顧問感覚

コモンセンス

新サプリの予感

 今朝は「学びのサプリ講座」がありました。
 この講座は本年度初めて行ったもので、高校生の希望者を対象に、サプリをさらに進化・深化させようとの試みで始めたものでした。当初の受講生は40名以上はいたのですが、最終会の本日は9名でした。
 「哲学」の授業で言っていることと重複している部分もありますし、私としてはサプリを進化・深化させているとは思っているのですが、それは一部を深めたに過ぎなく、いつも同じことを言っているような気もします。ただ、1週間分の「やる気」は与えられたのかなと、自分を納得させているところです。
 私の出勤日等の都合で、来年は多分行わないでしょうから、今回が最終回になるでしょう。
 そこで、これまで言及したことのなかった「意思の力」について、その試論を今回初めて提示しました。以下、テキストから抜粋します。
 ☆   ☆
〈意志の力〉
 「気分」では、大学受験という長丁場で戦い続けることはできません(人生も同じです)。「意志」の力(これを精神力とも言いいます)が必要です。
 では「意志」とは何だろうか。
(1) 意志とは自分の中で閉じたものではない。公共性を有するものである。(貢献とはこの公共性にかかるキーワードだったのですね)
(2) 強靱ではないものは意志とは言わない。逆境で意志は鍛えられる。
(3) 意志は心理の上にある。心のあり方(心理)を制御するものである。
(4) 意志と身体は関係がある。まずは身体を鍛えよ。
 ☆   ☆
 今後、もっと深めて、「哲学」の授業で生徒たちに伝えたいと思っています。
 もう一つ、「思う」と「考える」の違いについて考えました。これは日本語学者である大野晋氏や森田良行氏の本から学んだことをもとにしています。私たち大人は子どもたちに「よく考えなさい」としばしば言いますが、私たち自身「考えるとは何か」について分かっていません。とも来年度の「哲学」のテキストでまとめ、さらに実践していこうと思っています。
 「『思う』は『考える』と違って、刹那的判断ないしは、感情の没入で、それだけに対象把握は単一的であって、物事を分析的にとらえる知的行為ではない」
 『思考をあらわす基礎日本語辞典』(森田良行著、角川ソフィア文庫)からの引用です。「思う」とは単一的に思考すること。例えば、「思い込む」とは一つのことに拘泥していることです。対して「考え込む」はあれこれと考えを巡らせていることです。
 そこで、「考える」ための呪文を考えました。呪文1「なぜ、なぜ、なぜ」、呪文2「だから、なぜなら、しかし」、呪文3「ああでもない、こうでもない」です。分析的・論理的・多角的に思考するための方法です。これも来年度のテキストにまとめ上げたいと思っています(今の時点で単一的に思ったことを表明しているだけです)。
 まだまだ進化していきたいですね。
 受講生たちにこんなことを伝えました。
「自分の殻(枠)を打ち破らなければ、つまり、限界を超えなければ、さらなる自分へと飛躍できないし、大きく成長できない。そのためには限界を超えること。そこまで勉強すること、そういう生き方をすることが必要である」(本日のテキストより)
 新しいサプリを創る。目標がまた一つ増えたようです。

思想家になるという夢

 ちょうど1週間前のことです。私の高校時代のことで、ふと思い出したことがあります。
 私は「思想家」になりたかったという事実です。
 ほとんど理解できないながらも、倉田百三や亀井勝一郎の著作、パスカルの『パンセ』などを読み囓り、いろいろと考えたことを文章にできる人になりたいと思った時期が、そうそう、たしかにあったのです。当時は、会社などの組織に入って仕事に就くということなど想像もできなかったので、また、生活するために、そして、家族のために「働く」ということがわからなかったので、自由に考えるだけで生きられる(生活できる=お金を手に入れられる)、そんな都合のよい未来を夢見ていました。今の高校生ならば、「ユーチューバーになる」という夢に近いでしょうか。
 そろそろ、生活のために働く必要もなくなるだろうから、思想家になるもいいかなと、ほんのりと考えるようになりました。詩人になる、ダンサーになる、に加えて思想家になる!です。相変わらず、いい歳をしてふわふわしている人間です。
 そのような生徒がいたならば、「もっと地に足をつけて生きなさい」とアドバイスするでしょうが、私の場合はすでに十分に働いてきたのだから、道楽のようなもの。年寄り相手では、「好きにしなさい」とあきらめるしかありませんよね。
 調べてみると、英語では「thinker」と言うようです。結構単純ですね。広辞苑では「思想が深く豊かな人」。これも至って簡素な定義です。
 そこで安易にもスマホで検索すると、〈デジタル大辞泉〉には「社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人」とあります。発表の場を持たなければならないし、他に悪い影響を与えてはまずい。思想家はやめとこうかな、としばし躊躇してしまいました。
 さらに、〈ウィキペディア〉を見ると、「様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人」とあります。この定義では発表しなくていい。試みるだけでいいのですから、私にもなれそうです。それにしても含蓄のある定義ですね。「熟考し、あるいは問うて答えるため」というくだりに鳥肌が立ちました。
 そこで、まさに熟考して、「思想家として生きる」ことを始めてみようかなと思い立ちました。
 「思想家として生きるとは、熟考して得た思想を生き方として示すこと。つま、行動することである。それを『実践』ともいう」
 私なりの定義を考えてみました。
 そんなことで、このメッセージも最近、少々理屈っぽくなりました。しかし、思想とは熟考したものですから、考えが「熟れ」て、広辞苑の「思想が深く豊かな人」という定義のように、簡素なわかりやすい言葉で表現されてしかるべきです。もっと勉強します。
 私は、開校以来、生徒たちに「哲学」を教えてきました。もしかしたら、高校時代の夢が叶っていたのかもしれません。自分の学校をつくる、自分の本を出版する。中学・高校時代の夢を開智未来で叶えてきした。
 「また一つ叶えたよ」。昔の自分に報告したいと思います。
 さて、もうすぐ新年度が始まります。
 悪い影響を与えないように、身や言葉や行動を正しくして、思想を深く豊かにして、来年度の「哲学」の授業に臨みたいと思います。

