顧問感覚

コモンセンス

非薄味(薄味に非ず)

 今日は開智未来で、4つの学年の「哲学」の授業を行う日です。1時間目は中学2年、2時間目は中学3年、4時間目は中学1年、5時間目は高校1年です。
 それぞれ、気合いと思いを入れて授業をしました。
 「うざいかもしれないけれど、気持ちを入れて授業を行う年寄りを見るのも大事な経験です」
 自虐的かもしれませんが本音です。
 世の中がスマートになり、テクニカルになり、軽やかになりました。気合いや思いは「昭和」の遺物になりかけています。
 薄味で心地よい、とはほど遠い、胸焼けのするような授業かもしれませんが、子どもたちの心を少しでも揺さぶれればと考えています。
 多くの方に体調を心配されましたが、おかげさまで、元気いっぱいに授業をしています。

小宇宙

 7か月ぶりの疾走の残照(残傷)を身体に感じながら(たかが筋肉痛ということです)、昨日の体育発表祭の翌朝を迎えています。今日も朝から見事な快晴。昨日以上に暑くなりそうですね。
 昨晩から考えているのは、この体育発表祭に、生徒たちも保護者の方、教員たちも卒業生たちも、一人一人がドラマを持っていたということ、です。
 昨日、高校3年の女子生徒たちが、後輩の高校2年女子のマスゲームに拍手を送っていました。9回の体育発表祭で私が初めて聞いた、後輩への「思わずの拍手」です。彼女たちにどのようなドラマがあったか、私は知りません。しかし、何らかのドラマがあり、成長があったに違いありません。
 高校課程に上がる際に、他の学校へ外部進学した中学卒業生たちが遊びにきてくれました。かつての同級生たちの躍動を見て、どのように感じていたのでしょうか。私も頑張るぞと決意したかもしれません。ここにもドラマと成長があったはずです。
 わが子の激走する姿を見て、昔のことを思い出した保護者の方もいたでしょう。先生方も自分のクラスの経営、生徒とのこと。いろいろな思いがあって、この体育発表祭を振り返り、月曜日からのことを考えているにちがいありません。
 きっと数百、いや千以上のドラマがあったにちがいありません。
 人間は物語をつくり、物語に生きる生き物である。
 この世界は一人一人の物語によってなりたつ宇宙であり、開智未来も一つの小宇宙である。
 葡萄棚のある自室から、早朝というのに照りつける朝日に輝く、野菜や植栽を眺めながら、そんなことを考え続けました。
 開智未来に関係する皆さんにとって、今日も物語の一日でありますように。

熱中

 猛暑の五月空の下、最後まで生徒たちのエネルギーが尽きることなく、体育発表祭が終了しました。
 なぜ、子どもたちは夢中になって、文字通りの熱中を走り回るのだろう。
 そんなことを考えながら、生徒たちの姿に感動していました。
 私事ですが、昨年の10月に両膝を痛めて以来、ずっと走ることができませんでした。生徒たちの姿を見て、走れるような予感がして、スーパーエイジング走を走ってみました。320メートルを痛みなく走り切ることができました。
 生徒たちのエネルギーが作用したのでしょうね。
 これが「生」というものの正体を垣間見たような気がしています。

教育の原型

 木曜日は開智未来勤務の日。火曜日に予定されていた体育発表祭の予行が、雨により本日に変更されたため予行に参加することができました。
 元気いっぱい、嬉しそうに動き回っている生徒たちと同じ時間と空間を過ごせるということは、本当に幸せなことですね。
 約3時間半、太陽の光を浴び、新緑の風を浴び、生徒たちのエネルギーを浴びました。まさに、日光浴、森林浴、生徒浴。おかげで気力と体力が蘇ってきました。
 もっと頑張ろう。
 生徒たちが頑張っている姿を見ると、頑張ろうという気持ちになります。
生徒たちも、私たち教員が頑張っている姿を見ると、頑張ろうという気持ちになるのでしょうね。
 これこそが教育の原型であり、理想なのだろうと私は考えています。
 もっともっと頑張ります!

生徒の力

 今日は大学勤務の日なのですが、荒天の中、4時間半の通勤ができるほどの体調ではないため、また、教育研究所の仕事や「哲学」の準備もあるので、一日開智未来で執務をすることにしました。
 というわけで、5日ぶりに開智未来に来てみると、今週末に体育発表祭を控え、生徒たちは体育発表祭モードになっていました。この熱中度は開校以来の伝統ですね。
 放課後、体育館や教室を回ると各クラスとも熱心に、応援合戦や学年種目の練習をしていました。一人一人を見ると、皆いい表情をしています。
 これが学校だ。
 これが生徒だ。
 久しぶりに教員の心が蘇ってきました。
 教員という種族は、子どもたちのこの表情や姿を見るためにこの職を選んだのである(世間の人にはわかってもらえないかもしれませんね)。
 思えば、8年前、開校した頃は授業中や放課後、こうやって学校の中を歩き回ったものです。だんだんと生徒が増え、それに伴い仕事も増えて余裕がなくなり、机の前に座りつづけることが多くなってきました。
 これが教育だ。
 本当に久しぶりに新鮮な気持ちになりました。そして、元気が湧いてきました。体調もよくなりそうな気がしています。生徒の力ですね。
 さて、雨のため本日の午後に予定されていた体育発表祭予行は木曜日の午後に延期になりました。木曜日は開智未来勤務の日なので、私も久しぶりに体操服に着替えて、グラウンドに立っててみたいと思います。やっぱり、体調が戻ってくる兆しを感じます。

咳をして

 「こほこほと咳する 本を読む」
 尾崎放裁の有名な自由律俳句、「咳をしても一人」ほどの孤独感ではありませんが、咳はどうも人の意識を内側に向けるようです。戯れて一句捻(うな)ってみました。
 人間というものが、やっと少しばかり見えてきて、昔の人たちが必死になって、多分、周りの人からは狂っているようにみえるほど、夢中になって考え行動して、そこから沸(わ)き上がった言葉の結晶を、慈(いつく)しむように読めるようになってきました。
 そこでしばし考えました。
 夢中や熱中は人間の生き方としてはとても大切なこと。夢中になって勉強する、仕事に熱中している、等々。
 子どもの頃は、遊びに夢中になっている姿を人はほほえましく見守りますが、ある程度の年齢になると、手放しでよしとしない雰囲気が生じてきます。勉強や仕事であっても、「勉強ばかりして」「仕事ばかりして」とわずかばかりの非難が添加されます。
 なぜなのだろう。
 そんなことをしばし考えました。暇ですね。ちなみに「暇」をギリシア語で「スコレー」と言います。これはスクール(学校)の語源となっています。
 実は夢中や熱中は我を忘れること、つまり、そこに「狂」というものがあるからなのでしょう。それが私の仮説です。
 狂が認められない、さらに許されない時代になりました。酔狂などは死語になりつつあります。たぶん生徒たちには伝わらないでしょう。
 「歌舞伎」という言葉の元となっている「傾奇(かぶき)」は、異風を好み常識を逸脱した行動に走る者のこと。「狂言」にも「狂」という字が含まれています。共に格式ある伝統芸能となっています。絵画というものは画家が夢中に、ときには狂となって描いたものでしょう。しかし、その「狂」の結晶が、美術館に整然と、あたかも理性の代表のように配置され、人々はそれを理知的に観賞しています。美術館の静けさ、厳かさは狂とは対照的なものです。
 1年ほど前のメモートにこんな言葉が記されていました。
 「正常な狂を許さないのは、一般大衆の正常という狂である」
 私は、常に夢中になって生き続けたいと思っています。
 だめ押しのお粗末な句を一句。
 「現世(うつしよ)の 夢中に居りたし 哲学者」

語り継ぐ

 昨日から『代表的日本人』(内村鑑三著・鈴木範久訳、岩波文庫)を読んでいます。
 この本は、『日本及び日本人』の題で1894年に公刊された書物の改訂版で、書名を変えて1908年に英文で出版されたものです。先日、「BOOK・OFF」で108円で購入しました。
 内村鑑三と言えば、日本におけるキリスト教の発展に尽くした人で、日本史の教科書にも載っています。受験知識としては、主著『余は如何にして基督信徒となりし乎』、教育勅語不敬事件、札幌農学校でのクラーク博士からの感化、日露戦争における非戦論、「2つのJ(JesusとJapan)」などを覚えることになります。
 彼の基本思想は、日本及び日本人には世界に誇る偉大な良さがある、その良さはキリスト教の考えと通じる、というものです。その考えが「2つのJ(JesusとJapan)」であり、この『代表的日本人』の底流にあります。
 彼は日本人の良さを世界に発信しようと英文で本を書きました。しかし、日清戦争における日本の世界への拡大が、本来の日本の良さに基づくのではないことを知り、その後日露戦争では非戦論を主張することになります。
 この本に示された代表的日本人は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人です。読んでいると、内村鑑三も含め、かつての日本人の気骨や精神の気高さを感じます。
 「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実の関係と同じとみます」(p.67 )
 私も、その精神の微塵ぐらいは培い、生徒たちに示し、伝えていかなければならない、と反省させられます。
 さて、「BOOK・OFF」で本を購入したときには気付かなかったのですが、最初から最後まで、各所に緑色のマーカーが引いてありました。きっと店員も見過ごしてしまったのでしょう。書き込みはしてなかったものの、これほど各ページにわたって丹念にマーカーが引いてある本を買ったのは初めてです。
 しかし、ある方がこの本を隅から隅まで読んで、何かを学び取ったあとを眺めながら読むと、。読みづらさはありますが、嬉しい気分となり、読む気力を高めてくれます。私の方は、赤の色鉛筆でもぎ取りながら読んでいます。マーカーのないところをもぎ取ったり、マーカーが引いてあってももぎ取らなかったり、ときどき、緑の上に赤が引かれて深みのある色が出現したりしています。
 内村鑑三を通じて、何かが語り継がれているような気分です。
 お前は何を語り継いでいるか。
 内村鑑三の声が聞こえてくるようです。

ボランティア除草

 本日の午前中、保護者会の役員の方が中心となって行う「ミニボランティア除草」があります。5月25日に実施される体育発表祭に向けて、校庭を整備するという趣旨です。8月25日には「ボランティア除草」があり、こちらは全ての保護者の方から参加者を募ります。8月31日に未来祭を控えての除草です。
 本日は午前中が開智未来、午後が大学という日なので、このボランティア除草に参加しようと思っていたのですが、明け方から体調がすぐれず、参加できません。この場をお借りして、お詫びと、直接言いたかったお礼を申し上げたいと思います。申し訳ございません。そして、ありがとうございます。
 「ボランティア除草」と名付けられていますが、この除草はまさにボランティア(自発的)なものとして始まりました。
 今から8年前になりますが、開校年度のことです。まだ中学第1期生と高校第一期生しかいなくて、教員の数も今よりずっと少なくて、また、開智未来の校地が統廃合となった旧県立高校で、たしか2年間ほど手を入れていなかったこともあり、草が各処に目立つ状態でした。
 そんな折り、朝学校に出勤すると、保護者の方が草を取っているという情景を度々目にしました。
 お礼を言うと、「こちらこそうちの子がお世話になっているので」「孫が元気に学校に行っているお礼です」と言われました。
 昔々の小学校で、先生へのお礼ということで、家で採れた野菜をもっていった、という話を聞きましたが、そんな牧歌的な雰囲気でした。
 「開智未来には寺子屋のような香りがする」
 開校当時、塾の先生から言われたことです。
 さて、そんな雰囲気の中で、発足したばかりの保護者会がこの「ボランティア除草」という企画を開始しました。取っても取っても草が取りきれず、校庭の西の隅に、山積みになっていったことを思い出します。
 開智未来は手作りの学校、という想いが皆の中にありました。その伝統が受け継げられて、今日に至ります。
 今日は参加できなくてどうもすみませんでした。体調が直ったら、私も草取りをして開智未来にお礼をしたいと思います。
 本日参加の保護者の皆さん、暑くなってきましたので、熱中症にはお気をつけてくださいね。

