかしたら、ヨーロッパの個人主義とういうものはこのような状況から生まれたのかしら。
 動くからこそ自己が浮かび上がる。
 考えてみれば、人間は「動物(動くもの)」だったのですよね。

日常

 連休最終日ですね。
 異例の10連休(開智未来は9連休)ということで、妙に力んだスタートになりましたが、初日から咳が出始め、今日になっても直らず、伏せるほどではなくこの期間にやるべき家事・掃除や畑仕事や草取りをこなしてきたものの、淡々と過ぎました。
 強がりでなく、これはこれで「いい日常」であったように思います。
 日常という言葉を使いましたが、私たちの日常とは、通常、休みでない日、つまり、仕事や学校へ行く日のことです。
 5歳の孫娘も、昨日わが家から家に帰る際、「明後日からまた保育園が始まっちゃう」と涙ぐんでいました。
 「でも、金曜日まで行けば、土曜日と日曜日は2日お休みになるでしょ」
 「土曜日はスイミングがあるから休みじゃないもの」
 スイミングも学校なのでしょう。さて、彼女にとって保育園やスイミングのある日が日常なのか、それとも家で親と過ごす日が日常なのか。
 少なくとも、大人になるにしたがって、仕事の日が日常になっていきます。その意味で、この10日間(うち1日は風邪で学校を休んだ日です)を「日常」と感じたことは、何か大きな変化が自分の中に起こり始めているのかもしれません。これは老化なのでしょうか。
 すべての時間を日常として過ごせる心境になったとすれば、これを成長と称してあげたいと思います。少々、強がりも入っていますね。
 さて、読書の方ですが、根を詰められないので(言い訳です)、6冊にとどまりました。それでも読解や日本語についての勉強は進んで、ちょっと成長したように感じています。
 今日は、あえて新しい本は読まず、これまで読んだ本のノートを読み返して復習したいと思っています。
 本の数だけを競うより、学んだことを指折り数えた方がよい。
 やっと分かってきました。これも成長でしょうか。
 点数だけを競うより、学んだことを指折り数えた方がよい。
 これは老いた人間の戯言でしょうか。それとも年を重ねて得た知恵なのでしょうか。
 それでは、穏やかな1日をお過ごしください。そして、明日からも元気に過ごしていきましょう。

おかあさん

 「ねえ、おかあさん。おかあさんは人のことを気にするタイプ、それとも自分のことを気にするタイプ?」
 連休で長女の家族が遊びにきたときの、孫娘と、私の娘であるその母親との会話に聞き入ってしまった。
 「おかあさんはどちらのタイプだと思う」
 いい受けこたえだ。母親をどう考えているのかを知る問いでもある。30年ほど前のわが子の姿と重ね合わせた。立派に成長していることがその親として嬉しい。
 「おかあさんは人のことを気にするタイプかな。すずらんのことをいろいろと考えてくれるから」
 5歳の孫にとって「気にする」とは「考える」ことらしい。言葉や概念の源流を垣間見ているようで興味深い。
 「すずらんはどっちのタイプ?」
 私にも同じ質問が来るかもしれないという危険を、あえて冒して聞いてみた。もし聞かれたら「じいじは自分のことを気にするタイプ」と答えよう。孫に身勝手な祖父と思われるかもしれないが、自分のことを考え続けるのことも大切なことだと、あとで分かってくれるだろう。
 「すずらんはね。人のことを気にするタイプ」
 「おかあさんと同じだね」
 「うん」
 嬉しそうで得意気な表情である。
 私はこのような親子関係をわが子と築いたのであろうか。自分のことばかりを気にして家族のことを気にしていなかったのではないか。
 さても、恐れていた私に対する質問はなかった。ほっとしたような寂しいような。
 子どもの世界は大人が考えているほど幼稚ではない。そして、わが子の幸せほど幸せなことはない。
 親が仕事ということで、今日は孫二人を妻と預かることになっている。さて、どんな発見があるだろう。
〈補〉
 今日は子どもの日。ということで、明治期の、子どもを謳った詩を紹介します。宮崎湖処子(本名は八百吉。男性です)の「里の子」という詩です。

 里の小川を来て見れば、
 小魚(いさな)とるとて子どもらが、
 きのうもけふもくるるまで、
 水をぞすくううちむれて。

 いさら小川のさらさらと、
 たえず月日はながるるを。
 里の子どもはいつまでか、
 とまらぬ水をすくうらむ。

 なお、「いさら」とは「小さな」という意味です。よい一日をお送りください。

君が袖振る

 先日紹介した山口氏の本によれば、「です、ます」(敬体)は直接読者に語りかける表現形式であるとのこと。相手を意識した「話し言葉」に近い。対して、「である」(常体)は客観的に説明できる表現形式で、これにより「地の文」が書きやすくなり、日本語の文章が発展したらしい。
 主観的・個人的な話題は、敬体よりも常体の方がふさわしい場合がある。照れ隠しになり、また、抑制的にそっと感情を届けることができるからだろう。
 今日は常体で書きたい。
 ☆  ☆
 5月1日に会ったばかりだが、昨日母を施設に訪ねた。
 帰り際、母は玄関で、施設の方と手をつないで、手を振って私を見送っていた。私も車の窓を下げて手を振る。
 ふと思い出したことがある。
 この光景は、子どもたちを保育園に送った時に、保育士と手をつないで手を振っていたわが子の姿である。
 共稼ぎだったため、三人の子どもを小さい時から保育園に預けた。初めのうちは泣いて追ってきてこちらも辛かった。ようやく慣れて、手を振って送るようにはなった。しかし、我慢していたのだろう。子どもたちが成人した後もあの時の姿は忘れない。
 子に手を振られ、そして、親に手を振られる。
 時の移り変わりを実感し、人生というものの断面を見る思いがした。
 いつか私自身がわが子の背に向かって手を振るときが来るのだろう。その時、私はどんな気持ちで手を振るのだろう。
 子どもたちはどんな気持ちだったのか。母はどんな気持ちなのだろう。
 「また来てね」と母は言い、「はやく迎えに来てね」と子らは言う。私は何と言うのであろうか。
 令和の時代になり、嬉しいような悲しいような、急に「万葉集」が脚光を浴び始めた。
 「あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」(額田大王)
 手を振るという行為に、日本人の心性が地層のように積み重なっている。
 私にも家族にも、である。

今は昔

 移り気はけっしてよいものではありませんが、昨日、『訓読みのはなし』(笹原宏之著、角川ソフィア文庫、2014年)を4分の1ほど読んだ頃、気分転換に屈伸をしたときに本棚の隅にあった『自家製文章読本』(井上ひさし著、新潮文庫、昭和62年)を手にとってしまいました。
 この本は、教員になって6、7年経ったころに買った本です。大学の頃から彼の随筆が好きで、その随筆の一種かと思って購入しました。内容は、かなり本格的な日本語論です。何度か読み通そうと挑戦した跡があります。30ページまでは鉛筆で線が引いてあります。また、風呂場で読もうとしたようで、80ページあたりまで一部紙に湿気を浴びた形跡があります。
 一昨日まで『日本語の歴史』(山口仲美著、岩波新書、2006年)を読んでいたこともあって理解が進み、それまで読んでいた本をホッポラカシにして一気に読み終えてしまいました。
 移り気も時には功を奏すものですね。
 30年以上を経て、今頃になって日本語の面白さに気づくのですから、もちろん、気づかずに一生を終えるよりもましですが、自分の無能さに嫌気がさします。もし、この30年間、日本語というもの、言葉というものを勉強しつづけたら、もっと深いことに気づけたのではないか、もっと深い「哲学」の授業ができたのではないかと、後悔というより自分の能力に残念な気分です。
 『日本語の歴史』や『自家製文章読本』を読んで、今私たちが使っている日本語が、太古の頃から面々と続いた言葉であること、そして、その間に中国から書き言葉として漢語が移入され、明治維新からは外国思想が和製漢語で翻訳され、戦後は多くの外来語が堰を切ったように流入してきたことが分かりました。例えば「係り結び」。高校時代にはテストのために覚えましたが、なぜ係り結びをするのか、なぜなくなったのかと現在の日本語とつなげて習ったことはありませんでした。もし、日本語の歴史を見つめる視点で「古典」を学んでいれば、あの『源氏物語』も『枕草子』も『古今和歌集』もずっと身近なものとして感じることができただろうと思います。
 何か大切なことを見落としていないか。
 30年以上前に本屋で手に取ったこの本から問われているような気がします。
 少々長くなりますが、『自家製文章読本』からもぎとった1箇所を紹介します。
 「たしかにヒトは言葉を書きつけることで、この宇宙での最大の王「時間」と対抗してきた。……(中略)……。わたしたちの読書行為の底には「過去とつながりたい」という願いがある。そして文章を綴ろうとするときには「未来へつながりたい」という想いがあるのである。だが、奇怪なことが起こりはじめているのもたしかである。かなわぬまでも時間と対抗しようという、いかにも人間らしい気組みが急速に失われて行きつつあるらしい」
 井上氏が生きていて、今の状況を見たら何と書くでしょうか。
 氏は開智未来が誕生する1年前の春に亡くなりました。ちょうど第1期生の募集活動を開始した頃です。今は昔、平成時代の話です。