感謝の単語カード

 卒業式から一夜明け、今日は中学3年生たちによる「感謝の会」がありました。
 開智国際大学の卒業式と重なってしまい、そちらに出席するため、彼らの進級式に出席できなくなってしまいました。そこで第6期生の進級を祝う詩を書き、その会で読み上げることにしました。
 ☆  ☆
完成と名づけられた子たちへ-中学卒業を祝って-

完成と名づけられた子たちよ
完成年度である6年目の年に入学したことで
喜びのあまり
ふと「完成」という名を与えてしまった

そのとき君たちに
とまどいの夢を投げかけてしまったのかもしれない
いつしか君たちに
手に負えぬ宿命を与えていたのかもしれない

完成とは逃げ水を追うようなもの
目指した地点は、近づけば先へ先へと進み行く

完成は目標ではあるが到達点ではない
それは終点のないベクトルであり
形状のない価値そのものである

完成と名づけられた子たちよ
宿命は君たちをつねに試しつづけるだろう
振り返ってみよ
「再生」の子らが
「完成」の君たちのあとに続いている

願わくば
たどり着いた地点にその両足で立ち
合図の口笛を吹き
その3メートル先をそっと指さし
「完成は未完、未完は完成」と
此の地と彼の地をつなげる呪文を唱えよ

あとに続く者たちのため
さきに生きた者たちのため
 ☆  ☆
 感謝の会の最後に、生徒たちからプレゼントをいただきました。91名の生徒一人一人が、担任や私など関係してきた先生方それぞれに、カードの表面には感謝の言葉、裏面にはその先生のよいところを書き、リングで1つにまとめた、いわゆる「感謝の単語カード」です。
 「開智未来をつくってくれてありがとう」「顧問のいいところは生徒想いのところです」。少々こそばゆくて照れてしまいますが、勇気や元気が湧いてきます。鞄の中に携帯し、辛いときや悲しい時など読み返したいと思います。
 心優しい子どもたちです。ありがとう。嬉しいです。
 さて、同じ時間帯でこれから入学する高校生たちのプレ登校がありました。
 進級生たちと入学生たちがこれから同級生となって、切磋琢磨し、大きく成長していくでしょう。
 4月が待ち遠しいですね。

続・卒業式

 卒業式が終了しました。開智未来らしい、いい卒業式でした。
 卒業する高校3年生たちの「顔」がいい。
 これが開智未来ですよね。
 さて、顧問として私も祝辞を述べました。校長ではないので、少しは勝手なことを言ってもいいかなと思い、強い表現の言葉を使ってみました。一部を再現します。
 ☆  ☆
 見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。
 それは、自らの外にあるもの、内にあるもの、共にである。
 それが「自律と正義」である。
 成長しつづけよ。
 ああいう人だと固定されるような人間になるな。
 人の評価を超える人になれ。
 人の評価を得ようと躍起(やっき)になるくらいなら、自分で自分を評価できる人になれ。
 これには2つの意味がある。
 一つは、評価されるほどの人間になること。
 もう一つは、正しく評価できる人間になること。