『君たちはどう生きるか』その2

 今日は大学勤務、ということで、野田線アカデメイアで『君たちはどう生きるか』を読み続けました。
 主人公のコペル君は旧制中学の2年生で、15歳の男子生徒です。
 次の部分を赤でもぎ取りました。
 「『汝自身を知れ』とか『己を顧みよ』とか、こういう文句には、考えてみると小学校以来、もう何度もお目にかかって来たことか知れません。……コペル君も、とうに知っていました。もし、この文句を記して『右ノ句ノ意味ヲ説明セヨ』なんて問題が試験に出たら、今までだって、立派に満点を取って見せることが出来たでしょう。しかし、言葉だけの意味を知ることと、その言葉によってあらわされている真理をつかむことは、別のことでした」(p.272)
 当たり前のことではありますが、その当たり前のことに、人間というものの深みや面白みを感じてしまいます。
 往きの電車では、私の隣の席で、中学生とおぼしき男子生徒がずっとスマホゲームに興じていました。
 開智未来生には、真理をつかむ人間になってほしいと、いつも、心から願っています。

『君たちはどう生きるか』

 月曜日は、午前中は大学、午後は開智未来の2つの勤務場所の日。通勤時間と移動時間で5時間以上費やすハードな日です。
 昨晩ふと手に取った『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著、岩波文庫)に引き込まれて、プラットホームで電車を待つ時間も含めて出勤・移動時間があっという間に過ぎました。しかも、至福の時間となりました。
 昭和10年、日本が戦争への道を突き進んでいた時に、このような作品が書かれたのは奇跡のように思われます。
 「空には月が、相変わらず怒りもせず、笑いもせず、嘆きもせず、静かな顔つきで、屋根を越え、電信柱を越え、欅の枝をくぐりながら、二人といっしょに歩いていました」
 なんと美しい擬人表現なのでしょう。このように詩人の感性を持ちながら、一方で深い思索が随所に光っています。
 「君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおい知って来るだろう」
 陳腐な表現ですが、現代日本の私たちが失った「精神文化」や「倫理観」がこの本の中にあります。
開智未来生に是非とも読んでほしい本です。そして、読んで感銘してほしいと願っています。
 そして、実は、この本は大人にこそ読んでほしいと思います。その理由は読んでいただければお分かりいただけると思います。
 もってまわった言い方ですみません。今の日本社会は、大人こそ反省しなければならないと考えるからです。

蕗(ふき)

 休みの日も仕事の日も5時前に起き、コーヒーを入れ、ヨーグルトとチーズとバナナの朝食を取りながら、今日一日を見通し、自分のやりたいことを深く覗き込み、本を読み始め、ノートにメモを書き記す。
 少なくとも、開智未来を開設してから、この生活を続けています。
 特に、この時期は夜明けが早くなり、自室の窓からは植栽や菜園の新緑が清々しく、風光明媚な名勝や庭園とは異質の美を感じます。柿の木の下の蕗は、昨日の夕方、それを40本ほど鎌で掻き取り、葉を取り、茎の皮を一枚一枚と指で剥きました。キーボードを打つ指にはその渋が残っており、この庭と私との関わりを実感させます。
 咳には少々閉口しているものの、至福のひとときを過ごしています。(ちなみに、今晩、妻の手で調理されたこの蕗を食卓で味わえることが今日の一番の至福の時になりそうです。)
 昨日から『完本 日本語のために』(丸谷才一著、新潮文庫、2011年)をノートを付けながら読んでいます。この本は復刻版とも言うべきもので、ここに載らせられている文章は、昭和40年代から50年代に書かれたものです。私の中学~大学時代の頃です。丸谷氏は当時の日本語の状況について憂えていますが、もし今の日本の状況を見たら、どう思うでしょう。彼はこの文庫を出版した翌年に亡くなっています。
 この本が発行されたのは、東日本大震災の直前の3月1日です。この年に開智未来が開校しました。不思議な縁を感じます。
 「現代日本文明には古典主義が欠如している」「ヨーロッパに追いつこうとして焦燥したこの百年間の日本の市民の、勤勉な実利主義」
 ノートにメモした文です。
 さらに、「今(※昭和50年代)の日本に横行してる」対話の問題として次のようなことを挙げています。懐かしい言葉であり、私たちが反省しなければならないことです。
 「まくしたて、こけおどし、揚げ足取り、言いのがれ、言い抜け、言いがかり、水かけ論、空念仏、生返事、空理空論、すれちがい」
 さて、今日は12時から大宮ソニックシティで「親子でぐーんと学力を伸ばす言葉力講座」を行います。まくしたて、こけおどし、空念仏、空理空論にならないよう、気をつけたいと思います。
 よい一日がスタートしましたか。今日は昨日より気温が下がるそうです。風邪をお引きになりまらせんように。

慈悲の心

 連休直前に始まった咳は相も変わらずで、臥せるほどではありませんが、爽快とは言えない状態です。それでも今週は大学と開智未来とを往還して、久しぶりに精力的に活動しています。やはり、遠距離の移動が、たとえ電車の中で座っていられるとしても、身体にこたえているのかもしれません。いや、そういう身体になってしまっているのかもしれません。
 また、この体調不良の時期は、再び毎日このメッセージを書き始めた時期とも重なります。もしかしたら……、頭を使うと身体が疲れるようになったのでしょうか。
 そんなことで、今日は保護者総会ではありますが、自宅で身体を休ませていただくことにしました。大変申し訳ありません。なお、明日は大宮ソニックシティで「私立中学校フェア埼玉 2019」があり、そこで私が12時から特別講座を行うことになっています。テーマは「読解力・日本語」。「親子でぐーんと学力を伸ばす言葉力講座」という、宣伝用のあざといタイトルにしました。本年度からすすめている開智未来の取組を踏まえた、親子が言葉でつながっていけるような講座にしたいと考えています。そのためも今日は身体を休ませたいと思います(言い訳です)。
 さて、二人の園児が亡くなるという痛ましい交通事故がありました。最近、このような悲しい話に目を向けることが辛くなってきました。すぐに胸がいっぱいになり、涙が出てきます。その話をしようとすると声がつまってしまいます。
 虐待、貧困、認知症、事故、天災。ニュースは悲しいことだらけです。
 私たちが生きているこの世界は、「悲しみの世界」なのだろう。人間はずっとこの悲しみの世界で生きてきたのだろう。その悲しみを受け止め、受け入れ、生を重ねてきたのだろう。そして、その中で、祈りや希望や、宗教や哲学や、思想や文化が育まれたのだろう。家族という生きる形態の奥底にもこの「悲しみ」というものが結晶になって鈍くも光っているのだろう。最近、そう思うようになりました。いいえ、そう思って、悲しい気持ちを和らげています。
 仏教には「慈悲」という言葉があります。この言葉は「一切衆生悉有仏性(一切の衆生はすべて仏性、つまり仏になる種をもっている)」という考え方に基づいた言葉で、仏様や菩薩様が衆生(生きとし生けるもの)をあわれみ、いつくしむ、という意味です。
 悲しいニュースに心を痛めながら、最近、「慈悲」とは「悲を慈しむ」ことではないか、と思うようになりました。かなしいことを慈しむ。つまり、頭をなぜるように大切に扱う、ということです。私たちにできることは、心の中で、その子どもたちの頭を慈しむように撫でてやることくらいです。いいえ、せめて撫でてあげたいと思っています。
 言葉は、やはり、大切なものですね。子どもたちに言葉を育てたいと思います。そして、言葉でそっと頭を撫でてあげられたらと思っています。

人こもごも

 今日は大学勤務の日です。
 柏市までの車中にて、今日はスマホを見ている人が少ないと思っていたら、ほとんどの人が眠っていました。連休明けの金曜日、疲れがたまっているのでしょうね。
 車窓に目を移すと田んぼには水が入り始め、田仕事をしている農家の方の姿が見えました。目前には疲れて寝入りながら勤めへ向かっている人々、背景には朝日に輝く水面と新緑の中で働く人々。世界を一つの絵に移したような光景です。
 当たり前すぎるほど当たり前のことなのですが、この世界にはたくさんの人が生き、生活しているのですね。
 悲喜こもごも。人こもごも。
 こういう「悲喜こもごも」に生きる「人こもごも」である生徒たちを教える、育てる「教育という営み」って何なのだろう。
 考え込んでしまいました(どうも最近はすぐに考え込んでしまうようです)。
 一人一人を大切にすること。
 理論的ではありませんが、まずは直感の答えを、野田線アカデメイアでノートにメモしました。

幸福論

 今日は一日開智未来の日で、朝のアカデメイアに始まり、1時間目は中学2年「哲学」、2時間目は中学3年「哲学」、4時間目は中学1年「哲学」、5時間目は高校1年「哲学」と、開智未来の日常を送っています。
 開校以来、この生活が基本だったので、ほっとするような、自分に戻ったような気分です。
 この日常の中で、生徒たちをどのように育てるかを各学年の先生方と話し合う時間が、私にとって一番幸せな時間です。アカデメイアで真剣に勉強に励む生徒たちと同じ空間に居ることも一番幸せを感じる時間です。
 あれっ?一番幸せな時間が2つ出来てしまいました。
 先ほど「自分に戻ったような」と書きましたが、果たして自分というものは「戻る」ものなのでしょうか。
 「哲学」の授業であれば、「自分は戻るものではない。向かうものである」と生徒たちを鼓舞するでしょう。自分に戻っているようではいけませんね。
 「我に返らんと欲すれども返る我なし」
 昨日に引き続き、「自分論」でした。
 いつまでも挑戦し続け、その姿を生徒たちに見せ続けたいですね。
 これは私の幸福論です。

私は何者?