朝日

 実は、連休前に引いた風邪の影響で咳が止まらず、体調不良が続いています。
 逆境こそ好機。
 これは私の人生訓で、実際、困難があったときが自分の発展の契機となっています。今回も、本を読んだり勉強したりするしかできないので、積極的に「令和の勉学の連休」と名付けて、多くの時間を自室で過ごしています。折しも、連休前から10数冊の本を読もうという計画があったので、病気も天の恵みと都合よく考えることにしています。
 さて、平成31年4月30日から令和元年5月1日まで、二つの元号にわたって、『日本語の歴史』(山口仲美著、岩波新書、2006年)を読みました。本年度から、開智未来で「読解力・日本語力の育成」の取組を開始するからです。この取組は、私が所長をしている開智教育研究所から研究指定されています。私も開智未来の特別顧問として、そして、研究所所長として力を入れています。
 この本では、「読み言葉」しかなかった日本が、漢字という表記方法を中国から得て、どのようにして現在の「書き言葉」(日本語)が成立していったのか、その過程がわかりやすく説明されています。
 現在の日本語には、「和語」「漢語」「明治維新期に人工的に創られた和製漢語」「外来語」の4種類の言葉があります。世界にも類を見ない多様性・豊饒性です。そのため、きめ細かに感じることも、考えることも、そして、人に伝えることもできます。例えれば、日本語は大容量で高性能のコンピュータで、使いこなせば相当の力を発揮するが使いこなすのが困難、という代物です。同時に、変化しやすいという特徴もあります。
 だからこそ、私たち日本人はその日本語を継承して発展させていかなければならない。
 「令和」という新鮮な響きに触発されて、そんなことを考えています。
 今朝からは『訓読みのはなし』(笹原宏之著、角川ソフィア文庫、2014年)を読み始めています。いかに和語と漢語をつなげていったのかを考えたいと思ったからです。
 連休も今日から後半戦(別に戦いではないのですが)。もし時間がありましたらいかがでしょうか。日本という国を考える契機にもなると思います。
 蛇足ながら、連休直前から読んだ本を紹介します。『「読む」技術』(石黒圭著、光文社新書、2010年)と『難解な本を読む技術』(高田明典著、光文社新書、2009年)です。この2冊は「読解力」を考えるために読んだ本です。共に良書です。特に後者は、私自身の本の読み方がいかにいい加減だったのかを反省する契機になりました。おかげで、どんな本もノートをしっかりと取って読むようになりました(逆に言えば、ノートを取らなくて済むような本は読まないということですね)。
 視線を、1メートル50センチ先にある葡萄棚に移すと、花芽がたくさん付いています。朝日を通して、それぞれの葉が葉脈とともに見えています。
 健康に留意して連休後半の初日をお過ごしください。

令和の朝

 令和の世の初めての朝を、いつものように葡萄棚のある自室で過ごしています。
 昨晩の雨も上がり、目前の小さな菜園、その先の植え込みは露に濡れ、新時代だからというわけでもありませんが、清々しい気分にひたっています。馬鈴薯の若芽、バジルの若い苗、生えだした蕗の葉、柿の若葉。皆、黄緑色に映えています。
 5月1日に始まった「令和」の第一印象となりました。
 ふと、この姿が開智未来の中高生に似ていることに気づきました。
 若いときはすべての生き物が黄緑色。生のみずみずしさ。ほのかに草の匂いもします。この時期が新鮮なのは、この色彩と匂いによるのかもしれません。
 未熟だけれど可能性がある。伸びる勢いや輝きをもっている。 
 私自身の中にも、わずかながらでもこの「黄緑色」の部分が残っているようにしたい。
 「青臭さ」とは、植物の「黄緑色の時代」の匂いに由来する言葉でしょう。しかし、青臭さの新鮮さ、真剣さを私たちは忘れてはなりせんね。
 令和の朝、しばし思いを巡らしました。
 さて、今日は施設で過ごしている母を一時帰宅で実家に迎え、一緒に新元号を祝おうと思っています。
 今日も素敵な一日でありますように。

平成から令和へ

 久しぶりのメッセージです。
 忙しく(忙しそうに)立ち動くうちに、考えや感情を文章でまとめない日々が続いてしまいました。本を読み、あれこれと考え、膨大なメモートを書いているのですが、やはり文章となると別ですね。とりわけ今、「読解」や「日本語」を勉強しているので、文章というものに、以前より敏感になっているからかもしれません。言い訳が長くてすみません
 さて、今日は「平成最後の日」です。この特別な日にメッセージを書かないわけにはいかない、ということで、3週間ぶりのメッセージに挑んでいる次第です。
 私が平成を迎えたのは31歳の年、ちょうど上越教育大学で修士論文の仕上げに専心しているときでした。そして今、開智未来の校長を退き、顧問2年目の春を迎える中、葡萄棚のある自室にて、雨の庭を眺めながら、平成31年4月30日、「平成最後の日」を迎えています。奇しくも、私は昭和を31年生き、平成も31年生きました。ほぼ同じ長さの年月を過ごしたわけです。
 昭和は子どもとして成長し大人になった時期、平成は親として子どもを育てた時期と区分できます。子育てはほとんど妻に任せきりだったので、この区分に家族は納得しないでしょう。
 こんな区分の方が適切かもしれません。
 昭和は自分づくりの時期、平成は自分発揮の時期。昭和の最後の時を上越教育大学で単身勉強に励み、その基礎の上に、平成に入ってからは教育実践に邁進して積み重ね、その集大成として、未来への夢を抱いて開智未来を開設することができました。その校長を退いて平成を終えるのも一つの流れのような気がします。
 開智未来は平成終盤の時期、東日本大震災の直後に生まれました。いつも言っていることですが、日本が未来を失ったと思われた最中に、奇しくも「未来」という名前の学校が誕生したのです。
 その平成という時代を私はつかみきれずにいます。
 何も価値をつくらなかった時代、とも感じています。
 私が育った昭和は、戦後復興・高度経済成長の時期で、日本人は未来をもっていました。その後、バブルという狂乱の時代を経て、その残骸の中で平成が始まりました。新聞等で多くの識者が言っていますが、自然災害が続き、大事件が何度も起き、冷戦後の世界は混乱し、何が本当のことなのかわからない・人々が真実をもとめようとしない「ポストトルース(post-truth:真実のあとの時代)」が到来しました。
 明日から「令和」の時代となります。
 この機に、もう一度、価値や真実を求める時代になってほしい、と私は願っています。そのために私は何ができるか。三度目の、そして、最後の「31年間」のテーマにしたいと思っています。
 「未来」という名前は、この「令和」という元号にこそ映えるはずです。加藤校長先生、藤井教頭先生を中心に、先生方と生徒たちと保護者の方々で、開智未来は、「新たな日本」に貢献する学校へと成長していくでしょう。これからの開智未来が楽しみです。私も微力ながら貢献できるよう、成長し続けたいと思っています。
 まとまりのない、長文のメッセージとなってしまいました。
 皆様にとって、素敵な時代の幕開けとなりますように。