 もう少しばかり、年寄りの僻事(ひがごと)を聞いてくれ。

 どんなに小さなことでもいい、どこかの領域で「自分が最高」と思える人になってほしい。
 自分の生きる意味を自分で見つけられる人になってほしい。

 私はこのような立派なことを言える人間ではない。見てのとおりだ。
 自分にこそ言い聞かせている言葉である。
 君たちとは、あと少しの刹那、この世界で、同じ時間をそれぞれ過ごすことになる。
 たがいに開智未来に関わった者として、それぞれ生きていくことになる。
 出会うことがあったならば、新たな人間となって、初対面の如く再会しよう。
 ☆  ☆
 「見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。」という表現は、最後まで使うべきかどうか悩みました。「醜い」という言葉は少々刺激的です。もしかしたら差別的と勘違いされないか。そんな不安も持ちました。
 詐欺で老人から大金をだまし取る詐欺者、わが子を虐待する親。ニュースを見ると醜いものばかりです。見苦しい言い訳、見苦しい誹謗が私たちのまわりに充満しています。これらは断固として拒否せよ。それが正義であろう。
 これからは自分で考え、自分で責任を持って、正しく生きよ。「自律」の妨げになる、自分の幼児性や甘え、そして、大人の過保護や度が過ぎた「ものわかりのよさ」等々。こういう「まとわりつくもの」を振り払え、と言いたかったのです。
 「頑固ジジイ」「因業ジジイ」と言われそうですね。
 それにしても、卒業する高校3年生たちの「顔」がよかった。
 年をとってもそういう顔でありつづけてほしいと願っています。卒業おめでとう。

卒業式

 明日は卒業式、今日は予行。毎年のことながら、学校全体が異空間に感じられる時である。私にはそう感じられる。
 今年は顧問なので、式辞のプレッシャーはなくて気が楽だが、中学入学生は6年のうちの5年、高校入学生は3年のうちの2年は、校長であった。どうしても、卒業生たちは開智未来に入学して幸せだったのか、と自問してしまう。そして、責任を感じてしまう。
 卒業の日は、3年間・6年間の思い出が語られる、特別な一日である。「走馬燈のように」とは、少々陳腐で古くさい表現だが、なるほど、ぐるぐると回る紙のスクリーンに映し出された幻のように、過去のことが次から次へと思い出されてくる。
 そのうちに、過去がのしかかってくるようで、私はときどき息苦しくなる。
 私の高校の頃を思い出すと、私は卒業式後、はやく学校を立ち去りたかった。次の未来の方に心が移っていたからである。過去との付き合い方が下手な性分なのかもしれない。
 過去はまぼろしではない。過ぎ去ったことではあるが、確実な堆積物である。未来は未だ来ぬもの。事実ではない。しかし、卒業の日は、この地層となった3年間・6年間に引けを取らぬほどに、未来はあたかも事実のように輝く。過去と未来が共存する不思議な一日である。
 未来をつくるには充実した「事実たる過去」が必要だからか。
 それとも、未来へ先走りをするのを押さえるために「ゆらめく過去」を振り返るのか。
 明日は過去と未来に圧倒されて、今の気持ちを伝えられないかもしれないので、先走って、卒業おめでとう、と卒業生たちにこの場を借りて伝えたい。そして、2年間・5年間の気持ちを込めて、卒業生の皆さん、そして、保護者の皆様に、卒業ありがとう、と記したい。

うつしよ

 現世の疾きものかな。
 朝から詠嘆と言える感慨に浸っています。 
 開智未来の開校まであと3週間を切り、翌日に併願の高校入学生の入学説明会および中学入学生の事前登校日を控えていた、ちょうど8年前のことでした。はやい(疾い)ものですね。
 大地が激しく揺らぎ、街の信号機は消え、電車は途絶え、私はこの学校の開校ができるのかと、南面の窓に駆け寄り、埼玉大橋の存在を確認しました。今でもリアル(現実的)に思い起こすことができます。この頭の中の映像は過去のことではあるが、現実の私のなかに「像」として残っています。
 現世(うつしよ)とは不思議な言葉ですね。今、この時という現実を指す言葉であると同時に、いつか幻と消えゆくはかなさも含意しています。
 この日本が絶望のどん底にあるときに、「未来」という名の本校が誕生しました。機会あるごとに話していることですが、私は一つの宿命のようなものを感じて、この8年間を過ごしてきました。
 未来を創る学校でなければならない。
 未来を担う生徒を育てなければならない。
 使命感、責任感、重圧、足かせ。そして、その使命を果たせていないという申し訳なさ、後ろめたさ。複雑な感情が、ずっと足もとに絡みついていました。
 一方で、日本中を覆った絶望の中で、新しい日本が、そして、新しい日本人が芽吹くものと、不遜ながらひっそりと思っていました。その思いを開智未来に重ねてきました。
 8年経った今、私たちは新たな知性を獲得したのでしょうか。新たな社会を創ってきたのでしょうか。新たな教育を求めてきたのでしょうか。そして、私は校長としてやるべきことをやっていたのでしょうか。
 過去を思い出すのは、ノスタルジーからではない。それが事実だからである。過去を事実として確認しないから、私たちは現世を彷徨(さまよ)ってしまうのだ。
 現世の疾きものかな。
 尻切れトンボのメッセージとなってしまいました。
 亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