 今日は午前中は岩槻校で管理職会議。私はその会議の運営と司会を行っています。これは「理事長補佐」の仕事です。
 午後は、開智未来の顧問として、中学1年生の「田植え体験学習」を見学に行きました。明日「哲学」の授業で、田植え体験学習の振り返りを行うので、それには実際に生徒たちの姿を見なければならないからです。
 このように、今年は4つの役割を兼任しているので、その場その場で変身して過ごしています。
 私は一体何なのだろうと、アイデンティティの分裂を感じるときもあるのですが、「私(関根)」であることは変わりません。昨日のメッセージの「自分のいる場所が自分の居場所」と同じですね。
 中学・高校・大学時代にあれほど「私は何者であるか?何者になるのか?」と問い続けたのに、大人になるとその問いを忘れてしまうのは、一つの場所、一つの役割、一つの自分に安住しているからなのでしょう。
 混沌の中にこそ、自分を見出す契機がある。
 今、生徒のような気持ちになっています。
 独り言のようなメッセージですみません。

動物(動くもの)

 連休が終わり、午前中は柏市の開智国際大学にて学内会議に出席し、昼食後移動して3時半には開智未来に到着、木曜日の「哲学」の打ち合わせや準備おまけに、東武野田線が遅延のため春日部駅でしばし佇むというハプニングもありました。日常は慌ただしいですね。
 本年度は居場所を固定しない生活をしています。
 例えば、今日は、朝は自室で約1時間の勉強-加須駅から春日部駅まで車内で立ちながら本を読み-春日部駅のプラットホームで佇みながら読書-春日部駅から野田線アカデメイアで45分間の集中勉強-柏駅から大学まで約30分のウォーキング-大学で学内会議-再び柏駅から大学まで約30分のウォーキング-野田線アカデメイアで45分間の2回目の集中勉強-春日部から加須まで車中で座れて読書-加須駅から自宅まで20分のウォーキング-自家用車で開智未来へ-開智未来で業務。遊牧の民のように自分のいる場所が自分の居場所となり、自分という存在が「場所(トポス)」となっています。
 自分というものが相当に確固としたものでないと、「浮き草」のように漂ってしまう。もしかしたら、ヨーロッパの個人主義とういうものはこのような状況から生まれたのかしら。
 動くからこそ自己が浮かび上がる。
 考えてみれば、人間は「動物(動くもの)」だったのですよね。

日常

 連休最終日ですね。
 異例の10連休(開智未来は9連休)ということで、妙に力んだスタートになりましたが、初日から咳が出始め、今日になっても直らず、伏せるほどではなくこの期間にやるべき家事・掃除や畑仕事や草取りをこなしてきたものの、淡々と過ぎました。
 強がりでなく、これはこれで「いい日常」であったように思います。
 日常という言葉を使いましたが、私たちの日常とは、通常、休みでない日、つまり、仕事や学校へ行く日のことです。
 5歳の孫娘も、昨日わが家から家に帰る際、「明後日からまた保育園が始まっちゃう」と涙ぐんでいました。
 「でも、金曜日まで行けば、土曜日と日曜日は2日お休みになるでしょ」
 「土曜日はスイミングがあるから休みじゃないもの」
 スイミングも学校なのでしょう。さて、彼女にとって保育園やスイミングのある日が日常なのか、それとも家で親と過ごす日が日常なのか。
 少なくとも、大人になるにしたがって、仕事の日が日常になっていきます。その意味で、この10日間(うち1日は風邪で学校を休んだ日です)を「日常」と感じたことは、何か大きな変化が自分の中に起こり始めているのかもしれません。これは老化なのでしょうか。
 すべての時間を日常として過ごせる心境になったとすれば、これを成長と称してあげたいと思います。少々、強がりも入っていますね。
 さて、読書の方ですが、根を詰められないので(言い訳です)、6冊にとどまりました。それでも読解や日本語についての勉強は進んで、ちょっと成長したように感じています。
 今日は、あえて新しい本は読まず、これまで読んだ本のノートを読み返して復習したいと思っています。
 本の数だけを競うより、学んだことを指折り数えた方がよい。
 やっと分かってきました。これも成長でしょうか。
 点数だけを競うより、学んだことを指折り数えた方がよい。
 これは老いた人間の戯言でしょうか。それとも年を重ねて得た知恵なのでしょうか。
 それでは、穏やかな1日をお過ごしください。そして、明日からも元気に過ごしていきましょう。

おかあさん

 「ねえ、おかあさん。おかあさんは人のことを気にするタイプ、それとも自分のことを気にするタイプ?」
 連休で長女の家族が遊びにきたときの、孫娘と、私の娘であるその母親との会話に聞き入ってしまった。
 「おかあさんはどちらのタイプだと思う」
 いい受けこたえだ。母親をどう考えているのかを知る問いでもある。30年ほど前のわが子の姿と重ね合わせた。立派に成長していることがその親として嬉しい。
 「おかあさんは人のことを気にするタイプかな。すずらんのことをいろいろと考えてくれるから」
 5歳の孫にとって「気にする」とは「考える」ことらしい。言葉や概念の源流を垣間見ているようで興味深い。
 「すずらんはどっちのタイプ?」
 私にも同じ質問が来るかもしれないという危険を、あえて冒して聞いてみた。もし聞かれたら「じいじは自分のことを気にするタイプ」と答えよう。孫に身勝手な祖父と思われるかもしれないが、自分のことを考え続けるのことも大切なことだと、あとで分かってくれるだろう。
 「すずらんはね。人のことを気にするタイプ」
 「おかあさんと同じだね」
 「うん」
 嬉しそうで得意気な表情である。
 私はこのような親子関係をわが子と築いたのであろうか。自分のことばかりを気にして家族のことを気にしていなかったのではないか。
 さても、恐れていた私に対する質問はなかった。ほっとしたような寂しいような。
 子どもの世界は大人が考えているほど幼稚ではない。そして、わが子の幸せほど幸せなことはない。
 親が仕事ということで、今日は孫二人を妻と預かることになっている。さて、どんな発見があるだろう。
〈補〉
 今日は子どもの日。ということで、明治期の、子どもを謳った詩を紹介します。宮崎湖処子(本名は八百吉。男性です)の「里の子」という詩です。

 里の小川を来て見れば、
 小魚(いさな)とるとて子どもらが、
 きのうもけふもくるるまで、
 水をぞすくううちむれて。

 いさら小川のさらさらと、
 たえず月日はながるるを。
 里の子どもはいつまでか、
 とまらぬ水をすくうらむ。

 なお、「いさら」とは「小さな」という意味です。よい一日をお送りください。

君が袖振る

 先日紹介した山口氏の本によれば、「です、ます」(敬体)は直接読者に語りかける表現形式であるとのこと。相手を意識した「話し言葉」に近い。対して、「である」(常体)は客観的に説明できる表現形式で、これにより「地の文」が書きやすくなり、日本語の文章が発展したらしい。
 主観的・個人的な話題は、敬体よりも常体の方がふさわしい場合がある。照れ隠しになり、また、抑制的にそっと感情を届けることができるからだろう。
 今日は常体で書きたい。
 ☆  ☆
 5月1日に会ったばかりだが、昨日母を施設に訪ねた。
 帰り際、母は玄関で、施設の方と手をつないで、手を振って私を見送っていた。私も車の窓を下げて手を振る。
 ふと思い出したことがある。
 この光景は、子どもたちを保育園に送った時に、保育士と手をつないで手を振っていたわが子の姿である。
 共稼ぎだったため、三人の子どもを小さい時から保育園に預けた。初めのうちは泣いて追ってきてこちらも辛かった。ようやく慣れて、手を振って送るようにはなった。しかし、我慢していたのだろう。子どもたちが成人した後もあの時の姿は忘れない。
 子に手を振られ、そして、親に手を振られる。
 時の移り変わりを実感し、人生というものの断面を見る思いがした。
 いつか私自身がわが子の背に向かって手を振るときが来るのだろう。その時、私はどんな気持ちで手を振るのだろう。
 子どもたちはどんな気持ちだったのか。母はどんな気持ちなのだろう。
 「また来てね」と母は言い、「はやく迎えに来てね」と子らは言う。私は何と言うのであろうか。
 令和の時代になり、嬉しいような悲しいような、急に「万葉集」が脚光を浴び始めた。
 「あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」(額田大王)
 手を振るという行為に、日本人の心性が地層のように積み重なっている。
 私にも家族にも、である。

今は昔

 移り気はけっしてよいものではありませんが、昨日、『訓読みのはなし』(笹原宏之著、角川ソフィア文庫、2014年)を4分の1ほど読んだ頃、気分転換に屈伸をしたときに本棚の隅にあった『自家製文章読本』(井上ひさし著、新潮文庫、昭和62年)を手にとってしまいました。
 この本は、教員になって6、7年経ったころに買った本です。大学の頃から彼の随筆が好きで、その随筆の一種かと思って購入しました。内容は、かなり本格的な日本語論です。何度か読み通そうと挑戦した跡があります。30ページまでは鉛筆で線が引いてあります。また、風呂場で読もうとしたようで、80ページあたりまで一部紙に湿気を浴びた形跡があります。
 一昨日まで『日本語の歴史』(山口仲美著、岩波新書、2006年)を読んでいたこともあって理解が進み、それまで読んでいた本をホッポラカシにして一気に読み終えてしまいました。
 移り気も時には功を奏すものですね。
 30年以上を経て、今頃になって日本語の面白さに気づくのですから、もちろん、気づかずに一生を終えるよりもましですが、自分の無能さに嫌気がさします。もし、この30年間、日本語というもの、言葉というものを勉強しつづけたら、もっと深いことに気づけたのではないか、もっと深い「哲学」の授業ができたのではないかと、後悔というより自分の能力に残念な気分です。
 『日本語の歴史』や『自家製文章読本』を読んで、今私たちが使っている日本語が、太古の頃から面々と続いた言葉であること、そして、その間に中国から書き言葉として漢語が移入され、明治維新からは外国思想が和製漢語で翻訳され、戦後は多くの外来語が堰を切ったように流入してきたことが分かりました。例えば「係り結び」。高校時代にはテストのために覚えましたが、なぜ係り結びをするのか、なぜなくなったのかと現在の日本語とつなげて習ったことはありませんでした。もし、日本語の歴史を見つめる視点で「古典」を学んでいれば、あの『源氏物語』も『枕草子』も『古今和歌集』もずっと身近なものとして感じることができただろうと思います。
 何か大切なことを見落としていないか。
 30年以上前に本屋で手に取ったこの本から問われているような気がします。
 少々長くなりますが、『自家製文章読本』からもぎとった1箇所を紹介します。
 「たしかにヒトは言葉を書きつけることで、この宇宙での最大の王「時間」と対抗してきた。……(中略)……。わたしたちの読書行為の底には「過去とつながりたい」という願いがある。そして文章を綴ろうとするときには「未来へつながりたい」という想いがあるのである。だが、奇怪なことが起こりはじめているのもたしかである。かなわぬまでも時間と対抗しようという、いかにも人間らしい気組みが急速に失われて行きつつあるらしい」
 井上氏が生きていて、今の状況を見たら何と書くでしょうか。
 氏は開智未来が誕生する1年前の春に亡くなりました。ちょうど第1期生の募集活動を開始した頃です。今は昔、平成時代の話です。