忘れてはならないこと

 日曜日はスターティングセミナーで高校入学生に対して2時間の哲学、昨日の月曜日は中学入学生に対して2時間の哲学を行いました。
 初々しくて、開智未来の学びに対して一生懸命で、とても楽しい授業になりました。その姿勢や表情を見ていると、かえって私自身が忘れかけていた何かを学んだような気がします。
 大人は大切なことをしばしば忘れてしまうものです。素敵なことが見えなくなってしまうものです。
 今年になって、あらゆる機会に生徒たちに言っている言葉があります。
 「しっかり聞く、しっかり考える、しっかり読む、自分の考えをしっかりと文章で書く」
 当たり前のことですが、時々、見失ってしまうことです。
 子どもたちと一緒に学ぶことは、本当に楽しいことですよね。
 今日は短いメッセージでした。

フクツのチカラ

 今日は9回目の入学式。
 思い起こせば、東日本大震災直後の、日本が絶望と不安の最中に開智未来の第1回入学式が行われました。あれから8年が過ぎましたが、第1回以来、入学生たちが野の花を持ち寄って壇上を飾る習慣は続いています。
 人間を苦しめる自然と人間をやさしく包む自然。震災と野の花。
 感慨深く、式場を眺め続けました。
 さて、昨年から、入学生たちに名づけた愛称にちなんだ詩を贈ってきました。第9期生は「不屈」。加藤校長先生が初めて付けた愛称です。力強くて逞しい、いい言葉ですね。
 私が贈った拙い詩を、とても恥ずかしいのですが、載せたいと思います。
 ☆  ☆  ☆
 詩 「フクツのチカラ」

 フクツ フツフツ 沸き立つチカラ
 フクツ クツクツ 靴音鳴らせ
 フクツは 僕らの 魔法の言葉

 フクツは 苦痛
 フクツは 普通
 クツウを フツウに 超えてゆけ
 
 フクツは 克服
 フクツは 幸福
 幸せ目指して 超えてゆけ
 
 フクツ フツフツ 沸き立つチカラ
 フクツ クツクツ 靴音鳴らせ
 フクツは 僕らの 合い言葉
 ☆  ☆  ☆
入学生の皆さん、そして、保護者の皆様。ご入学おめでとうございます。そして、ありがとうございます。フクツのチカラで頑張っていきましょう。

子どもたち

 本年度は理事長補佐、開智未来特別顧問、開智国際大学副学長、開智教育研究所所長と4つの職を兼任することになりました。
 その結果、水曜日は半日が開智未来、半日が大学で勤務することになりました。昨日も、家を6時40分に出て大学で8時半から11時まで過ごし、柏から加須まで移動するとともに昼食をとり、午後2時に開智未来に到着しました。今年のテーマは「動き」にあるようです。
 4つの職を兼務していると、当然ながらそれぞれの仕事や役割が違うので、4つのことを頭の中で同時並行して行うことになります。まだ慣れていない私の頭の中はカオス状態です。
 学園と大学と開智未来、「探究、ICT、英語」の推進と教育の基本、言葉力の育成と日本語、哲学とサプリの刷新、哲学と現代思想、実践と研究、理論と文学……。様々な対立項を扱うことになります。
 これらの対立項を大まとめに構造化し、統一化できないか。
これが本年度の私の課題となりそうです。
 4月2日に開智国際大学の入学式がありました。そして、明後日は開智未来の入学式です。
 いろいろな仕事を扱うことになりましたが、目前に子どもたちがいるということは一緒です。そのことが私の原動力になっています。私をカオスから解放してくれるのは、そして、様々な対立項を構造化し、統一化するのは、まさにこの子どもたちだと直感しています。
 明日は新入生の準備登校。そして、4月6日(土)は午前中が在校生の始業式、午後が入学式です。今から楽しみです。

令和

 本年度最初のメッセージです。
 昨日からさかんに報道されていますが、新元号が「令和」となりました。昭和から平成になったときは、昭和が終わって新たな元号になるとは思っていなかったので、かなり劇的な変化のように感じました。しかし、今回は、すでに改元を経験しているので、落ち着いて、しみじみとこの変化を見つめている自分を発見しています。
 理由はわかりませんが、清々しい元号ですね。言葉の響きからでしょうか、新しい一歩を踏み出そうという気持ちになります。
 振り返ると、平成になった時、私は31歳で、上越教育大学大学院で修士論文を仕上げている最中でした。論文のテーマは〈教育学における理論と実践〉で、その後、進学校へ移動し、サプリの前身となる「小論文講座」を開始し、その後、教育委員会、県立高校の教頭・校長となり、開智未来をつくり、60歳でその校長を退きました。
 そして、62歳となって新たな夢に向かう中、令和という時代を迎えることになりました。
 昭和の時代が私の第1段階、平成の時代が第2段階のように思えます。ちょうど31年周期となっています。この法則ならば、93歳まで生きて、第3の段階を過ごすことになりそうですね。
 さて、今朝、開智国際大学への通勤の電車の中で『大学の未来地図』(五神真著、ちくま新書、2019年)を読んでいると、「子どもに夢を託すのではなく、大人が頑張る社会へ」という言葉に目が止まりました。超高齢社会になり少子化が進む中で、子どもにばかり求めるのではなく、中高年自身が頑張らなければならない、という意味です。著者は東京大学の総長です。
 その通りですよね。少なくなった子どもたちに、「ああしてほしい、こうしてほしい」と願いを垂れ流すのは無責任ですね。人生100年の時代を迎えるのですから、60歳くらいはまだ若輩で、自ら夢を追うようでなければならない。それが「令和の時代」の大人のあり方なのでしょう。
 第3段階の31年間を、新しい自分となって頑張っていこう。令和(令私)という響きが、その合い言葉のように聞こえてきます。
 皆様にとって、新たなる「令(よ)き新年度」でありますように。

新サプリの予感

 今朝は「学びのサプリ講座」がありました。
 この講座は本年度初めて行ったもので、高校生の希望者を対象に、サプリをさらに進化・深化させようとの試みで始めたものでした。当初の受講生は40名以上はいたのですが、最終会の本日は9名でした。
 「哲学」の授業で言っていることと重複している部分もありますし、私としてはサプリを進化・深化させているとは思っているのですが、それは一部を深めたに過ぎなく、いつも同じことを言っているような気もします。ただ、1週間分の「やる気」は与えられたのかなと、自分を納得させているところです。
 私の出勤日等の都合で、来年は多分行わないでしょうから、今回が最終回になるでしょう。
 そこで、これまで言及したことのなかった「意思の力」について、その試論を今回初めて提示しました。以下、テキストから抜粋します。
 ☆   ☆
〈意志の力〉
 「気分」では、大学受験という長丁場で戦い続けることはできません(人生も同じです)。「意志」の力(これを精神力とも言いいます)が必要です。
 では「意志」とは何だろうか。
(1) 意志とは自分の中で閉じたものではない。公共性を有するものである。(貢献とはこの公共性にかかるキーワードだったのですね)
(2) 強靱ではないものは意志とは言わない。逆境で意志は鍛えられる。
(3) 意志は心理の上にある。心のあり方(心理)を制御するものである。
(4) 意志と身体は関係がある。まずは身体を鍛えよ。
 ☆   ☆
 今後、もっと深めて、「哲学」の授業で生徒たちに伝えたいと思っています。
 もう一つ、「思う」と「考える」の違いについて考えました。これは日本語学者である大野晋氏や森田良行氏の本から学んだことをもとにしています。私たち大人は子どもたちに「よく考えなさい」としばしば言いますが、私たち自身「考えるとは何か」について分かっていません。とも来年度の「哲学」のテキストでまとめ、さらに実践していこうと思っています。
 「『思う』は『考える』と違って、刹那的判断ないしは、感情の没入で、それだけに対象把握は単一的であって、物事を分析的にとらえる知的行為ではない」
 『思考をあらわす基礎日本語辞典』(森田良行著、角川ソフィア文庫)からの引用です。「思う」とは単一的に思考すること。例えば、「思い込む」とは一つのことに拘泥していることです。対して「考え込む」はあれこれと考えを巡らせていることです。
 そこで、「考える」ための呪文を考えました。呪文1「なぜ、なぜ、なぜ」、呪文2「だから、なぜなら、しかし」、呪文3「ああでもない、こうでもない」です。分析的・論理的・多角的に思考するための方法です。これも来年度のテキストにまとめ上げたいと思っています(今の時点で単一的に思ったことを表明しているだけです)。
 まだまだ進化していきたいですね。
 受講生たちにこんなことを伝えました。
「自分の殻(枠)を打ち破らなければ、つまり、限界を超えなければ、さらなる自分へと飛躍できないし、大きく成長できない。そのためには限界を超えること。そこまで勉強すること、そういう生き方をすることが必要である」(本日のテキストより)
 新しいサプリを創る。目標がまた一つ増えたようです。