ヨクミキキシワカリ

 昨日は、大学を取り巻く状況を知ろうと、「私立大学等改革フォーラム」に参加してきました。会場は四谷にある上智大学でした。
 何事もねらいをもって行動する。
 生徒たちに教えているように、参加に当たって、2つのねらいを設定しました。
 1つは、よく見聞きし分かること。これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ヨクミキキシワカリ」をもじったものです。よく聞いて、よく見て、そして、よく理解することです。
 2つ目は、読みやすい文字でメモを取ることです。私の字はあまり読みやすいものではありません。現在、その改善に向けて、少々ゆっくりでも読みやすい丁寧な文字を書こうとしているところです。
 現在、高等教育(大学教育)の改革については、文部科学省がかなり力を入れています。文部科学省が直接補助金を配当するので、かなり強く要求できるからでしょう。小・中・高校よりもずっと急激な改革が進められています。
 AP、FDという見慣れぬ記号は、意味をもたない符丁にしか見えません。
 コンソーシアム、プラットホーム、コンピテンシー、ディプロマ・サプリメント等々。
 うーん。よくわからない。横文字が飛び交い、話し手はその用語に意味を見出しているのかと、やっかみ半分、訝ってしまいました。
 なんと私は無知な田舎者なのだろう。やっぱり先端の世界は違うなあ。
「よく見聞きし分かる」ことは大変なことである。そこで、自分を鼓舞するかのように、帰りの湘南新宿ラインの電車の中で、「ヨクミキキシワカリ、ヨクミキキシワカリ」と何度も呟きました。「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」。強がる気持ちからでしょうか、いつの間にか、「雨ニモマケズ」を心の中で諳んじていました。

あえてゆっくりと

 あえてゆっくりと考える。ゆっくりと読む。
 別に、加齢ゆえの現象ではなく、意志としてゆっくりと行動するようにしています。すると、深く考え、深く読めるようになってきました。
 かつては「切れ者」であることを望み、「愚鈍」であると思われないようにと、頭の回転のよよさを追求していましたが、60歳を超えたのでそのように思われてもいいかな、という気持ちもあり、「ゆっくり」を自分に言い聞かせて生きるようにしています。
 ゆっくりと聞く。ゆっくりと話す。ゆっくりと見る。ゆっくりと食べる。ゆっくりと散歩する。
 急かない、焦らない、短気にならない。時々、足を止めること。
 昨日のメッセージにも、ニーチェの引用をしましたが。「じっと待つ」ことも大切ですね。
 もちろん、高速も必要です。高速で処理する。高速で対応する。高速で逃げる。
 特に、回避するのは高速でなければなりません。高速で処理するからゆっくりの時間が生まれるわけですから。
「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」
 昨日示したニーチェの言葉です。
 昔、車のエンジンかあまり発達していなかった頃、低速で運転しているとエンジンかエンストすることがありました。
 ゆっくりとできる力量を年相応に持ちたいものですね。

40年前の自分との対話

 「読解力・言葉力・日本語」を真剣に考えるようになり、また、勉強・研究するようになって約50日、最近は言葉に敏感になってきました。
 昨日、西尾幹二氏の『ヨーロッパの個人主義』という本を紹介しましたが、学生時代(なんと40年も前!)の同時期に読んだ、同氏の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を本棚から発見しました。
 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より、p.7)
 パラパラとページをめくると、こんな言葉が目に飛び込んできました。
 うーん。すごい言葉ですね。若い頃にはこの言葉の意味が分からなかったようで、赤の線は引いてありませんでした。自分というものは、歳を重ねるにしたがってその質量が増してくる。最後には自分としてしか世界を味わえないという諦め。このようなことをこの言葉から感じられるほどに長く生きてきたのでしょう。
 「個性は決して主張するものではなく、意図せず自然ににじみ出てくるものでなければならない」(p.118)
 ここには赤線が引いてありました。本を読み直すと、自分の来し方を振り返ることができますね。
 言葉に敏感になるということは人間に敏感になるということ。
 言葉に敏感になるということは自分に敏感になるということ。
 ふと、そんな言葉が浮かんできました。じっくりと考えられるようになったからでしょうか。
 「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」(p.114)
 おいおい、お前はどんなつもりでここに赤線を引いたのか!
 40年前の自分に尋ねてみたいところです。