朝日

 実は、連休前に引いた風邪の影響で咳が止まらず、体調不良が続いています。
 逆境こそ好機。
 これは私の人生訓で、実際、困難があったときが自分の発展の契機となっています。今回も、本を読んだり勉強したりするしかできないので、積極的に「令和の勉学の連休」と名付けて、多くの時間を自室で過ごしています。折しも、連休前から10数冊の本を読もうという計画があったので、病気も天の恵みと都合よく考えることにしています。
 さて、平成31年4月30日から令和元年5月1日まで、二つの元号にわたって、『日本語の歴史』(山口仲美著、岩波新書、2006年)を読みました。本年度から、開智未来で「読解力・日本語力の育成」の取組を開始するからです。この取組は、私が所長をしている開智教育研究所から研究指定されています。私も開智未来の特別顧問として、そして、研究所所長として力を入れています。
 この本では、「読み言葉」しかなかった日本が、漢字という表記方法を中国から得て、どのようにして現在の「書き言葉」(日本語)が成立していったのか、その過程がわかりやすく説明されています。
 現在の日本語には、「和語」「漢語」「明治維新期に人工的に創られた和製漢語」「外来語」の4種類の言葉があります。世界にも類を見ない多様性・豊饒性です。そのため、きめ細かに感じることも、考えることも、そして、人に伝えることもできます。例えれば、日本語は大容量で高性能のコンピュータで、使いこなせば相当の力を発揮するが使いこなすのが困難、という代物です。同時に、変化しやすいという特徴もあります。
 だからこそ、私たち日本人はその日本語を継承して発展させていかなければならない。
 「令和」という新鮮な響きに触発されて、そんなことを考えています。
 今朝からは『訓読みのはなし』(笹原宏之著、角川ソフィア文庫、2014年)を読み始めています。いかに和語と漢語をつなげていったのかを考えたいと思ったからです。
 連休も今日から後半戦(別に戦いではないのですが)。もし時間がありましたらいかがでしょうか。日本という国を考える契機にもなると思います。
 蛇足ながら、連休直前から読んだ本を紹介します。『「読む」技術』(石黒圭著、光文社新書、2010年)と『難解な本を読む技術』(高田明典著、光文社新書、2009年)です。この2冊は「読解力」を考えるために読んだ本です。共に良書です。特に後者は、私自身の本の読み方がいかにいい加減だったのかを反省する契機になりました。おかげで、どんな本もノートをしっかりと取って読むようになりました(逆に言えば、ノートを取らなくて済むような本は読まないということですね)。
 視線を、1メートル50センチ先にある葡萄棚に移すと、花芽がたくさん付いています。朝日を通して、それぞれの葉が葉脈とともに見えています。
 健康に留意して連休後半の初日をお過ごしください。

令和の朝

 令和の世の初めての朝を、いつものように葡萄棚のある自室で過ごしています。
 昨晩の雨も上がり、目前の小さな菜園、その先の植え込みは露に濡れ、新時代だからというわけでもありませんが、清々しい気分にひたっています。馬鈴薯の若芽、バジルの若い苗、生えだした蕗の葉、柿の若葉。皆、黄緑色に映えています。
 5月1日に始まった「令和」の第一印象となりました。
 ふと、この姿が開智未来の中高生に似ていることに気づきました。
 若いときはすべての生き物が黄緑色。生のみずみずしさ。ほのかに草の匂いもします。この時期が新鮮なのは、この色彩と匂いによるのかもしれません。
 未熟だけれど可能性がある。伸びる勢いや輝きをもっている。 
 私自身の中にも、わずかながらでもこの「黄緑色」の部分が残っているようにしたい。
 「青臭さ」とは、植物の「黄緑色の時代」の匂いに由来する言葉でしょう。しかし、青臭さの新鮮さ、真剣さを私たちは忘れてはなりせんね。
 令和の朝、しばし思いを巡らしました。
 さて、今日は施設で過ごしている母を一時帰宅で実家に迎え、一緒に新元号を祝おうと思っています。
 今日も素敵な一日でありますように。

平成から令和へ

 久しぶりのメッセージです。
 忙しく(忙しそうに)立ち動くうちに、考えや感情を文章でまとめない日々が続いてしまいました。本を読み、あれこれと考え、膨大なメモートを書いているのですが、やはり文章となると別ですね。とりわけ今、「読解」や「日本語」を勉強しているので、文章というものに、以前より敏感になっているからかもしれません。言い訳が長くてすみません
 さて、今日は「平成最後の日」です。この特別な日にメッセージを書かないわけにはいかない、ということで、3週間ぶりのメッセージに挑んでいる次第です。
 私が平成を迎えたのは31歳の年、ちょうど上越教育大学で修士論文の仕上げに専心しているときでした。そして今、開智未来の校長を退き、顧問2年目の春を迎える中、葡萄棚のある自室にて、雨の庭を眺めながら、平成31年4月30日、「平成最後の日」を迎えています。奇しくも、私は昭和を31年生き、平成も31年生きました。ほぼ同じ長さの年月を過ごしたわけです。
 昭和は子どもとして成長し大人になった時期、平成は親として子どもを育てた時期と区分できます。子育てはほとんど妻に任せきりだったので、この区分に家族は納得しないでしょう。
 こんな区分の方が適切かもしれません。
 昭和は自分づくりの時期、平成は自分発揮の時期。昭和の最後の時を上越教育大学で単身勉強に励み、その基礎の上に、平成に入ってからは教育実践に邁進して積み重ね、その集大成として、未来への夢を抱いて開智未来を開設することができました。その校長を退いて平成を終えるのも一つの流れのような気がします。
 開智未来は平成終盤の時期、東日本大震災の直後に生まれました。いつも言っていることですが、日本が未来を失ったと思われた最中に、奇しくも「未来」という名前の学校が誕生したのです。
 その平成という時代を私はつかみきれずにいます。
 何も価値をつくらなかった時代、とも感じています。
 私が育った昭和は、戦後復興・高度経済成長の時期で、日本人は未来をもっていました。その後、バブルという狂乱の時代を経て、その残骸の中で平成が始まりました。新聞等で多くの識者が言っていますが、自然災害が続き、大事件が何度も起き、冷戦後の世界は混乱し、何が本当のことなのかわからない・人々が真実をもとめようとしない「ポストトルース(post-truth:真実のあとの時代)」が到来しました。
 明日から「令和」の時代となります。
 この機に、もう一度、価値や真実を求める時代になってほしい、と私は願っています。そのために私は何ができるか。三度目の、そして、最後の「31年間」のテーマにしたいと思っています。
 「未来」という名前は、この「令和」という元号にこそ映えるはずです。加藤校長先生、藤井教頭先生を中心に、先生方と生徒たちと保護者の方々で、開智未来は、「新たな日本」に貢献する学校へと成長していくでしょう。これからの開智未来が楽しみです。私も微力ながら貢献できるよう、成長し続けたいと思っています。
 まとまりのない、長文のメッセージとなってしまいました。
 皆様にとって、素敵な時代の幕開けとなりますように。

忘れてはならないこと

 日曜日はスターティングセミナーで高校入学生に対して2時間の哲学、昨日の月曜日は中学入学生に対して2時間の哲学を行いました。
 初々しくて、開智未来の学びに対して一生懸命で、とても楽しい授業になりました。その姿勢や表情を見ていると、かえって私自身が忘れかけていた何かを学んだような気がします。
 大人は大切なことをしばしば忘れてしまうものです。素敵なことが見えなくなってしまうものです。
 今年になって、あらゆる機会に生徒たちに言っている言葉があります。
 「しっかり聞く、しっかり考える、しっかり読む、自分の考えをしっかりと文章で書く」
 当たり前のことですが、時々、見失ってしまうことです。
 子どもたちと一緒に学ぶことは、本当に楽しいことですよね。
 今日は短いメッセージでした。

フクツのチカラ

 今日は9回目の入学式。
 思い起こせば、東日本大震災直後の、日本が絶望と不安の最中に開智未来の第1回入学式が行われました。あれから8年が過ぎましたが、第1回以来、入学生たちが野の花を持ち寄って壇上を飾る習慣は続いています。
 人間を苦しめる自然と人間をやさしく包む自然。震災と野の花。
 感慨深く、式場を眺め続けました。
 さて、昨年から、入学生たちに名づけた愛称にちなんだ詩を贈ってきました。第9期生は「不屈」。加藤校長先生が初めて付けた愛称です。力強くて逞しい、いい言葉ですね。
 私が贈った拙い詩を、とても恥ずかしいのですが、載せたいと思います。
 ☆  ☆  ☆
 詩 「フクツのチカラ」

 フクツ フツフツ 沸き立つチカラ
 フクツ クツクツ 靴音鳴らせ
 フクツは 僕らの 魔法の言葉

 フクツは 苦痛
 フクツは 普通
 クツウを フツウに 超えてゆけ
 
 フクツは 克服
 フクツは 幸福
 幸せ目指して 超えてゆけ
 
 フクツ フツフツ 沸き立つチカラ
 フクツ クツクツ 靴音鳴らせ
 フクツは 僕らの 合い言葉
 ☆  ☆  ☆
入学生の皆さん、そして、保護者の皆様。ご入学おめでとうございます。そして、ありがとうございます。フクツのチカラで頑張っていきましょう。

子どもたち

 本年度は理事長補佐、開智未来特別顧問、開智国際大学副学長、開智教育研究所所長と4つの職を兼任することになりました。
 その結果、水曜日は半日が開智未来、半日が大学で勤務することになりました。昨日も、家を6時40分に出て大学で8時半から11時まで過ごし、柏から加須まで移動するとともに昼食をとり、午後2時に開智未来に到着しました。今年のテーマは「動き」にあるようです。
 4つの職を兼務していると、当然ながらそれぞれの仕事や役割が違うので、4つのことを頭の中で同時並行して行うことになります。まだ慣れていない私の頭の中はカオス状態です。
 学園と大学と開智未来、「探究、ICT、英語」の推進と教育の基本、言葉力の育成と日本語、哲学とサプリの刷新、哲学と現代思想、実践と研究、理論と文学……。様々な対立項を扱うことになります。
 これらの対立項を大まとめに構造化し、統一化できないか。
これが本年度の私の課題となりそうです。
 4月2日に開智国際大学の入学式がありました。そして、明後日は開智未来の入学式です。
 いろいろな仕事を扱うことになりましたが、目前に子どもたちがいるということは一緒です。そのことが私の原動力になっています。私をカオスから解放してくれるのは、そして、様々な対立項を構造化し、統一化するのは、まさにこの子どもたちだと直感しています。
 明日は新入生の準備登校。そして、4月6日(土)は午前中が在校生の始業式、午後が入学式です。今から楽しみです。

令和

 本年度最初のメッセージです。
 昨日からさかんに報道されていますが、新元号が「令和」となりました。昭和から平成になったときは、昭和が終わって新たな元号になるとは思っていなかったので、かなり劇的な変化のように感じました。しかし、今回は、すでに改元を経験しているので、落ち着いて、しみじみとこの変化を見つめている自分を発見しています。
 理由はわかりませんが、清々しい元号ですね。言葉の響きからでしょうか、新しい一歩を踏み出そうという気持ちになります。
 振り返ると、平成になった時、私は31歳で、上越教育大学大学院で修士論文を仕上げている最中でした。論文のテーマは〈教育学における理論と実践〉で、その後、進学校へ移動し、サプリの前身となる「小論文講座」を開始し、その後、教育委員会、県立高校の教頭・校長となり、開智未来をつくり、60歳でその校長を退きました。
 そして、62歳となって新たな夢に向かう中、令和という時代を迎えることになりました。
 昭和の時代が私の第1段階、平成の時代が第2段階のように思えます。ちょうど31年周期となっています。この法則ならば、93歳まで生きて、第3の段階を過ごすことになりそうですね。
 さて、今朝、開智国際大学への通勤の電車の中で『大学の未来地図』(五神真著、ちくま新書、2019年)を読んでいると、「子どもに夢を託すのではなく、大人が頑張る社会へ」という言葉に目が止まりました。超高齢社会になり少子化が進む中で、子どもにばかり求めるのではなく、中高年自身が頑張らなければならない、という意味です。著者は東京大学の総長です。
 その通りですよね。少なくなった子どもたちに、「ああしてほしい、こうしてほしい」と願いを垂れ流すのは無責任ですね。人生100年の時代を迎えるのですから、60歳くらいはまだ若輩で、自ら夢を追うようでなければならない。それが「令和の時代」の大人のあり方なのでしょう。
 第3段階の31年間を、新しい自分となって頑張っていこう。令和(令私)という響きが、その合い言葉のように聞こえてきます。
 皆様にとって、新たなる「令(よ)き新年度」でありますように。