思想家になるという夢

 ちょうど1週間前のことです。私の高校時代のことで、ふと思い出したことがあります。
 私は「思想家」になりたかったという事実です。
 ほとんど理解できないながらも、倉田百三や亀井勝一郎の著作、パスカルの『パンセ』などを読み囓り、いろいろと考えたことを文章にできる人になりたいと思った時期が、そうそう、たしかにあったのです。当時は、会社などの組織に入って仕事に就くということなど想像もできなかったので、また、生活するために、そして、家族のために「働く」ということがわからなかったので、自由に考えるだけで生きられる(生活できる=お金を手に入れられる)、そんな都合のよい未来を夢見ていました。今の高校生ならば、「ユーチューバーになる」という夢に近いでしょうか。
 そろそろ、生活のために働く必要もなくなるだろうから、思想家になるもいいかなと、ほんのりと考えるようになりました。詩人になる、ダンサーになる、に加えて思想家になる!です。相変わらず、いい歳をしてふわふわしている人間です。
 そのような生徒がいたならば、「もっと地に足をつけて生きなさい」とアドバイスするでしょうが、私の場合はすでに十分に働いてきたのだから、道楽のようなもの。年寄り相手では、「好きにしなさい」とあきらめるしかありませんよね。
 調べてみると、英語では「thinker」と言うようです。結構単純ですね。広辞苑では「思想が深く豊かな人」。これも至って簡素な定義です。
 そこで安易にもスマホで検索すると、〈デジタル大辞泉〉には「社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人」とあります。発表の場を持たなければならないし、他に悪い影響を与えてはまずい。思想家はやめとこうかな、としばし躊躇してしまいました。
 さらに、〈ウィキペディア〉を見ると、「様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人」とあります。この定義では発表しなくていい。試みるだけでいいのですから、私にもなれそうです。それにしても含蓄のある定義ですね。「熟考し、あるいは問うて答えるため」というくだりに鳥肌が立ちました。
 そこで、まさに熟考して、「思想家として生きる」ことを始めてみようかなと思い立ちました。
 「思想家として生きるとは、熟考して得た思想を生き方として示すこと。つま、行動することである。それを『実践』ともいう」
 私なりの定義を考えてみました。
 そんなことで、このメッセージも最近、少々理屈っぽくなりました。しかし、思想とは熟考したものですから、考えが「熟れ」て、広辞苑の「思想が深く豊かな人」という定義のように、簡素なわかりやすい言葉で表現されてしかるべきです。もっと勉強します。
 私は、開校以来、生徒たちに「哲学」を教えてきました。もしかしたら、高校時代の夢が叶っていたのかもしれません。自分の学校をつくる、自分の本を出版する。中学・高校時代の夢を開智未来で叶えてきした。
 「また一つ叶えたよ」。昔の自分に報告したいと思います。
 さて、もうすぐ新年度が始まります。
 悪い影響を与えないように、身や言葉や行動を正しくして、思想を深く豊かにして、来年度の「哲学」の授業に臨みたいと思います。

感謝の単語カード

 卒業式から一夜明け、今日は中学3年生たちによる「感謝の会」がありました。
 開智国際大学の卒業式と重なってしまい、そちらに出席するため、彼らの進級式に出席できなくなってしまいました。そこで第6期生の進級を祝う詩を書き、その会で読み上げることにしました。
 ☆  ☆
完成と名づけられた子たちへ-中学卒業を祝って-

完成と名づけられた子たちよ
完成年度である6年目の年に入学したことで
喜びのあまり
ふと「完成」という名を与えてしまった

そのとき君たちに
とまどいの夢を投げかけてしまったのかもしれない
いつしか君たちに
手に負えぬ宿命を与えていたのかもしれない

完成とは逃げ水を追うようなもの
目指した地点は、近づけば先へ先へと進み行く

完成は目標ではあるが到達点ではない
それは終点のないベクトルであり
形状のない価値そのものである

完成と名づけられた子たちよ
宿命は君たちをつねに試しつづけるだろう
振り返ってみよ
「再生」の子らが
「完成」の君たちのあとに続いている

願わくば
たどり着いた地点にその両足で立ち
合図の口笛を吹き
その3メートル先をそっと指さし
「完成は未完、未完は完成」と
此の地と彼の地をつなげる呪文を唱えよ

あとに続く者たちのため
さきに生きた者たちのため
 ☆  ☆
 感謝の会の最後に、生徒たちからプレゼントをいただきました。91名の生徒一人一人が、担任や私など関係してきた先生方それぞれに、カードの表面には感謝の言葉、裏面にはその先生のよいところを書き、リングで1つにまとめた、いわゆる「感謝の単語カード」です。
 「開智未来をつくってくれてありがとう」「顧問のいいところは生徒想いのところです」。少々こそばゆくて照れてしまいますが、勇気や元気が湧いてきます。鞄の中に携帯し、辛いときや悲しい時など読み返したいと思います。
 心優しい子どもたちです。ありがとう。嬉しいです。
 さて、同じ時間帯でこれから入学する高校生たちのプレ登校がありました。
 進級生たちと入学生たちがこれから同級生となって、切磋琢磨し、大きく成長していくでしょう。
 4月が待ち遠しいですね。

続・卒業式

 卒業式が終了しました。開智未来らしい、いい卒業式でした。
 卒業する高校3年生たちの「顔」がいい。
 これが開智未来ですよね。
 さて、顧問として私も祝辞を述べました。校長ではないので、少しは勝手なことを言ってもいいかなと思い、強い表現の言葉を使ってみました。一部を再現します。
 ☆  ☆
 見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。
 それは、自らの外にあるもの、内にあるもの、共にである。
 それが「自律と正義」である。
 成長しつづけよ。
 ああいう人だと固定されるような人間になるな。
 人の評価を超える人になれ。
 人の評価を得ようと躍起(やっき)になるくらいなら、自分で自分を評価できる人になれ。
 これには2つの意味がある。
 一つは、評価されるほどの人間になること。
 もう一つは、正しく評価できる人間になること。

 もう少しばかり、年寄りの僻事(ひがごと)を聞いてくれ。

 どんなに小さなことでもいい、どこかの領域で「自分が最高」と思える人になってほしい。
 自分の生きる意味を自分で見つけられる人になってほしい。

 私はこのような立派なことを言える人間ではない。見てのとおりだ。
 自分にこそ言い聞かせている言葉である。
 君たちとは、あと少しの刹那、この世界で、同じ時間をそれぞれ過ごすことになる。
 たがいに開智未来に関わった者として、それぞれ生きていくことになる。
 出会うことがあったならば、新たな人間となって、初対面の如く再会しよう。
 ☆  ☆
 「見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。」という表現は、最後まで使うべきかどうか悩みました。「醜い」という言葉は少々刺激的です。もしかしたら差別的と勘違いされないか。そんな不安も持ちました。
 詐欺で老人から大金をだまし取る詐欺者、わが子を虐待する親。ニュースを見ると醜いものばかりです。見苦しい言い訳、見苦しい誹謗が私たちのまわりに充満しています。これらは断固として拒否せよ。それが正義であろう。
 これからは自分で考え、自分で責任を持って、正しく生きよ。「自律」の妨げになる、自分の幼児性や甘え、そして、大人の過保護や度が過ぎた「ものわかりのよさ」等々。こういう「まとわりつくもの」を振り払え、と言いたかったのです。
 「頑固ジジイ」「因業ジジイ」と言われそうですね。
 それにしても、卒業する高校3年生たちの「顔」がよかった。
 年をとってもそういう顔でありつづけてほしいと願っています。卒業おめでとう。