生身

 昨日は週休日で、しかも、いい天気だったので、3時間半ほどサイクリングしました。春の香りがしてさわやかだったので、52キロメートルと、久しぶりにしては少々長い距離をこいでしまいました。
 自分の力で長い距離を走れることが、自転車のいいところです。もちろん、徒歩では10数キロが限界なので、自転車というテクノロジーを活用しているのですが、車と違って動力は自分の肉体です。自分の力で動いていると、車に乗っていては見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを五感で味わうことができます。そして、精神がいきいきと蘇ってくるような心持ちになります。これが生身の素晴らしさですね。
 話は変わりますが、昨日から、『個人主義とは何か』(西尾幹二著、PHP新書、2007年)を読んでいます。実は、この本は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)として出版された本の復刻版です。学生時代に読んだことを覚えています。前日、本屋で『個人主義とは何か』を見かけて購入し、再読しているところです。最近、昔の文章ばかり読んでいますが、時間に磨かれた文章は滋味ゆたかで、読み込めば読み込むほど、その深さに気づきます。
 読書ノートに抜き書きした部分を一つ紹介します。
 「ヨーロッパの技術文明は、自分の意志(ママ)で着たり脱いだりすることのできる衣裳ではない。いったん着用におよべば、着た人の身体ばかりではなく、その魂までをも変形させる不気味な力を持ったものなのである」
 明治維新、そして、戦後の欧米文明の導入について述べた文章です。ここで書かれている「技術文明」を「テクノロジー」や「ICT」、または「スマホ」に、さらには、「自動車」や「AI」に置き換えて読んでいます。
 最近、私は散歩や自転車がお気に入りです。

読解力

 昨日は、昼頃から生憎の雨になり、残念ながら馬鈴薯の種芋を植えることができず、その結果、地に足をつけるという「倫理的」な営みができませんでした。そこで、「晴耕雨読」という素敵な日本語に寄りかかって、本を読み続けました。
 さて、今日は、昨日読んだ『20歳からの〈現代文〉入門』(中島克治著、NHK生活人新書、2016年)から、いくつかの文を紹介したいと思います。私の拙い文章や考えより、良い本には良い言葉や文章や考えがたくさんあります。時には、「思想」という貴重な宝物も見つけることができます。私は目利きではないので、果たして私の選び出したものが「宝玉」かどうかは不明ではありますが、ご賞味ください。
 ただ、生徒たちに「読む力」を育てるのは大切だということ、そして、私たち大人も「読む力」を付けなければならないことを、一言付け加えておきたいと思います。
 「本を読む行為の中に、主体的な取り組みや模索を改めて組み込めないだろうか」「読んだ作品の、本当の価値の中に歩み出す」(読解という行為はただ意味を読み取るにとどまらず、そこから得たことをいかに生きる行為の中に組み込むか、そのことが大切だということだと私は理解しました)
 「私たちが本当に満たされるのは、自分がどのような人間なのかをつかんだ瞬間、そして、自分の心と他の人の心が通い合った瞬間です」(幸せとは何かを考える上で参考になりました)
 「今のインターネット上には情報があふれ、いいものも悪いものも嘘もまぜこぜになったような文章が氾濫しています。そんな『情報の洪水』に流されてしまわず、自分らしく生きるために必要なのが『読解力』である」(私も心からそう思います)
 「『現代文』のさまざまな文章を深く理解できる者は、さまざまな場面において、機敏に、そして慎重に対処するのです。また、人の輪の中にいて、率直に自分を表出し、人を共感させる力さえ発揮することができるのです。むしろ、悩み多き者とすらいえます。しかし、彼らはとても人間的で、自分の弱さをさえ直視しようとします。苦境を切り抜けるのに、小説的世界を重ね合わせたり、評論的なアプローチを行ったりしつつ、時には友人や教員を頼ることができるのです」(実は中島氏は私立中高一貫校の教員です。生徒たちをよく見ている先生ですね)