新サプリの予感

 今朝は「学びのサプリ講座」がありました。
 この講座は本年度初めて行ったもので、高校生の希望者を対象に、サプリをさらに進化・深化させようとの試みで始めたものでした。当初の受講生は40名以上はいたのですが、最終会の本日は9名でした。
 「哲学」の授業で言っていることと重複している部分もありますし、私としてはサプリを進化・深化させているとは思っているのですが、それは一部を深めたに過ぎなく、いつも同じことを言っているような気もします。ただ、1週間分の「やる気」は与えられたのかなと、自分を納得させているところです。
 私の出勤日等の都合で、来年は多分行わないでしょうから、今回が最終回になるでしょう。
 そこで、これまで言及したことのなかった「意思の力」について、その試論を今回初めて提示しました。以下、テキストから抜粋します。
 ☆   ☆
〈意志の力〉
 「気分」では、大学受験という長丁場で戦い続けることはできません(人生も同じです)。「意志」の力(これを精神力とも言いいます)が必要です。
 では「意志」とは何だろうか。
(1) 意志とは自分の中で閉じたものではない。公共性を有するものである。(貢献とはこの公共性にかかるキーワードだったのですね)
(2) 強靱ではないものは意志とは言わない。逆境で意志は鍛えられる。
(3) 意志は心理の上にある。心のあり方(心理)を制御するものである。
(4) 意志と身体は関係がある。まずは身体を鍛えよ。
 ☆   ☆
 今後、もっと深めて、「哲学」の授業で生徒たちに伝えたいと思っています。
 もう一つ、「思う」と「考える」の違いについて考えました。これは日本語学者である大野晋氏や森田良行氏の本から学んだことをもとにしています。私たち大人は子どもたちに「よく考えなさい」としばしば言いますが、私たち自身「考えるとは何か」について分かっていません。とも来年度の「哲学」のテキストでまとめ、さらに実践していこうと思っています。
 「『思う』は『考える』と違って、刹那的判断ないしは、感情の没入で、それだけに対象把握は単一的であって、物事を分析的にとらえる知的行為ではない」
 『思考をあらわす基礎日本語辞典』(森田良行著、角川ソフィア文庫)からの引用です。「思う」とは単一的に思考すること。例えば、「思い込む」とは一つのことに拘泥していることです。対して「考え込む」はあれこれと考えを巡らせていることです。
 そこで、「考える」ための呪文を考えました。呪文1「なぜ、なぜ、なぜ」、呪文2「だから、なぜなら、しかし」、呪文3「ああでもない、こうでもない」です。分析的・論理的・多角的に思考するための方法です。これも来年度のテキストにまとめ上げたいと思っています(今の時点で単一的に思ったことを表明しているだけです)。
 まだまだ進化していきたいですね。
 受講生たちにこんなことを伝えました。
「自分の殻(枠)を打ち破らなければ、つまり、限界を超えなければ、さらなる自分へと飛躍できないし、大きく成長できない。そのためには限界を超えること。そこまで勉強すること、そういう生き方をすることが必要である」(本日のテキストより)
 新しいサプリを創る。目標がまた一つ増えたようです。

思想家になるという夢

 ちょうど1週間前のことです。私の高校時代のことで、ふと思い出したことがあります。
 私は「思想家」になりたかったという事実です。
 ほとんど理解できないながらも、倉田百三や亀井勝一郎の著作、パスカルの『パンセ』などを読み囓り、いろいろと考えたことを文章にできる人になりたいと思った時期が、そうそう、たしかにあったのです。当時は、会社などの組織に入って仕事に就くということなど想像もできなかったので、また、生活するために、そして、家族のために「働く」ということがわからなかったので、自由に考えるだけで生きられる(生活できる=お金を手に入れられる)、そんな都合のよい未来を夢見ていました。今の高校生ならば、「ユーチューバーになる」という夢に近いでしょうか。
 そろそろ、生活のために働く必要もなくなるだろうから、思想家になるもいいかなと、ほんのりと考えるようになりました。詩人になる、ダンサーになる、に加えて思想家になる!です。相変わらず、いい歳をしてふわふわしている人間です。
 そのような生徒がいたならば、「もっと地に足をつけて生きなさい」とアドバイスするでしょうが、私の場合はすでに十分に働いてきたのだから、道楽のようなもの。年寄り相手では、「好きにしなさい」とあきらめるしかありませんよね。
 調べてみると、英語では「thinker」と言うようです。結構単純ですね。広辞苑では「思想が深く豊かな人」。これも至って簡素な定義です。
 そこで安易にもスマホで検索すると、〈デジタル大辞泉〉には「社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人」とあります。発表の場を持たなければならないし、他に悪い影響を与えてはまずい。思想家はやめとこうかな、としばし躊躇してしまいました。
 さらに、〈ウィキペディア〉を見ると、「様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人」とあります。この定義では発表しなくていい。試みるだけでいいのですから、私にもなれそうです。それにしても含蓄のある定義ですね。「熟考し、あるいは問うて答えるため」というくだりに鳥肌が立ちました。
 そこで、まさに熟考して、「思想家として生きる」ことを始めてみようかなと思い立ちました。
 「思想家として生きるとは、熟考して得た思想を生き方として示すこと。つま、行動することである。それを『実践』ともいう」
 私なりの定義を考えてみました。
 そんなことで、このメッセージも最近、少々理屈っぽくなりました。しかし、思想とは熟考したものですから、考えが「熟れ」て、広辞苑の「思想が深く豊かな人」という定義のように、簡素なわかりやすい言葉で表現されてしかるべきです。もっと勉強します。
 私は、開校以来、生徒たちに「哲学」を教えてきました。もしかしたら、高校時代の夢が叶っていたのかもしれません。自分の学校をつくる、自分の本を出版する。中学・高校時代の夢を開智未来で叶えてきした。
 「また一つ叶えたよ」。昔の自分に報告したいと思います。
 さて、もうすぐ新年度が始まります。
 悪い影響を与えないように、身や言葉や行動を正しくして、思想を深く豊かにして、来年度の「哲学」の授業に臨みたいと思います。

感謝の単語カード

 卒業式から一夜明け、今日は中学3年生たちによる「感謝の会」がありました。
 開智国際大学の卒業式と重なってしまい、そちらに出席するため、彼らの進級式に出席できなくなってしまいました。そこで第6期生の進級を祝う詩を書き、その会で読み上げることにしました。
 ☆  ☆
完成と名づけられた子たちへ-中学卒業を祝って-

完成と名づけられた子たちよ
完成年度である6年目の年に入学したことで
喜びのあまり
ふと「完成」という名を与えてしまった

そのとき君たちに
とまどいの夢を投げかけてしまったのかもしれない
いつしか君たちに
手に負えぬ宿命を与えていたのかもしれない

完成とは逃げ水を追うようなもの
目指した地点は、近づけば先へ先へと進み行く

完成は目標ではあるが到達点ではない
それは終点のないベクトルであり
形状のない価値そのものである

完成と名づけられた子たちよ
宿命は君たちをつねに試しつづけるだろう
振り返ってみよ
「再生」の子らが
「完成」の君たちのあとに続いている

願わくば
たどり着いた地点にその両足で立ち
合図の口笛を吹き
その3メートル先をそっと指さし
「完成は未完、未完は完成」と
此の地と彼の地をつなげる呪文を唱えよ

あとに続く者たちのため
さきに生きた者たちのため
 ☆  ☆
 感謝の会の最後に、生徒たちからプレゼントをいただきました。91名の生徒一人一人が、担任や私など関係してきた先生方それぞれに、カードの表面には感謝の言葉、裏面にはその先生のよいところを書き、リングで1つにまとめた、いわゆる「感謝の単語カード」です。
 「開智未来をつくってくれてありがとう」「顧問のいいところは生徒想いのところです」。少々こそばゆくて照れてしまいますが、勇気や元気が湧いてきます。鞄の中に携帯し、辛いときや悲しい時など読み返したいと思います。
 心優しい子どもたちです。ありがとう。嬉しいです。
 さて、同じ時間帯でこれから入学する高校生たちのプレ登校がありました。
 進級生たちと入学生たちがこれから同級生となって、切磋琢磨し、大きく成長していくでしょう。
 4月が待ち遠しいですね。

続・卒業式

 卒業式が終了しました。開智未来らしい、いい卒業式でした。
 卒業する高校3年生たちの「顔」がいい。
 これが開智未来ですよね。
 さて、顧問として私も祝辞を述べました。校長ではないので、少しは勝手なことを言ってもいいかなと思い、強い表現の言葉を使ってみました。一部を再現します。
 ☆  ☆
 見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。
 それは、自らの外にあるもの、内にあるもの、共にである。
 それが「自律と正義」である。
 成長しつづけよ。
 ああいう人だと固定されるような人間になるな。
 人の評価を超える人になれ。
 人の評価を得ようと躍起(やっき)になるくらいなら、自分で自分を評価できる人になれ。
 これには2つの意味がある。
 一つは、評価されるほどの人間になること。
 もう一つは、正しく評価できる人間になること。

 もう少しばかり、年寄りの僻事(ひがごと)を聞いてくれ。

 どんなに小さなことでもいい、どこかの領域で「自分が最高」と思える人になってほしい。
 自分の生きる意味を自分で見つけられる人になってほしい。

 私はこのような立派なことを言える人間ではない。見てのとおりだ。
 自分にこそ言い聞かせている言葉である。
 君たちとは、あと少しの刹那、この世界で、同じ時間をそれぞれ過ごすことになる。
 たがいに開智未来に関わった者として、それぞれ生きていくことになる。
 出会うことがあったならば、新たな人間となって、初対面の如く再会しよう。
 ☆  ☆
 「見苦しいもの、醜いもの、まとわりつくものと決別せよ。」という表現は、最後まで使うべきかどうか悩みました。「醜い」という言葉は少々刺激的です。もしかしたら差別的と勘違いされないか。そんな不安も持ちました。
 詐欺で老人から大金をだまし取る詐欺者、わが子を虐待する親。ニュースを見ると醜いものばかりです。見苦しい言い訳、見苦しい誹謗が私たちのまわりに充満しています。これらは断固として拒否せよ。それが正義であろう。
 これからは自分で考え、自分で責任を持って、正しく生きよ。「自律」の妨げになる、自分の幼児性や甘え、そして、大人の過保護や度が過ぎた「ものわかりのよさ」等々。こういう「まとわりつくもの」を振り払え、と言いたかったのです。
 「頑固ジジイ」「因業ジジイ」と言われそうですね。
 それにしても、卒業する高校3年生たちの「顔」がよかった。
 年をとってもそういう顔でありつづけてほしいと願っています。卒業おめでとう。