卒業式

 明日は卒業式、今日は予行。毎年のことながら、学校全体が異空間に感じられる時である。私にはそう感じられる。
 今年は顧問なので、式辞のプレッシャーはなくて気が楽だが、中学入学生は6年のうちの5年、高校入学生は3年のうちの2年は、校長であった。どうしても、卒業生たちは開智未来に入学して幸せだったのか、と自問してしまう。そして、責任を感じてしまう。
 卒業の日は、3年間・6年間の思い出が語られる、特別な一日である。「走馬燈のように」とは、少々陳腐で古くさい表現だが、なるほど、ぐるぐると回る紙のスクリーンに映し出された幻のように、過去のことが次から次へと思い出されてくる。
 そのうちに、過去がのしかかってくるようで、私はときどき息苦しくなる。
 私の高校の頃を思い出すと、私は卒業式後、はやく学校を立ち去りたかった。次の未来の方に心が移っていたからである。過去との付き合い方が下手な性分なのかもしれない。
 過去はまぼろしではない。過ぎ去ったことではあるが、確実な堆積物である。未来は未だ来ぬもの。事実ではない。しかし、卒業の日は、この地層となった3年間・6年間に引けを取らぬほどに、未来はあたかも事実のように輝く。過去と未来が共存する不思議な一日である。
 未来をつくるには充実した「事実たる過去」が必要だからか。
 それとも、未来へ先走りをするのを押さえるために「ゆらめく過去」を振り返るのか。
 明日は過去と未来に圧倒されて、今の気持ちを伝えられないかもしれないので、先走って、卒業おめでとう、と卒業生たちにこの場を借りて伝えたい。そして、2年間・5年間の気持ちを込めて、卒業生の皆さん、そして、保護者の皆様に、卒業ありがとう、と記したい。

うつしよ

 現世の疾きものかな。
 朝から詠嘆と言える感慨に浸っています。 
 開智未来の開校まであと3週間を切り、翌日に併願の高校入学生の入学説明会および中学入学生の事前登校日を控えていた、ちょうど8年前のことでした。はやい(疾い)ものですね。
 大地が激しく揺らぎ、街の信号機は消え、電車は途絶え、私はこの学校の開校ができるのかと、南面の窓に駆け寄り、埼玉大橋の存在を確認しました。今でもリアル(現実的)に思い起こすことができます。この頭の中の映像は過去のことではあるが、現実の私のなかに「像」として残っています。
 現世(うつしよ)とは不思議な言葉ですね。今、この時という現実を指す言葉であると同時に、いつか幻と消えゆくはかなさも含意しています。
 この日本が絶望のどん底にあるときに、「未来」という名の本校が誕生しました。機会あるごとに話していることですが、私は一つの宿命のようなものを感じて、この8年間を過ごしてきました。
 未来を創る学校でなければならない。
 未来を担う生徒を育てなければならない。
 使命感、責任感、重圧、足かせ。そして、その使命を果たせていないという申し訳なさ、後ろめたさ。複雑な感情が、ずっと足もとに絡みついていました。
 一方で、日本中を覆った絶望の中で、新しい日本が、そして、新しい日本人が芽吹くものと、不遜ながらひっそりと思っていました。その思いを開智未来に重ねてきました。
 8年経った今、私たちは新たな知性を獲得したのでしょうか。新たな社会を創ってきたのでしょうか。新たな教育を求めてきたのでしょうか。そして、私は校長としてやるべきことをやっていたのでしょうか。
 過去を思い出すのは、ノスタルジーからではない。それが事実だからである。過去を事実として確認しないから、私たちは現世を彷徨(さまよ)ってしまうのだ。
 現世の疾きものかな。
 尻切れトンボのメッセージとなってしまいました。
 亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

ヨクミキキシワカリ

 昨日は、大学を取り巻く状況を知ろうと、「私立大学等改革フォーラム」に参加してきました。会場は四谷にある上智大学でした。
 何事もねらいをもって行動する。
 生徒たちに教えているように、参加に当たって、2つのねらいを設定しました。
 1つは、よく見聞きし分かること。これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ヨクミキキシワカリ」をもじったものです。よく聞いて、よく見て、そして、よく理解することです。
 2つ目は、読みやすい文字でメモを取ることです。私の字はあまり読みやすいものではありません。現在、その改善に向けて、少々ゆっくりでも読みやすい丁寧な文字を書こうとしているところです。
 現在、高等教育(大学教育)の改革については、文部科学省がかなり力を入れています。文部科学省が直接補助金を配当するので、かなり強く要求できるからでしょう。小・中・高校よりもずっと急激な改革が進められています。
 AP、FDという見慣れぬ記号は、意味をもたない符丁にしか見えません。
 コンソーシアム、プラットホーム、コンピテンシー、ディプロマ・サプリメント等々。
 うーん。よくわからない。横文字が飛び交い、話し手はその用語に意味を見出しているのかと、やっかみ半分、訝ってしまいました。
 なんと私は無知な田舎者なのだろう。やっぱり先端の世界は違うなあ。
「よく見聞きし分かる」ことは大変なことである。そこで、自分を鼓舞するかのように、帰りの湘南新宿ラインの電車の中で、「ヨクミキキシワカリ、ヨクミキキシワカリ」と何度も呟きました。「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」。強がる気持ちからでしょうか、いつの間にか、「雨ニモマケズ」を心の中で諳んじていました。

あえてゆっくりと

 あえてゆっくりと考える。ゆっくりと読む。
 別に、加齢ゆえの現象ではなく、意志としてゆっくりと行動するようにしています。すると、深く考え、深く読めるようになってきました。
 かつては「切れ者」であることを望み、「愚鈍」であると思われないようにと、頭の回転のよよさを追求していましたが、60歳を超えたのでそのように思われてもいいかな、という気持ちもあり、「ゆっくり」を自分に言い聞かせて生きるようにしています。
 ゆっくりと聞く。ゆっくりと話す。ゆっくりと見る。ゆっくりと食べる。ゆっくりと散歩する。
 急かない、焦らない、短気にならない。時々、足を止めること。
 昨日のメッセージにも、ニーチェの引用をしましたが。「じっと待つ」ことも大切ですね。
 もちろん、高速も必要です。高速で処理する。高速で対応する。高速で逃げる。
 特に、回避するのは高速でなければなりません。高速で処理するからゆっくりの時間が生まれるわけですから。
「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」
 昨日示したニーチェの言葉です。
 昔、車のエンジンかあまり発達していなかった頃、低速で運転しているとエンジンかエンストすることがありました。
 ゆっくりとできる力量を年相応に持ちたいものですね。

40年前の自分との対話

 「読解力・言葉力・日本語」を真剣に考えるようになり、また、勉強・研究するようになって約50日、最近は言葉に敏感になってきました。
 昨日、西尾幹二氏の『ヨーロッパの個人主義』という本を紹介しましたが、学生時代(なんと40年も前!)の同時期に読んだ、同氏の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を本棚から発見しました。
 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より、p.7)
 パラパラとページをめくると、こんな言葉が目に飛び込んできました。
 うーん。すごい言葉ですね。若い頃にはこの言葉の意味が分からなかったようで、赤の線は引いてありませんでした。自分というものは、歳を重ねるにしたがってその質量が増してくる。最後には自分としてしか世界を味わえないという諦め。このようなことをこの言葉から感じられるほどに長く生きてきたのでしょう。
 「個性は決して主張するものではなく、意図せず自然ににじみ出てくるものでなければならない」(p.118)
 ここには赤線が引いてありました。本を読み直すと、自分の来し方を振り返ることができますね。
 言葉に敏感になるということは人間に敏感になるということ。
 言葉に敏感になるということは自分に敏感になるということ。
 ふと、そんな言葉が浮かんできました。じっくりと考えられるようになったからでしょうか。
 「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」(p.114)
 おいおい、お前はどんなつもりでここに赤線を引いたのか!
 40年前の自分に尋ねてみたいところです。