倫理的拒絶

 昨日のメッセージで、亀井勝一郎氏の『日本人の精神史』からの引用を、ひとつ忘れていました。
 「拒絶の政治的ポーズの大きさに比べて、拒絶の倫理的深さがない」です。
 とても重要な箇所です。日本人の抵抗というものが、たんに政治的な抵抗、しかも、ポーズに過ぎないとし、さらに、倫理的な抵抗がないという趣旨でしょう。「倫理的深さ」という言葉も洗練されていていいですね。
 今般、起業のデータ改ざんや偽装のニュースが頻繁に報道されています。これだけ掘れば出てくるような状況ということは、きっとそのあたりの土地のあちこちに埋まっているのでしょう。
 この問題には、法令の網の目をかいくぐり、見つからなければよい、という日本人の意識があると私は思っています。見つかろうとなかろうと、「狡いことはしてはならぬ。ごまかしはならぬ。卑怯はならぬ」という倫理観が日本人からなくなっているのです。
 集団で一人をいじめる。これは卑怯な振る舞いです。それは「いけない」と禁止されるものである以上に、倫理として「行ってはならぬ」と一人一人が「抵抗」しなければならない、まさに「思想」に関わることなのです。
 このような「倫理的な抵抗」が日本社会から消えつつある。すでに昭和30年代前半の文章で訴えられているくらいですから、その後半世紀以上経ったこの日本では消滅してしまったのかもしれません。
 最近、「企業倫理」という言葉に変わって、「コンプライアンス(compliance)」という横文字をよく見聞きします。この英単語は「法令に従うこと」という意味です。そこには「倫理」の意味は含まれていません。私は、この変化は単に流行というものではなく、意図的に使われているのだと邪推しています。「法令に従っていればよいのさ」。そんなふうに聞こえてきます。
 教育という人間の営みにおいては、「コンプライアンス」で処理することは、けっしてあってはならない。少々息ばりすぎでしょうか。少なくとも、「それでも開智未来生か」と生徒たちにも言えるように、私自身も、損得論に陥ることなく、「倫理的抵抗」を感じる感性と思想を持ちたいと思っています。
 今日も時代遅れになってしまったようです。
 曇天の日曜日、私は馬鈴薯の種芋を植える予定です。地に足をつけた、これも「倫理的」な営みだと直感しています。「倫理」には「人間」という概念が寄り添っているからです。

時代遅れ

 今日も亀井勝一郎をゆっくりと読んでいると、彼の言っていることが身にしみて分かるようになった自分を発見しました。
 高校時代、彼の『愛の無常について』や『我が精神の遍歴』を読んだことを思い出しました。その頃は、匂いを嗅ぐ程度しか読めていなくて、ほとんど意味が分からなかったため、それらの本の内容をまったく思い出せません。きっと何も得ることはできなかったのでしょうね。でも、匂いを嗅いだという経験は私を成長させたはずだと、昔の自分をかばいだてしたい気持ちもあります。
 「私は『思想』を『思想』たらしめる原動力のひとつは、拒絶の大きさだと思っている」「現代人である我々は、遺憾ながら深い拒絶を失っている」「我々は『ものわかりのよさ』と『あいまいさ』の中に漂っている自己を嫌悪しているのだ」
 自分には軸となる自らの思想がない。私が20代の頃からずっと抱いている感情について明確に書かれています。
 亀井氏は、「日本の思想」をつくる糸口を「日本人の精神史」に見出そうとしたに違いありません。この四部作を読めば、40年にわたる自己嫌悪を消し去ることができるのではないか。そんな期待を抱いています。
 さて、この文章は昭和30年代前半、私の生まれた頃に書かれたものです。「現代人である我々」の「現代」とは60年前のことです。自分の生まれた頃に書かれたことがまったく古くさくなく、亀井氏と対話するように読むことができる。
 救われた気分になります。亀井氏と知人になった心持ちです
 不勉強で能力がなかったため、今頃になってやっとわかり始めてきました。
 遅ればせながら、現代日本の不毛さに抗いながら、生徒たちに大切なことを伝え続けたいです。
 時代遅れと思われそうですが、時代遅れとは時代に遅れることではなく、時代を遡って過去と語り合うことだと考えれば、素敵なことですよね。
 やはり、読むという営みは、ゆたかな精神活動に違いありません。

読解力

 約40日ぶりのメッセージです。
 この「顧問感覚(コモンセンス)」は終了したのかとの質問を何度か受けましたが、執筆を開始できるほどに充電するまで時間がかかってしまいました。
 さて、この間、「読解力・言葉力・日本語」について勉強をしていました。日本人の「読む力」が弱まっているのではないかと感じたからです。もちろん、私も入ります。そこで関連した文献を読み、考え続けています。その範囲は、言語学、哲学、認知科学、脳科学、仏教、日本史、漢文、古文、現代文、英語、教育学など、かなりの広がりをもっています。
 文献を読みながら思ったことは、私自身、読解力がないということです。わからない言葉もありますし、何を言っているのか難解なところもたくさんあります。資料をたくさん読もうとして、速く読んでいると、あいまいなところをとばし読みしたり、浅く考えて分かったつもりになっていることがわかりました。
 そこで、じっくりと、というより、意識してゆっくりと読むことにしました。はっきりと分からないところでは立ち止まり、必要に応じてノートを取るようにもしました。自分自身の読解が「読解の実践」となっています。
 今読んでいるのは、『文学に現れたる我が国民思想の研究』(全8巻、津田左右吉著、岩波文庫)と『日本人の精神史』(全4巻、亀井勝一郎著、講談社文庫)です。津田左右吉氏の本は大正5年に書かれた本で、私が30歳の時にいつかは読んでみたいと思って購入した本です。かなづかいは当時のままで、漢字は新字体を採用しているとはいえ、ルビはなく、けっして読みやすいものではありません。漢字熟語などは今は使われていないものもあり、広辞苑や漢和辞典を引きながらの読解です。昔の人は旧字体で読んでいたのですから、日本人の日本語力は衰退したものです。
 亀井勝一郎氏の本は、大学生の時に途中まで読み始めた本です。40年ぶりです。読みながら思うことは、最近の本と比べて中身が濃いということです。途中、古事記からの引用などもあるので、まるで古文です。共に、日本人の考え方を古文時代から分析しており、1か月くらいかけて読み込んでいこうと思っています。
 私は無学だったと、今、つくづく思っています。
 今からでも遅くないと、ゆっくりと本を読み、じっくりと考え、確かで深い言葉で自分の考えをまとめていこうと決心しました。その成果を、このメッセージでお知らせしたり、「哲学」の授業に役立てられたらと思っています。
 明日も頑張って書く予定です。よろしくお願いします。