卒業式

 明日は卒業式、今日は予行。毎年のことながら、学校全体が異空間に感じられる時である。私にはそう感じられる。
 今年は顧問なので、式辞のプレッシャーはなくて気が楽だが、中学入学生は6年のうちの5年、高校入学生は3年のうちの2年は、校長であった。どうしても、卒業生たちは開智未来に入学して幸せだったのか、と自問してしまう。そして、責任を感じてしまう。
 卒業の日は、3年間・6年間の思い出が語られる、特別な一日である。「走馬燈のように」とは、少々陳腐で古くさい表現だが、なるほど、ぐるぐると回る紙のスクリーンに映し出された幻のように、過去のことが次から次へと思い出されてくる。
 そのうちに、過去がのしかかってくるようで、私はときどき息苦しくなる。
 私の高校の頃を思い出すと、私は卒業式後、はやく学校を立ち去りたかった。次の未来の方に心が移っていたからである。過去との付き合い方が下手な性分なのかもしれない。
 過去はまぼろしではない。過ぎ去ったことではあるが、確実な堆積物である。未来は未だ来ぬもの。事実ではない。しかし、卒業の日は、この地層となった3年間・6年間に引けを取らぬほどに、未来はあたかも事実のように輝く。過去と未来が共存する不思議な一日である。
 未来をつくるには充実した「事実たる過去」が必要だからか。
 それとも、未来へ先走りをするのを押さえるために「ゆらめく過去」を振り返るのか。
 明日は過去と未来に圧倒されて、今の気持ちを伝えられないかもしれないので、先走って、卒業おめでとう、と卒業生たちにこの場を借りて伝えたい。そして、2年間・5年間の気持ちを込めて、卒業生の皆さん、そして、保護者の皆様に、卒業ありがとう、と記したい。

うつしよ

 現世の疾きものかな。
 朝から詠嘆と言える感慨に浸っています。 
 開智未来の開校まであと3週間を切り、翌日に併願の高校入学生の入学説明会および中学入学生の事前登校日を控えていた、ちょうど8年前のことでした。はやい(疾い)ものですね。
 大地が激しく揺らぎ、街の信号機は消え、電車は途絶え、私はこの学校の開校ができるのかと、南面の窓に駆け寄り、埼玉大橋の存在を確認しました。今でもリアル(現実的)に思い起こすことができます。この頭の中の映像は過去のことではあるが、現実の私のなかに「像」として残っています。
 現世(うつしよ)とは不思議な言葉ですね。今、この時という現実を指す言葉であると同時に、いつか幻と消えゆくはかなさも含意しています。
 この日本が絶望のどん底にあるときに、「未来」という名の本校が誕生しました。機会あるごとに話していることですが、私は一つの宿命のようなものを感じて、この8年間を過ごしてきました。
 未来を創る学校でなければならない。
 未来を担う生徒を育てなければならない。
 使命感、責任感、重圧、足かせ。そして、その使命を果たせていないという申し訳なさ、後ろめたさ。複雑な感情が、ずっと足もとに絡みついていました。
 一方で、日本中を覆った絶望の中で、新しい日本が、そして、新しい日本人が芽吹くものと、不遜ながらひっそりと思っていました。その思いを開智未来に重ねてきました。
 8年経った今、私たちは新たな知性を獲得したのでしょうか。新たな社会を創ってきたのでしょうか。新たな教育を求めてきたのでしょうか。そして、私は校長としてやるべきことをやっていたのでしょうか。
 過去を思い出すのは、ノスタルジーからではない。それが事実だからである。過去を事実として確認しないから、私たちは現世を彷徨(さまよ)ってしまうのだ。
 現世の疾きものかな。
 尻切れトンボのメッセージとなってしまいました。
 亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

ヨクミキキシワカリ

 昨日は、大学を取り巻く状況を知ろうと、「私立大学等改革フォーラム」に参加してきました。会場は四谷にある上智大学でした。
 何事もねらいをもって行動する。
 生徒たちに教えているように、参加に当たって、2つのねらいを設定しました。
 1つは、よく見聞きし分かること。これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ヨクミキキシワカリ」をもじったものです。よく聞いて、よく見て、そして、よく理解することです。
 2つ目は、読みやすい文字でメモを取ることです。私の字はあまり読みやすいものではありません。現在、その改善に向けて、少々ゆっくりでも読みやすい丁寧な文字を書こうとしているところです。
 現在、高等教育(大学教育)の改革については、文部科学省がかなり力を入れています。文部科学省が直接補助金を配当するので、かなり強く要求できるからでしょう。小・中・高校よりもずっと急激な改革が進められています。
 AP、FDという見慣れぬ記号は、意味をもたない符丁にしか見えません。
 コンソーシアム、プラットホーム、コンピテンシー、ディプロマ・サプリメント等々。
 うーん。よくわからない。横文字が飛び交い、話し手はその用語に意味を見出しているのかと、やっかみ半分、訝ってしまいました。
 なんと私は無知な田舎者なのだろう。やっぱり先端の世界は違うなあ。
「よく見聞きし分かる」ことは大変なことである。そこで、自分を鼓舞するかのように、帰りの湘南新宿ラインの電車の中で、「ヨクミキキシワカリ、ヨクミキキシワカリ」と何度も呟きました。「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」。強がる気持ちからでしょうか、いつの間にか、「雨ニモマケズ」を心の中で諳んじていました。

あえてゆっくりと

 あえてゆっくりと考える。ゆっくりと読む。
 別に、加齢ゆえの現象ではなく、意志としてゆっくりと行動するようにしています。すると、深く考え、深く読めるようになってきました。
 かつては「切れ者」であることを望み、「愚鈍」であると思われないようにと、頭の回転のよよさを追求していましたが、60歳を超えたのでそのように思われてもいいかな、という気持ちもあり、「ゆっくり」を自分に言い聞かせて生きるようにしています。
 ゆっくりと聞く。ゆっくりと話す。ゆっくりと見る。ゆっくりと食べる。ゆっくりと散歩する。
 急かない、焦らない、短気にならない。時々、足を止めること。
 昨日のメッセージにも、ニーチェの引用をしましたが。「じっと待つ」ことも大切ですね。
 もちろん、高速も必要です。高速で処理する。高速で対応する。高速で逃げる。
 特に、回避するのは高速でなければなりません。高速で処理するからゆっくりの時間が生まれるわけですから。
「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」
 昨日示したニーチェの言葉です。
 昔、車のエンジンかあまり発達していなかった頃、低速で運転しているとエンジンかエンストすることがありました。
 ゆっくりとできる力量を年相応に持ちたいものですね。

40年前の自分との対話

 「読解力・言葉力・日本語」を真剣に考えるようになり、また、勉強・研究するようになって約50日、最近は言葉に敏感になってきました。
 昨日、西尾幹二氏の『ヨーロッパの個人主義』という本を紹介しましたが、学生時代(なんと40年も前!)の同時期に読んだ、同氏の『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を本棚から発見しました。
 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より、p.7)
 パラパラとページをめくると、こんな言葉が目に飛び込んできました。
 うーん。すごい言葉ですね。若い頃にはこの言葉の意味が分からなかったようで、赤の線は引いてありませんでした。自分というものは、歳を重ねるにしたがってその質量が増してくる。最後には自分としてしか世界を味わえないという諦め。このようなことをこの言葉から感じられるほどに長く生きてきたのでしょう。
 「個性は決して主張するものではなく、意図せず自然ににじみ出てくるものでなければならない」(p.118)
 ここには赤線が引いてありました。本を読み直すと、自分の来し方を振り返ることができますね。
 言葉に敏感になるということは人間に敏感になるということ。
 言葉に敏感になるということは自分に敏感になるということ。
 ふと、そんな言葉が浮かんできました。じっくりと考えられるようになったからでしょうか。
 「君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえてはいない。-それで、怠惰にさえもなれないのだ!」(p.114)
 おいおい、お前はどんなつもりでここに赤線を引いたのか!
 40年前の自分に尋ねてみたいところです。

生身

 昨日は週休日で、しかも、いい天気だったので、3時間半ほどサイクリングしました。春の香りがしてさわやかだったので、52キロメートルと、久しぶりにしては少々長い距離をこいでしまいました。
 自分の力で長い距離を走れることが、自転車のいいところです。もちろん、徒歩では10数キロが限界なので、自転車というテクノロジーを活用しているのですが、車と違って動力は自分の肉体です。自分の力で動いていると、車に乗っていては見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを五感で味わうことができます。そして、精神がいきいきと蘇ってくるような心持ちになります。これが生身の素晴らしさですね。
 話は変わりますが、昨日から、『個人主義とは何か』(西尾幹二著、PHP新書、2007年)を読んでいます。実は、この本は、1969年に『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)として出版された本の復刻版です。学生時代に読んだことを覚えています。前日、本屋で『個人主義とは何か』を見かけて購入し、再読しているところです。最近、昔の文章ばかり読んでいますが、時間に磨かれた文章は滋味ゆたかで、読み込めば読み込むほど、その深さに気づきます。
 読書ノートに抜き書きした部分を一つ紹介します。
 「ヨーロッパの技術文明は、自分の意志(ママ)で着たり脱いだりすることのできる衣裳ではない。いったん着用におよべば、着た人の身体ばかりではなく、その魂までをも変形させる不気味な力を持ったものなのである」
 明治維新、そして、戦後の欧米文明の導入について述べた文章です。ここで書かれている「技術文明」を「テクノロジー」や「ICT」、または「スマホ」に、さらには、「自動車」や「AI」に置き換えて読んでいます。
 最近、私は散歩や自転車がお気に入りです。

読解力

 昨日は、昼頃から生憎の雨になり、残念ながら馬鈴薯の種芋を植えることができず、その結果、地に足をつけるという「倫理的」な営みができませんでした。そこで、「晴耕雨読」という素敵な日本語に寄りかかって、本を読み続けました。
 さて、今日は、昨日読んだ『20歳からの〈現代文〉入門』(中島克治著、NHK生活人新書、2016年)から、いくつかの文を紹介したいと思います。私の拙い文章や考えより、良い本には良い言葉や文章や考えがたくさんあります。時には、「思想」という貴重な宝物も見つけることができます。私は目利きではないので、果たして私の選び出したものが「宝玉」かどうかは不明ではありますが、ご賞味ください。
 ただ、生徒たちに「読む力」を育てるのは大切だということ、そして、私たち大人も「読む力」を付けなければならないことを、一言付け加えておきたいと思います。
 「本を読む行為の中に、主体的な取り組みや模索を改めて組み込めないだろうか」「読んだ作品の、本当の価値の中に歩み出す」(読解という行為はただ意味を読み取るにとどまらず、そこから得たことをいかに生きる行為の中に組み込むか、そのことが大切だということだと私は理解しました)
 「私たちが本当に満たされるのは、自分がどのような人間なのかをつかんだ瞬間、そして、自分の心と他の人の心が通い合った瞬間です」(幸せとは何かを考える上で参考になりました)
 「今のインターネット上には情報があふれ、いいものも悪いものも嘘もまぜこぜになったような文章が氾濫しています。そんな『情報の洪水』に流されてしまわず、自分らしく生きるために必要なのが『読解力』である」(私も心からそう思います)
 「『現代文』のさまざまな文章を深く理解できる者は、さまざまな場面において、機敏に、そして慎重に対処するのです。また、人の輪の中にいて、率直に自分を表出し、人を共感させる力さえ発揮することができるのです。むしろ、悩み多き者とすらいえます。しかし、彼らはとても人間的で、自分の弱さをさえ直視しようとします。苦境を切り抜けるのに、小説的世界を重ね合わせたり、評論的なアプローチを行ったりしつつ、時には友人や教員を頼ることができるのです」(実は中島氏は私立中高一貫校の教員です。生徒たちをよく見ている先生ですね)