生身

 昨日は週休日で、しかも、いい天気だったので、3時間半ほどサイクリングしました。春の香りがしてさわやかだったので、52キロメートルと、久しぶりにしては少々長い距離をこいでしまいました。
 自分の力で長い距離を走れることが、自転車のいいところです。もちろん、徒歩では10数キロが限界なので、自転車というテクノロジーを活用しているのですが、車と違って動力は自分の肉体です。自分の力で動いていると、車に乗っていては見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを五感で味わうことができます。そして、精神がいきいきと蘇ってくるような心持ちになります。これが生身の素晴らしさですね。
 話は変わりますが、昨日から、『個人主義とは何か』(西尾幹二著、PHP新書、2007年)を読んでいます。実は、この本は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)として出版された本の復刻版です。学生時代に読んだことを覚えています。前日、本屋で『個人主義とは何か』を見かけて購入し、再読しているところです。最近、昔の文章ばかり読んでいますが、時間に磨かれた文章は滋味ゆたかで、読み込めば読み込むほど、その深さに気づきます。
 読書ノートに抜き書きした部分を一つ紹介します。
 「ヨーロッパの技術文明は、自分の意志(ママ)で着たり脱いだりすることのできる衣裳ではない。いったん着用におよべば、着た人の身体ばかりではなく、その魂までをも変形させる不気味な力を持ったものなのである」
 明治維新、そして、戦後の欧米文明の導入について述べた文章です。ここで書かれている「技術文明」を「テクノロジー」や「ICT」、または「スマホ」に、さらには、「自動車」や「AI」に置き換えて読んでいます。
 最近、私は散歩や自転車がお気に入りです。

読解力

 昨日は、昼頃から生憎の雨になり、残念ながら馬鈴薯の種芋を植えることができず、その結果、地に足をつけるという「倫理的」な営みができませんでした。そこで、「晴耕雨読」という素敵な日本語に寄りかかって、本を読み続けました。
 さて、今日は、昨日読んだ『20歳からの〈現代文〉入門』(中島克治著、NHK生活人新書、2016年)から、いくつかの文を紹介したいと思います。私の拙い文章や考えより、良い本には良い言葉や文章や考えがたくさんあります。時には、「思想」という貴重な宝物も見つけることができます。私は目利きではないので、果たして私の選び出したものが「宝玉」かどうかは不明ではありますが、ご賞味ください。
 ただ、生徒たちに「読む力」を育てるのは大切だということ、そして、私たち大人も「読む力」を付けなければならないことを、一言付け加えておきたいと思います。
 「本を読む行為の中に、主体的な取り組みや模索を改めて組み込めないだろうか」「読んだ作品の、本当の価値の中に歩み出す」(読解という行為はただ意味を読み取るにとどまらず、そこから得たことをいかに生きる行為の中に組み込むか、そのことが大切だということだと私は理解しました)
 「私たちが本当に満たされるのは、自分がどのような人間なのかをつかんだ瞬間、そして、自分の心と他の人の心が通い合った瞬間です」(幸せとは何かを考える上で参考になりました)
 「今のインターネット上には情報があふれ、いいものも悪いものも嘘もまぜこぜになったような文章が氾濫しています。そんな『情報の洪水』に流されてしまわず、自分らしく生きるために必要なのが『読解力』である」(私も心からそう思います)
 「『現代文』のさまざまな文章を深く理解できる者は、さまざまな場面において、機敏に、そして慎重に対処するのです。また、人の輪の中にいて、率直に自分を表出し、人を共感させる力さえ発揮することができるのです。むしろ、悩み多き者とすらいえます。しかし、彼らはとても人間的で、自分の弱さをさえ直視しようとします。苦境を切り抜けるのに、小説的世界を重ね合わせたり、評論的なアプローチを行ったりしつつ、時には友人や教員を頼ることができるのです」(実は中島氏は私立中高一貫校の教員です。生徒たちをよく見ている先生ですね)

倫理的拒絶

 昨日のメッセージで、亀井勝一郎氏の『日本人の精神史』からの引用を、ひとつ忘れていました。
 「拒絶の政治的ポーズの大きさに比べて、拒絶の倫理的深さがない」です。
 とても重要な箇所です。日本人の抵抗というものが、たんに政治的な抵抗、しかも、ポーズに過ぎないとし、さらに、倫理的な抵抗がないという趣旨でしょう。「倫理的深さ」という言葉も洗練されていていいですね。
 今般、起業のデータ改ざんや偽装のニュースが頻繁に報道されています。これだけ掘れば出てくるような状況ということは、きっとそのあたりの土地のあちこちに埋まっているのでしょう。
 この問題には、法令の網の目をかいくぐり、見つからなければよい、という日本人の意識があると私は思っています。見つかろうとなかろうと、「狡いことはしてはならぬ。ごまかしはならぬ。卑怯はならぬ」という倫理観が日本人からなくなっているのです。
 集団で一人をいじめる。これは卑怯な振る舞いです。それは「いけない」と禁止されるものである以上に、倫理として「行ってはならぬ」と一人一人が「抵抗」しなければならない、まさに「思想」に関わることなのです。
 このような「倫理的な抵抗」が日本社会から消えつつある。すでに昭和30年代前半の文章で訴えられているくらいですから、その後半世紀以上経ったこの日本では消滅してしまったのかもしれません。
 最近、「企業倫理」という言葉に変わって、「コンプライアンス(compliance)」という横文字をよく見聞きします。この英単語は「法令に従うこと」という意味です。そこには「倫理」の意味は含まれていません。私は、この変化は単に流行というものではなく、意図的に使われているのだと邪推しています。「法令に従っていればよいのさ」。そんなふうに聞こえてきます。
 教育という人間の営みにおいては、「コンプライアンス」で処理することは、けっしてあってはならない。少々息ばりすぎでしょうか。少なくとも、「それでも開智未来生か」と生徒たちにも言えるように、私自身も、損得論に陥ることなく、「倫理的抵抗」を感じる感性と思想を持ちたいと思っています。
 今日も時代遅れになってしまったようです。
 曇天の日曜日、私は馬鈴薯の種芋を植える予定です。地に足をつけた、これも「倫理的」な営みだと直感しています。「倫理」には「人間」という概念が寄り添っているからです。

時代遅れ

 今日も亀井勝一郎をゆっくりと読んでいると、彼の言っていることが身にしみて分かるようになった自分を発見しました。
 高校時代、彼の『愛の無常について』や『我が精神の遍歴』を読んだことを思い出しました。その頃は、匂いを嗅ぐ程度しか読めていなくて、ほとんど意味が分からなかったため、それらの本の内容をまったく思い出せません。きっと何も得ることはできなかったのでしょうね。でも、匂いを嗅いだという経験は私を成長させたはずだと、昔の自分をかばいだてしたい気持ちもあります。
 「私は『思想』を『思想』たらしめる原動力のひとつは、拒絶の大きさだと思っている」「現代人である我々は、遺憾ながら深い拒絶を失っている」「我々は『ものわかりのよさ』と『あいまいさ』の中に漂っている自己を嫌悪しているのだ」
 自分には軸となる自らの思想がない。私が20代の頃からずっと抱いている感情について明確に書かれています。
 亀井氏は、「日本の思想」をつくる糸口を「日本人の精神史」に見出そうとしたに違いありません。この四部作を読めば、40年にわたる自己嫌悪を消し去ることができるのではないか。そんな期待を抱いています。
 さて、この文章は昭和30年代前半、私の生まれた頃に書かれたものです。「現代人である我々」の「現代」とは60年前のことです。自分の生まれた頃に書かれたことがまったく古くさくなく、亀井氏と対話するように読むことができる。
 救われた気分になります。亀井氏と知人になった心持ちです
 不勉強で能力がなかったため、今頃になってやっとわかり始めてきました。
 遅ればせながら、現代日本の不毛さに抗いながら、生徒たちに大切なことを伝え続けたいです。
 時代遅れと思われそうですが、時代遅れとは時代に遅れることではなく、時代を遡って過去と語り合うことだと考えれば、素敵なことですよね。
 やはり、読むという営みは、ゆたかな精神活動に違いありません。