生きている実感

 高校3年生のセンター試験、そして、中学校入試全日程を終え、新たな週を迎えました。
 高校3年生諸君、中学受験生の皆さんは全力を出せたでしょうか。人生は続きます。まずは一歩、さらに一歩と前に向かって力強く進み続けてくださいね。
 さて、私の方ですが、合格祈願走(歩)では約17キロを踏破しました。その日の夜から膝が痛み、今も歩行に支障が生じています。
 歳は取りたくないものです。
 しかし、その痛みが生徒たちが直面している現実に、ささやかながらも私も関わっている証に感じられます。
 苦痛や絶望、焦りや緊張こそ、生きている実感。ものごとはマイナスに捉えるのではなく、プラスの意味で受け取るべし。
 苦闘している受験生に伝えたいと思います(自分に言い聞かせていることでもあります)。
 さあ、これからです。がんばれ!

祈り

 明日は、センター試験の初日、そして、開智未来の中学入試の最終日。開智未来に関わる様々な人の、様々な思いが注ぎ込まれる一日になります。
 大学入試を経て、3月に開智未来を卒業していく高校3年生たちには、センター試験で自分のもっている力を発揮してほしいと思います。明日は大学入試のスタートでこれから1か月を超える、自己との戦いが始まります。本日の集会で話しましたが、「立ち向かうこと」と「無心になって(問題を解くことに)没頭すること」が大切だと私は考えます。彼らが、一人で生きることを開始する瞬間です。開智未来を選び、3年間または6年間をここで過ごしてきた開智未来生よ、頑張れ!
 それに対し、中学入試は探究型入試も合わせると6回ある入試の最後となります。これまで落ち続けた受験生もいると思いますが、最後まで立ち向かってほしいと思います。最後まであきらめずに戦った者は、必ず何かを得ることができる。それは自信であり、自負心であり、納得であり、そして「合格」でありましょう。小学6年生でありながら、ひたむきに問題と格闘していた、未来の開智未来生の皆さん、頑張ってくださいね。
 さて、私は恒例の「合格祈願走」を実施します。10月のプレ合格祈願走で25キロメートル走って痛めた膝が完治していないので、歩くような祈願走になりますが、開智未来に入学してくれた君たちへの、お礼と感謝の気持ちで湯島天神から草加駅までの15キロを走破したいと思います。この合格祈願にはH3学年主任の寺岬先生と伊東先生も参加します。特に伊東先生は春日部市の試験会場まで走る予定です。
最後まで開智未来中学に受験してくれた皆さんにお会いしたいので、草加駅から電車で柳生駅に移動し、12時には学校に到着したいと思っています。これから開智未来を飛び立つ受験生、そして、これから開智未来で学ぼうとしている受験生のために、それぞれの思いを感じ取りながら、走って(歩くように見えるかもしれませんが)きたいと思います。
 戦うのは受験生。私たちにできることは祈ることだけです。
 開智未来に入学してくれてありがとう。開智未来を目指してくれてありがとう。走りながら祈り続けたいと思っています。