倫理的拒絶

 昨日のメッセージで、亀井勝一郎氏の『日本人の精神史』からの引用を、ひとつ忘れていました。
 「拒絶の政治的ポーズの大きさに比べて、拒絶の倫理的深さがない」です。
 とても重要な箇所です。日本人の抵抗というものが、たんに政治的な抵抗、しかも、ポーズに過ぎないとし、さらに、倫理的な抵抗がないという趣旨でしょう。「倫理的深さ」という言葉も洗練されていていいですね。
 今般、起業のデータ改ざんや偽装のニュースが頻繁に報道されています。これだけ掘れば出てくるような状況ということは、きっとそのあたりの土地のあちこちに埋まっているのでしょう。
 この問題には、法令の網の目をかいくぐり、見つからなければよい、という日本人の意識があると私は思っています。見つかろうとなかろうと、「狡いことはしてはならぬ。ごまかしはならぬ。卑怯はならぬ」という倫理観が日本人からなくなっているのです。
 集団で一人をいじめる。これは卑怯な振る舞いです。それは「いけない」と禁止されるものである以上に、倫理として「行ってはならぬ」と一人一人が「抵抗」しなければならない、まさに「思想」に関わることなのです。
 このような「倫理的な抵抗」が日本社会から消えつつある。すでに昭和30年代前半の文章で訴えられているくらいですから、その後半世紀以上経ったこの日本では消滅してしまったのかもしれません。
 最近、「企業倫理」という言葉に変わって、「コンプライアンス(compliance)」という横文字をよく見聞きします。この英単語は「法令に従うこと」という意味です。そこには「倫理」の意味は含まれていません。私は、この変化は単に流行というものではなく、意図的に使われているのだと邪推しています。「法令に従っていればよいのさ」。そんなふうに聞こえてきます。
 教育という人間の営みにおいては、「コンプライアンス」で処理することは、けっしてあってはならない。少々息ばりすぎでしょうか。少なくとも、「それでも開智未来生か」と生徒たちにも言えるように、私自身も、損得論に陥ることなく、「倫理的抵抗」を感じる感性と思想を持ちたいと思っています。
 今日も時代遅れになってしまったようです。
 曇天の日曜日、私は馬鈴薯の種芋を植える予定です。地に足をつけた、これも「倫理的」な営みだと直感しています。「倫理」には「人間」という概念が寄り添っているからです。

時代遅れ

 今日も亀井勝一郎をゆっくりと読んでいると、彼の言っていることが身にしみて分かるようになった自分を発見しました。
 高校時代、彼の『愛の無常について』や『我が精神の遍歴』を読んだことを思い出しました。その頃は、匂いを嗅ぐ程度しか読めていなくて、ほとんど意味が分からなかったため、それらの本の内容をまったく思い出せません。きっと何も得ることはできなかったのでしょうね。でも、匂いを嗅いだという経験は私を成長させたはずだと、昔の自分をかばいだてしたい気持ちもあります。
 「私は『思想』を『思想』たらしめる原動力のひとつは、拒絶の大きさだと思っている」「現代人である我々は、遺憾ながら深い拒絶を失っている」「我々は『ものわかりのよさ』と『あいまいさ』の中に漂っている自己を嫌悪しているのだ」
 自分には軸となる自らの思想がない。私が20代の頃からずっと抱いている感情について明確に書かれています。
 亀井氏は、「日本の思想」をつくる糸口を「日本人の精神史」に見出そうとしたに違いありません。この四部作を読めば、40年にわたる自己嫌悪を消し去ることができるのではないか。そんな期待を抱いています。
 さて、この文章は昭和30年代前半、私の生まれた頃に書かれたものです。「現代人である我々」の「現代」とは60年前のことです。自分の生まれた頃に書かれたことがまったく古くさくなく、亀井氏と対話するように読むことができる。
 救われた気分になります。亀井氏と知人になった心持ちです
 不勉強で能力がなかったため、今頃になってやっとわかり始めてきました。
 遅ればせながら、現代日本の不毛さに抗いながら、生徒たちに大切なことを伝え続けたいです。
 時代遅れと思われそうですが、時代遅れとは時代に遅れることではなく、時代を遡って過去と語り合うことだと考えれば、素敵なことですよね。
 やはり、読むという営みは、ゆたかな精神活動に違いありません。

読解力

 約40日ぶりのメッセージです。
 この「顧問感覚(コモンセンス)」は終了したのかとの質問を何度か受けましたが、執筆を開始できるほどに充電するまで時間がかかってしまいました。
 さて、この間、「読解力・言葉力・日本語」について勉強をしていました。日本人の「読む力」が弱まっているのではないかと感じたからです。もちろん、私も入ります。そこで関連した文献を読み、考え続けています。その範囲は、言語学、哲学、認知科学、脳科学、仏教、日本史、漢文、古文、現代文、英語、教育学など、かなりの広がりをもっています。
 文献を読みながら思ったことは、私自身、読解力がないということです。わからない言葉もありますし、何を言っているのか難解なところもたくさんあります。資料をたくさん読もうとして、速く読んでいると、あいまいなところをとばし読みしたり、浅く考えて分かったつもりになっていることがわかりました。
 そこで、じっくりと、というより、意識してゆっくりと読むことにしました。はっきりと分からないところでは立ち止まり、必要に応じてノートを取るようにもしました。自分自身の読解が「読解の実践」となっています。
 今読んでいるのは、『文学に現れたる我が国民思想の研究』(全8巻、津田左右吉著、岩波文庫)と『日本人の精神史』(全4巻、亀井勝一郎著、講談社文庫)です。津田左右吉氏の本は大正5年に書かれた本で、私が30歳の時にいつかは読んでみたいと思って購入した本です。かなづかいは当時のままで、漢字は新字体を採用しているとはいえ、ルビはなく、けっして読みやすいものではありません。漢字熟語などは今は使われていないものもあり、広辞苑や漢和辞典を引きながらの読解です。昔の人は旧字体で読んでいたのですから、日本人の日本語力は衰退したものです。
 亀井勝一郎氏の本は、大学生の時に途中まで読み始めた本です。40年ぶりです。読みながら思うことは、最近の本と比べて中身が濃いということです。途中、古事記からの引用などもあるので、まるで古文です。共に、日本人の考え方を古文時代から分析しており、1か月くらいかけて読み込んでいこうと思っています。
 私は無学だったと、今、つくづく思っています。
 今からでも遅くないと、ゆっくりと本を読み、じっくりと考え、確かで深い言葉で自分の考えをまとめていこうと決心しました。その成果を、このメッセージでお知らせしたり、「哲学」の授業に役立てられたらと思っています。
 明日も頑張って書く予定です。よろしくお願いします。

生きている実感

 高校3年生のセンター試験、そして、中学校入試全日程を終え、新たな週を迎えました。
 高校3年生諸君、中学受験生の皆さんは全力を出せたでしょうか。人生は続きます。まずは一歩、さらに一歩と前に向かって力強く進み続けてくださいね。
 さて、私の方ですが、合格祈願走(歩)では約17キロを踏破しました。その日の夜から膝が痛み、今も歩行に支障が生じています。
 歳は取りたくないものです。
 しかし、その痛みが生徒たちが直面している現実に、ささやかながらも私も関わっている証に感じられます。
 苦痛や絶望、焦りや緊張こそ、生きている実感。ものごとはマイナスに捉えるのではなく、プラスの意味で受け取るべし。
 苦闘している受験生に伝えたいと思います(自分に言い聞かせていることでもあります)。
 さあ、これからです。がんばれ!

祈り

 明日は、センター試験の初日、そして、開智未来の中学入試の最終日。開智未来に関わる様々な人の、様々な思いが注ぎ込まれる一日になります。
 大学入試を経て、3月に開智未来を卒業していく高校3年生たちには、センター試験で自分のもっている力を発揮してほしいと思います。明日は大学入試のスタートでこれから1か月を超える、自己との戦いが始まります。本日の集会で話しましたが、「立ち向かうこと」と「無心になって(問題を解くことに)没頭すること」が大切だと私は考えます。彼らが、一人で生きることを開始する瞬間です。開智未来を選び、3年間または6年間をここで過ごしてきた開智未来生よ、頑張れ!
 それに対し、中学入試は探究型入試も合わせると6回ある入試の最後となります。これまで落ち続けた受験生もいると思いますが、最後まで立ち向かってほしいと思います。最後まであきらめずに戦った者は、必ず何かを得ることができる。それは自信であり、自負心であり、納得であり、そして「合格」でありましょう。小学6年生でありながら、ひたむきに問題と格闘していた、未来の開智未来生の皆さん、頑張ってくださいね。
 さて、私は恒例の「合格祈願走」を実施します。10月のプレ合格祈願走で25キロメートル走って痛めた膝が完治していないので、歩くような祈願走になりますが、開智未来に入学してくれた君たちへの、お礼と感謝の気持ちで湯島天神から草加駅までの15キロを走破したいと思います。この合格祈願にはH3学年主任の寺岬先生と伊東先生も参加します。特に伊東先生は春日部市の試験会場まで走る予定です。
最後まで開智未来中学に受験してくれた皆さんにお会いしたいので、草加駅から電車で柳生駅に移動し、12時には学校に到着したいと思っています。これから開智未来を飛び立つ受験生、そして、これから開智未来で学ぼうとしている受験生のために、それぞれの思いを感じ取りながら、走って(歩くように見えるかもしれませんが)きたいと思います。
 戦うのは受験生。私たちにできることは祈ることだけです。
 開智未来に入学してくれてありがとう。開智未来を目指してくれてありがとう。走りながら祈り続けたいと思っています。

一夜明けての夢

 昨日、第1期中学入学生の「成人式の集い」がありました。
 成人式後の集まりは、地元の出身中学校ごとに行われることが多く、中高一貫生にはそのような場がないことから、同窓会を兼ねて大宮に集まりました。参加者は約7割。教職員も7名が集まりました。
 中学入学生は説明会や入試からの付き合いで、小学生時代の姿も知っています。12歳の頃の面影を、目前の二十歳の彼らに見出しながら、ビールを飲み交わしていると、まるでわが子と対面しているような気分になりました。
 まだ学校が完成していない頃から、各地でサプリを行いながら説明会を実施し、5人、10人と集まった親子を前に、開智未来の夢を語り、集まってきてくれた彼らです。
 彼らは開智未来に入学して幸せだったのだろうか。この学校を選んだことは誤りではなかっただろうか。
 校長として彼らを迎えた者として、ずっと自問してきたことです。顧問となった今でもその自問は続いています。学校を開いた校長として、これからもずっと背負っていく問いでありましょう。
 こうやって多くの卒業生たちが来てくれたのだから、きっと彼らはこの学校を選んだことを悔やんではいないに違いない。
 帰りの電車の中で、第1期生たちからいただいた花束を見つめながら、そんな希望的観測を反芻しました。
 これまで高校入学生も含め、多くの卒業生がこの学校で大切な時期を過ごし、巣立っていきました。今年の3月には第6期高校入学生と第3期中学入学生が卒業します。
 開智未来がどんな学校であるか。それは卒業生たちの未来の姿によって決まるでしょう。大人になった彼らの未来こそが開智未来である。そんなことを考えながら、いつしか、彼ら自身が開智未来の教員として、また、彼らの子どもたちが開智未来生として戻ってきてくれることを、一夜明けて、夢みています。

未来の足音

 中学入試2日目。今日は午前中は「探究型入試2」、午後は「未来A入試」です。
 昨日よりも温かい朝となりましたが、強い風の中、85名の受験生が開智未来に集まってきました。
 さて、昨日の合格発表では、合格発表サイトへのバナーを貼った本校ホームページへのアクセスが集中し、サーバーがダウンしてしまいました。すぐに志願者の皆様へはメールにて合格発表サイトのURLをお送りさせていただきましたが、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
 8年前のこと、本校初めての、第1期生の第1回入試においても同じことがありました。その時は本校のホームページ上で合格発表をしたのですが、やはりアクセスが集中して、ホームページ自体が壊れてしまうという事態になりました。第1期生たちの、新設の開智未来への思いが強かったからでしょう。深夜午前2時まで当時の加藤教頭と西木広報部長で対応したことも今では懐かしい思い出です。その後、現在のように合格発表サイトを通して無事に発表をしてきたのですが、今年度は、受験生が増加し、その熱い思いが臨界面を超えてしまったのかもしれません。新たな改善をしていきますのでよろしくお願いいたします。
 今、午前中の「探究2入試」が終了しました。多くの受験生たちは「ありがとうございました」と私に声をかけてくれます。素敵な子どもたちです。
 午後は「未来A入試」です。受験生の皆さん、頑張ってくださいね。
 強風の中、あらたな「未来」の足音が聞こえてくるようです。春が待ち遠しいです。

頑張れ、中学受験生!