読解力

 約40日ぶりのメッセージです。
 この「顧問感覚(コモンセンス)」は終了したのかとの質問を何度か受けましたが、執筆を開始できるほどに充電するまで時間がかかってしまいました。
 さて、この間、「読解力・言葉力・日本語」について勉強をしていました。日本人の「読む力」が弱まっているのではないかと感じたからです。もちろん、私も入ります。そこで関連した文献を読み、考え続けています。その範囲は、言語学、哲学、認知科学、脳科学、仏教、日本史、漢文、古文、現代文、英語、教育学など、かなりの広がりをもっています。
 文献を読みながら思ったことは、私自身、読解力がないということです。わからない言葉もありますし、何を言っているのか難解なところもたくさんあります。資料をたくさん読もうとして、速く読んでいると、あいまいなところをとばし読みしたり、浅く考えて分かったつもりになっていることがわかりました。
 そこで、じっくりと、というより、意識してゆっくりと読むことにしました。はっきりと分からないところでは立ち止まり、必要に応じてノートを取るようにもしました。自分自身の読解が「読解の実践」となっています。
 今読んでいるのは、『文学に現れたる我が国民思想の研究』(全8巻、津田左右吉著、岩波文庫)と『日本人の精神史』(全4巻、亀井勝一郎著、講談社文庫)です。津田左右吉氏の本は大正5年に書かれた本で、私が30歳の時にいつかは読んでみたいと思って購入した本です。かなづかいは当時のままで、漢字は新字体を採用しているとはいえ、ルビはなく、けっして読みやすいものではありません。漢字熟語などは今は使われていないものもあり、広辞苑や漢和辞典を引きながらの読解です。昔の人は旧字体で読んでいたのですから、日本人の日本語力は衰退したものです。
 亀井勝一郎氏の本は、大学生の時に途中まで読み始めた本です。40年ぶりです。読みながら思うことは、最近の本と比べて中身が濃いということです。途中、古事記からの引用などもあるので、まるで古文です。共に、日本人の考え方を古文時代から分析しており、1か月くらいかけて読み込んでいこうと思っています。
 私は無学だったと、今、つくづく思っています。
 今からでも遅くないと、ゆっくりと本を読み、じっくりと考え、確かで深い言葉で自分の考えをまとめていこうと決心しました。その成果を、このメッセージでお知らせしたり、「哲学」の授業に役立てられたらと思っています。
 明日も頑張って書く予定です。よろしくお願いします。

生きている実感

 高校3年生のセンター試験、そして、中学校入試全日程を終え、新たな週を迎えました。
 高校3年生諸君、中学受験生の皆さんは全力を出せたでしょうか。人生は続きます。まずは一歩、さらに一歩と前に向かって力強く進み続けてくださいね。
 さて、私の方ですが、合格祈願走(歩)では約17キロを踏破しました。その日の夜から膝が痛み、今も歩行に支障が生じています。
 歳は取りたくないものです。
 しかし、その痛みが生徒たちが直面している現実に、ささやかながらも私も関わっている証に感じられます。
 苦痛や絶望、焦りや緊張こそ、生きている実感。ものごとはマイナスに捉えるのではなく、プラスの意味で受け取るべし。
 苦闘している受験生に伝えたいと思います(自分に言い聞かせていることでもあります)。
 さあ、これからです。がんばれ!

祈り

 明日は、センター試験の初日、そして、開智未来の中学入試の最終日。開智未来に関わる様々な人の、様々な思いが注ぎ込まれる一日になります。
 大学入試を経て、3月に開智未来を卒業していく高校3年生たちには、センター試験で自分のもっている力を発揮してほしいと思います。明日は大学入試のスタートでこれから1か月を超える、自己との戦いが始まります。本日の集会で話しましたが、「立ち向かうこと」と「無心になって(問題を解くことに)没頭すること」が大切だと私は考えます。彼らが、一人で生きることを開始する瞬間です。開智未来を選び、3年間または6年間をここで過ごしてきた開智未来生よ、頑張れ!
 それに対し、中学入試は探究型入試も合わせると6回ある入試の最後となります。これまで落ち続けた受験生もいると思いますが、最後まで立ち向かってほしいと思います。最後まであきらめずに戦った者は、必ず何かを得ることができる。それは自信であり、自負心であり、納得であり、そして「合格」でありましょう。小学6年生でありながら、ひたむきに問題と格闘していた、未来の開智未来生の皆さん、頑張ってくださいね。
 さて、私は恒例の「合格祈願走」を実施します。10月のプレ合格祈願走で25キロメートル走って痛めた膝が完治していないので、歩くような祈願走になりますが、開智未来に入学してくれた君たちへの、お礼と感謝の気持ちで湯島天神から草加駅までの15キロを走破したいと思います。この合格祈願にはH3学年主任の寺岬先生と伊東先生も参加します。特に伊東先生は春日部市の試験会場まで走る予定です。
最後まで開智未来中学に受験してくれた皆さんにお会いしたいので、草加駅から電車で柳生駅に移動し、12時には学校に到着したいと思っています。これから開智未来を飛び立つ受験生、そして、これから開智未来で学ぼうとしている受験生のために、それぞれの思いを感じ取りながら、走って(歩くように見えるかもしれませんが)きたいと思います。
 戦うのは受験生。私たちにできることは祈ることだけです。
 開智未来に入学してくれてありがとう。開智未来を目指してくれてありがとう。走りながら祈り続けたいと思っています。

一夜明けての夢

 昨日、第1期中学入学生の「成人式の集い」がありました。
 成人式後の集まりは、地元の出身中学校ごとに行われることが多く、中高一貫生にはそのような場がないことから、同窓会を兼ねて大宮に集まりました。参加者は約7割。教職員も7名が集まりました。
 中学入学生は説明会や入試からの付き合いで、小学生時代の姿も知っています。12歳の頃の面影を、目前の二十歳の彼らに見出しながら、ビールを飲み交わしていると、まるでわが子と対面しているような気分になりました。
 まだ学校が完成していない頃から、各地でサプリを行いながら説明会を実施し、5人、10人と集まった親子を前に、開智未来の夢を語り、集まってきてくれた彼らです。
 彼らは開智未来に入学して幸せだったのだろうか。この学校を選んだことは誤りではなかっただろうか。
 校長として彼らを迎えた者として、ずっと自問してきたことです。顧問となった今でもその自問は続いています。学校を開いた校長として、これからもずっと背負っていく問いでありましょう。
 こうやって多くの卒業生たちが来てくれたのだから、きっと彼らはこの学校を選んだことを悔やんではいないに違いない。
 帰りの電車の中で、第1期生たちからいただいた花束を見つめながら、そんな希望的観測を反芻しました。
 これまで高校入学生も含め、多くの卒業生がこの学校で大切な時期を過ごし、巣立っていきました。今年の3月には第6期高校入学生と第3期中学入学生が卒業します。
 開智未来がどんな学校であるか。それは卒業生たちの未来の姿によって決まるでしょう。大人になった彼らの未来こそが開智未来である。そんなことを考えながら、いつしか、彼ら自身が開智未来の教員として、また、彼らの子どもたちが開智未来生として戻ってきてくれることを、一夜明けて、夢みています。

未来の足音

 中学入試2日目。今日は午前中は「探究型入試2」、午後は「未来A入試」です。
 昨日よりも温かい朝となりましたが、強い風の中、85名の受験生が開智未来に集まってきました。
 さて、昨日の合格発表では、合格発表サイトへのバナーを貼った本校ホームページへのアクセスが集中し、サーバーがダウンしてしまいました。すぐに志願者の皆様へはメールにて合格発表サイトのURLをお送りさせていただきましたが、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
 8年前のこと、本校初めての、第1期生の第1回入試においても同じことがありました。その時は本校のホームページ上で合格発表をしたのですが、やはりアクセスが集中して、ホームページ自体が壊れてしまうという事態になりました。第1期生たちの、新設の開智未来への思いが強かったからでしょう。深夜午前2時まで当時の加藤教頭と西木広報部長で対応したことも今では懐かしい思い出です。その後、現在のように合格発表サイトを通して無事に発表をしてきたのですが、今年度は、受験生が増加し、その熱い思いが臨界面を超えてしまったのかもしれません。新たな改善をしていきますのでよろしくお願いいたします。
 今、午前中の「探究2入試」が終了しました。多くの受験生たちは「ありがとうございました」と私に声をかけてくれます。素敵な子どもたちです。
 午後は「未来A入試」です。受験生の皆さん、頑張ってくださいね。
 強風の中、あらたな「未来」の足音が聞こえてくるようです。春が待ち遠しいです。

頑張れ、中学受験生!