一夜明けての夢

 昨日、第1期中学入学生の「成人式の集い」がありました。
 成人式後の集まりは、地元の出身中学校ごとに行われることが多く、中高一貫生にはそのような場がないことから、同窓会を兼ねて大宮に集まりました。参加者は約7割。教職員も7名が集まりました。
 中学入学生は説明会や入試からの付き合いで、小学生時代の姿も知っています。12歳の頃の面影を、目前の二十歳の彼らに見出しながら、ビールを飲み交わしていると、まるでわが子と対面しているような気分になりました。
 まだ学校が完成していない頃から、各地でサプリを行いながら説明会を実施し、5人、10人と集まった親子を前に、開智未来の夢を語り、集まってきてくれた彼らです。
 彼らは開智未来に入学して幸せだったのだろうか。この学校を選んだことは誤りではなかっただろうか。
 校長として彼らを迎えた者として、ずっと自問してきたことです。顧問となった今でもその自問は続いています。学校を開いた校長として、これからもずっと背負っていく問いでありましょう。
 こうやって多くの卒業生たちが来てくれたのだから、きっと彼らはこの学校を選んだことを悔やんではいないに違いない。
 帰りの電車の中で、第1期生たちからいただいた花束を見つめながら、そんな希望的観測を反芻しました。
 これまで高校入学生も含め、多くの卒業生がこの学校で大切な時期を過ごし、巣立っていきました。今年の3月には第6期高校入学生と第3期中学入学生が卒業します。
 開智未来がどんな学校であるか。それは卒業生たちの未来の姿によって決まるでしょう。大人になった彼らの未来こそが開智未来である。そんなことを考えながら、いつしか、彼ら自身が開智未来の教員として、また、彼らの子どもたちが開智未来生として戻ってきてくれることを、一夜明けて、夢みています。

未来の足音

 中学入試2日目。今日は午前中は「探究型入試2」、午後は「未来A入試」です。
 昨日よりも温かい朝となりましたが、強い風の中、85名の受験生が開智未来に集まってきました。
 さて、昨日の合格発表では、合格発表サイトへのバナーを貼った本校ホームページへのアクセスが集中し、サーバーがダウンしてしまいました。すぐに志願者の皆様へはメールにて合格発表サイトのURLをお送りさせていただきましたが、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
 8年前のこと、本校初めての、第1期生の第1回入試においても同じことがありました。その時は本校のホームページ上で合格発表をしたのですが、やはりアクセスが集中して、ホームページ自体が壊れてしまうという事態になりました。第1期生たちの、新設の開智未来への思いが強かったからでしょう。深夜午前2時まで当時の加藤教頭と西木広報部長で対応したことも今では懐かしい思い出です。その後、現在のように合格発表サイトを通して無事に発表をしてきたのですが、今年度は、受験生が増加し、その熱い思いが臨界面を超えてしまったのかもしれません。新たな改善をしていきますのでよろしくお願いいたします。
 今、午前中の「探究2入試」が終了しました。多くの受験生たちは「ありがとうございました」と私に声をかけてくれます。素敵な子どもたちです。
 午後は「未来A入試」です。受験生の皆さん、頑張ってくださいね。
 強風の中、あらたな「未来」の足音が聞こえてくるようです。春が待ち遠しいです。

頑張れ、中学受験生!

 大変遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。
 最近、常套のフレーズになってしまいましたが、「久しぶりのメッセージで申し訳ありません」。文章を書いて公表するという緊張感に耐えられないほどの「身心度」になってしまったのでしょうか。深く反省する次第です。
 さて、今日から中学入試が始まりました。今日は、午前中に「探究1」入試、午後は「第1回入試」です。
 今朝は、氷点下の中、開智未来で受験生を迎えました。
 「おはようございます」。息を白くして挨拶をしてくれます。「頑張ってね」「ありがとうござます」。礼儀ただしい、そして、素直な受験生たちです。きっと第9期生もいい開智未来生になる。嬉しくなりました。
 あれから8年。
 中学第1期生たちは4日後、成人式を迎えます。開智未来の初めての入試のことを思い出しました。その後、こうやって毎年、挨拶を交わして受験して、開智未来生たちは未来に入学してきました。
 ここに未来がある。私の物語が始まる。
 やはり感無量です。
 未来の開智未来生の皆さん。これから続く、受験の日々を頑張ってくださいね。そして、ぐんぐん成長していってくださいね。
 もうすぐ午後の試験が始まります。受験生の皆さん、頑張ってください。応援しています。

久しぶりのメッセージです

 本当に久しぶりのメッセージです。
 ホームページが更新されて、メッセージを送信できるように調整するのに時間がかかたことも一因ですが、加えて、私が楽を覚えてしまったことも原因だと反省しています。
 何を書こうか。どんなことを書いたらこのメッセージを読んだ人のためになるだろうか。
 文章を書くことも大変ですが、それ以上に、何を書いたらよいかを考えることの方が難しい作業です。書くためには本を読んだりして勉強しなければなりませんし、成長しなければなりません。そういう意味で、このメッセージを書くことは日々の生き方が問われるので、楽をしたいと思ってしまったのでしょう。
 開智未来の開校前、つまり、8年前からこのメッセージを書き始めて、執筆が私の生活の一部となっているので、やはり、これを書かないと、大切なことをせずに1日過ぎてしまったという気持ちになってしまいます。
 生徒たちに負けないように勉強して、そして、少しでも成長して、メッセージを書き続けたいと思います。
 さて、今日は冬期講習の最終日。明日から本格的な冬休みに入ります。そして、新年を迎えることになります。これからもよろしくお願いします。