 大変遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。
 最近、常套のフレーズになってしまいましたが、「久しぶりのメッセージで申し訳ありません」。文章を書いて公表するという緊張感に耐えられないほどの「身心度」になってしまったのでしょうか。深く反省する次第です。
 さて、今日から中学入試が始まりました。今日は、午前中に「探究1」入試、午後は「第1回入試」です。
 今朝は、氷点下の中、開智未来で受験生を迎えました。
 「おはようございます」。息を白くして挨拶をしてくれます。「頑張ってね」「ありがとうござます」。礼儀ただしい、そして、素直な受験生たちです。きっと第9期生もいい開智未来生になる。嬉しくなりました。
 あれから8年。
 中学第1期生たちは4日後、成人式を迎えます。開智未来の初めての入試のことを思い出しました。その後、こうやって毎年、挨拶を交わして受験して、開智未来生たちは未来に入学してきました。
 ここに未来がある。私の物語が始まる。
 やはり感無量です。
 未来の開智未来生の皆さん。これから続く、受験の日々を頑張ってくださいね。そして、ぐんぐん成長していってくださいね。
 もうすぐ午後の試験が始まります。受験生の皆さん、頑張ってください。応援しています。

久しぶりのメッセージです

 本当に久しぶりのメッセージです。
 ホームページが更新されて、メッセージを送信できるように調整するのに時間がかかたことも一因ですが、加えて、私が楽を覚えてしまったことも原因だと反省しています。
 何を書こうか。どんなことを書いたらこのメッセージを読んだ人のためになるだろうか。
 文章を書くことも大変ですが、それ以上に、何を書いたらよいかを考えることの方が難しい作業です。書くためには本を読んだりして勉強しなければなりませんし、成長しなければなりません。そういう意味で、このメッセージを書くことは日々の生き方が問われるので、楽をしたいと思ってしまったのでしょう。
 開智未来の開校前、つまり、8年前からこのメッセージを書き始めて、執筆が私の生活の一部となっているので、やはり、これを書かないと、大切なことをせずに1日過ぎてしまったという気持ちになってしまいます。
 生徒たちに負けないように勉強して、そして、少しでも成長して、メッセージを書き続けたいと思います。
 さて、今日は冬期講習の最終日。明日から本格的な冬休みに入ります。そして、新年を迎えることになります。これからもよろしくお願いします。

学びの道

 ご無沙汰しています。久しぶりのメッセージとなりました。
 さて、昨日に引き続き、今日も大学勤務です。
 自宅から大学まで2時間強かかります。往きは加須駅まで妻に車で送ってもらうのですが、帰りは徒歩となります。はじめの頃はこの長い通勤時間が「つらいな」と思っていましたが、連日の通勤も心地よくなってきました。
 やはり考え方一つですね。
 まず、大学と柏駅間の約30分の徒歩ですが、先日のメッセージにも書きましたが、「哲学の道」(The Road for Philosophy:略してRFP)と名付けました。もちろん、ウォーキングのエクササイズでもあり、姿勢をただして歩きます。背負ったDバックは重りとなります。併せて、歩いたり自転車に乗ったりしている人々の観察もします。今日はウォークマンで英語の音源を聴いてリスニングの勉強をしました。歩くリズムと身体活動が思考を深めてくれます。
 春日部と柏間は必ず座れるので、私にとって動く書斎になっています。Dバックを机がわりにして、資料を読んだりノートを書いたりして45分間を過ごします。往きは柏駅が終点なので乗り越す心配はないのでかなり集中できます。しかも、雑踏の中は集中できるものです。スタバで勉強がはかどるのと同じです。さらに、ほどよい振動も思考力を高めるようです。
 加須-春日部間は座れません。そこでつり革につかまりながら、足腰のトレーニングをしながら、「想起法」を実行しています。ポイントはテーマを設定することです。今日は「失敗が成功のもとになるのはなぜか」について、頭の中で英語で説明しました。英語のリスニング勉強をするときもあります。
 そこで電車の中を「移動学習空間」(Moving and Learning Space:略してMLS)と名付けることにしました。
 帰りの加須駅から自宅までは、約20分間、田園風景の中を歩きます。川沿いを歩いたり、木々の中を歩いたりしながら、五感を研ぎ澄ませて、自然を楽しみます。「観察の小径」(Observating Path:略してOP)と名付けました。
 さて、大学の会議が終わったので、これから自宅へ戻り、用務があるので開智未来へ行きます。今日は「職場のハシゴ」です。RFP→MLS→OPのプロセスを満喫したいと思います。ちなみに、自宅から開智未来までは車です。車内では、12月13日の身体表現発表会に向けて、音楽に合わせてダンスの練習をしながら運転する予定です。「Dancing Drive」。DDです!

人が見える

 今日は大学です。やはり、開智未来とは別世界ですね。
 不思議です。私はどこにいても私なのに、開智未来にいる私と大学にいる私が自分自身違う人間であるように感じてしまいます。
 柏駅から大学まで、25分の徒歩での移動中、通りの人々や住宅を見つめながら、いろいろなことを考えています。歩くのは大変ですが、けっこうお気に入りの時間です。
 この家ではどんな人が住んでいるのだろう。
 どんな団らんがあるのだろう。
 この花を植えたのは誰だろう。
 こんな「開智未来の教育」の詩(アフォリズム)を考えました。
〈見る①〉(「五感」シリーズ)
 そこにいない人を意識して見る。
 刈り取り後の、蘖(ひこばえ)の田んぼを見ながら、春に田植えをしていた人を見出す。
 雨戸の閉まった2階の部屋を見上げながら、育った子供たちの姿を見出す。
 そこにいたであろう人の姿を私たちはありありと想像することができる。
 この世界は人に満ち溢れている。
 それほど、人間は人間が好きということだ。
 
 さて、明日は中学部の合唱祭です。私は南浦和の日能研で親サプリをしてから向かいますので、会場には1時20分頃到着します。ぎりぎり間に合うでしょうか。
 一生懸命練習している姿がありありと浮かんできます。
 それほど、開智未来生が好きだということなのでしょう。

試み

 先日、一昨年出版した『学びのサプリ』の第2弾として『学びのサプリ(詩集編)』の企画を思いついた。論理的な説明では間延びする。科学的に追究するにはもっと学問を深めなければならない。理論化は別の機会とするとして、論理になる前の直感を「詩」として表したら、よりサプリの思想が広がり、また、深まると考えたからである。しかも、情感に届けることができる。
 そこで、開智未来のキーワードを詩にする作業を開始した。一種のアフォリズムである。
 この作業がなかなかおもしろい。『学びのサプリ』は筆が進まなかったが、今回はふと気がつくと、サプリの詩を考えている自分がいる。
〈未来スマイル〉
 きっと、生理学的に、心理学的に、そして、哲学的に説明できるのだろうけど、笑うと幸せな気分になる。
 唯一、意識的に笑うことのできる動物である人間は、カブトムシや水仙の花やイヌやネコよりも、幸せな生き物であるにちがいない。
  スマイルを掲げた学校。
 未来へのスマイル。
〈うなずき〉
 意識してうなずくと幸せを感じることができる。
 無意識にうなずく人はすでに幸せである。
 だが、幸せである人は特段に幸せを感じることはない。
 しかし、幸せを感じる人より、間違いなく幸せである。
 「であること」と「感じること」。
〈嗅ぐ〉(「五感」シリーズ)
 朝食の香りを楽しんでいるかな。
 早春の沈丁花、初夏のクチナシ、初秋の木犀はさらなり、
 春は桜、夏は夕立、秋は栗、冬は雪。季節を嗅ぎ取る臭覚を持とう。
 そうすれば、人格の臭いを嗅ぎ分ける人になれるよ。