 大変遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。
 最近、常套のフレーズになってしまいましたが、「久しぶりのメッセージで申し訳ありません」。文章を書いて公表するという緊張感に耐えられないほどの「身心度」になってしまったのでしょうか。深く反省する次第です。
 さて、今日から中学入試が始まりました。今日は、午前中に「探究1」入試、午後は「第1回入試」です。
 今朝は、氷点下の中、開智未来で受験生を迎えました。
 「おはようございます」。息を白くして挨拶をしてくれます。「頑張ってね」「ありがとうござます」。礼儀ただしい、そして、素直な受験生たちです。きっと第9期生もいい開智未来生になる。嬉しくなりました。
 あれから8年。
 中学第1期生たちは4日後、成人式を迎えます。開智未来の初めての入試のことを思い出しました。その後、こうやって毎年、挨拶を交わして受験して、開智未来生たちは未来に入学してきました。
 ここに未来がある。私の物語が始まる。
 やはり感無量です。
 未来の開智未来生の皆さん。これから続く、受験の日々を頑張ってくださいね。そして、ぐんぐん成長していってくださいね。
 もうすぐ午後の試験が始まります。受験生の皆さん、頑張ってください。応援しています。

久しぶりのメッセージです

 本当に久しぶりのメッセージです。
 ホームページが更新されて、メッセージを送信できるように調整するのに時間がかかたことも一因ですが、加えて、私が楽を覚えてしまったことも原因だと反省しています。
 何を書こうか。どんなことを書いたらこのメッセージを読んだ人のためになるだろうか。
 文章を書くことも大変ですが、それ以上に、何を書いたらよいかを考えることの方が難しい作業です。書くためには本を読んだりして勉強しなければなりませんし、成長しなければなりません。そういう意味で、このメッセージを書くことは日々の生き方が問われるので、楽をしたいと思ってしまったのでしょう。
 開智未来の開校前、つまり、8年前からこのメッセージを書き始めて、執筆が私の生活の一部となっているので、やはり、これを書かないと、大切なことをせずに1日過ぎてしまったという気持ちになってしまいます。
 生徒たちに負けないように勉強して、そして、少しでも成長して、メッセージを書き続けたいと思います。
 さて、今日は冬期講習の最終日。明日から本格的な冬休みに入ります。そして、新年を迎えることになります。これからもよろしくお願いします。

学びの道

 ご無沙汰しています。久しぶりのメッセージとなりました。
 さて、昨日に引き続き、今日も大学勤務です。
 自宅から大学まで2時間強かかります。往きは加須駅まで妻に車で送ってもらうのですが、帰りは徒歩となります。はじめの頃はこの長い通勤時間が「つらいな」と思っていましたが、連日の通勤も心地よくなってきました。
 やはり考え方一つですね。
 まず、大学と柏駅間の約30分の徒歩ですが、先日のメッセージにも書きましたが、「哲学の道」(The Road for Philosophy:略してRFP)と名付けました。もちろん、ウォーキングのエクササイズでもあり、姿勢をただして歩きます。背負ったDバックは重りとなります。併せて、歩いたり自転車に乗ったりしている人々の観察もします。今日はウォークマンで英語の音源を聴いてリスニングの勉強をしました。歩くリズムと身体活動が思考を深めてくれます。
 春日部と柏間は必ず座れるので、私にとって動く書斎になっています。Dバックを机がわりにして、資料を読んだりノートを書いたりして45分間を過ごします。往きは柏駅が終点なので乗り越す心配はないのでかなり集中できます。しかも、雑踏の中は集中できるものです。スタバで勉強がはかどるのと同じです。さらに、ほどよい振動も思考力を高めるようです。
 加須-春日部間は座れません。そこでつり革につかまりながら、足腰のトレーニングをしながら、「想起法」を実行しています。ポイントはテーマを設定することです。今日は「失敗が成功のもとになるのはなぜか」について、頭の中で英語で説明しました。英語のリスニング勉強をするときもあります。
 そこで電車の中を「移動学習空間」(Moving and Learning Space:略してMLS)と名付けることにしました。
 帰りの加須駅から自宅までは、約20分間、田園風景の中を歩きます。川沿いを歩いたり、木々の中を歩いたりしながら、五感を研ぎ澄ませて、自然を楽しみます。「観察の小径」(Observating Path:略してOP)と名付けました。
 さて、大学の会議が終わったので、これから自宅へ戻り、用務があるので開智未来へ行きます。今日は「職場のハシゴ」です。RFP→MLS→OPのプロセスを満喫したいと思います。ちなみに、自宅から開智未来までは車です。車内では、12月13日の身体表現発表会に向けて、音楽に合わせてダンスの練習をしながら運転する予定です。「Dancing Drive」。DDです!

人が見える

 今日は大学です。やはり、開智未来とは別世界ですね。
 不思議です。私はどこにいても私なのに、開智未来にいる私と大学にいる私が自分自身違う人間であるように感じてしまいます。
 柏駅から大学まで、25分の徒歩での移動中、通りの人々や住宅を見つめながら、いろいろなことを考えています。歩くのは大変ですが、けっこうお気に入りの時間です。
 この家ではどんな人が住んでいるのだろう。
 どんな団らんがあるのだろう。
 この花を植えたのは誰だろう。
 こんな「開智未来の教育」の詩(アフォリズム)を考えました。
〈見る①〉(「五感」シリーズ)
 そこにいない人を意識して見る。
 刈り取り後の、蘖(ひこばえ)の田んぼを見ながら、春に田植えをしていた人を見出す。
 雨戸の閉まった2階の部屋を見上げながら、育った子供たちの姿を見出す。
 そこにいたであろう人の姿を私たちはありありと想像することができる。
 この世界は人に満ち溢れている。
 それほど、人間は人間が好きということだ。
 
 さて、明日は中学部の合唱祭です。私は南浦和の日能研で親サプリをしてから向かいますので、会場には1時20分頃到着します。ぎりぎり間に合うでしょうか。
 一生懸命練習している姿がありありと浮かんできます。
 それほど、開智未来生が好きだということなのでしょう。

試み

 先日、一昨年出版した『学びのサプリ』の第2弾として『学びのサプリ(詩集編)』の企画を思いついた。論理的な説明では間延びする。科学的に追究するにはもっと学問を深めなければならない。理論化は別の機会とするとして、論理になる前の直感を「詩」として表したら、よりサプリの思想が広がり、また、深まると考えたからである。しかも、情感に届けることができる。
 そこで、開智未来のキーワードを詩にする作業を開始した。一種のアフォリズムである。
 この作業がなかなかおもしろい。『学びのサプリ』は筆が進まなかったが、今回はふと気がつくと、サプリの詩を考えている自分がいる。
〈未来スマイル〉
 きっと、生理学的に、心理学的に、そして、哲学的に説明できるのだろうけど、笑うと幸せな気分になる。
 唯一、意識的に笑うことのできる動物である人間は、カブトムシや水仙の花やイヌやネコよりも、幸せな生き物であるにちがいない。
  スマイルを掲げた学校。
 未来へのスマイル。
〈うなずき〉
 意識してうなずくと幸せを感じることができる。
 無意識にうなずく人はすでに幸せである。
 だが、幸せである人は特段に幸せを感じることはない。
 しかし、幸せを感じる人より、間違いなく幸せである。
 「であること」と「感じること」。
〈嗅ぐ〉(「五感」シリーズ)
 朝食の香りを楽しんでいるかな。
 早春の沈丁花、初夏のクチナシ、初秋の木犀はさらなり、
 春は桜、夏は夕立、秋は栗、冬は雪。季節を嗅ぎ取る臭覚を持とう。
 そうすれば、人格の臭いを嗅ぎ分ける人になれるよ。

いい所

 ただ今、16時43分にカナダFWの2Hの生徒たちが羽田空港に到着したとの電話が校長先生から入りました。これで初めてのアメリカとカナダの同時進行FWが無事終了しました。
 開智未来は夕暮れ。職員室では、先生方が安堵の表情で、仕事をしています。
 やっぱり、ここはいい所です。

わが子の重み

 2Sの生徒たちがワシントンFWから無事成田空港に到着したとの連絡が入りました。カナダFWの2Hの生徒たちももうすぐ到着するでしょう。加藤校長、藤井教頭、そして引率の先生方、お疲れさまでした。
 1週間ずっと開智未来で勤務して、久しぶりに担いだ肩の荷が、今、下りようとしています。やはり、開智未来中学・高等学校はずっしりと重いですね。あたかも、昔背負ったわが子の重みを懐かしむような気持ちです。
 この間、十分に時間があるので、哲学の授業や東大ゼミ・先端コース以外に、高校3年生の面接指導をしました。どの生徒も真剣で、そして、純粋で、成長していました。これもまた楽しいひとときでした。
 さて、明日から、開智未来と大学で交互に勤務する日々に戻ります。しばらくは背中が寂しいかもしれませんね。
 気が付けば11月。私にとって大きな変化のあった平成30年も残すところ2か月となりました。一日一日を大切にしていきたいですね。

山河あり

 久しぶりのメッセージです。すみません。
 加藤校長と藤井教頭が、共に海外FWを引率しているため、この間管理職が不在にならないようにと、大学で勤務せずに開智未来に先週の木曜日から毎日来ています。昨年までは当たり前のことでしたが、懐かしい気分になっています。昨日は、宇都宮線が人身事故で不通になり、慌ただしくその対応をしました。
 校長の頃は、週休日であっても登校時間の交通状況が気になりました。また、台風が来るとその対応へ向けて準備を始めました。今日でちょうど1週間、そんな気分になっています。明日の夕方、アメリカから、そして、カナダから生徒たちが帰国します。あと1日半。高校2年生たちは現地での最後の夜を過ごしているはずです。
 今朝は冷え込んだので、開智未来から360度、山々のパノラマが見えました。富士山はすでに上部が雪に覆われ、北東の筑波山、西北の男体山、西へ目を転ずると、遠くに信州の山々、さらに秩父の山々や浅間山、そうして、南には富士山が見えます。
 「何もないところですが、360度の山々とゆたかな田園があります」
 そんなうたい文句で開校初年度に集まってきた中学入学生はすでに大学2年生に、高校入学生は社会人1年生になっています。
 「夢叶って山河あり」(「夢破れて山河あり」のパロディです)。
 第9期生の生徒募集も大詰めの季節となりました。360度の山々とゆたかな田園を目指して、開智未来に向かっている凛々しい表情が浮かんできます。
 やっぱり開智未来はいいですね。
  再び、高校2年生の皆さんへ。大きく成長して、元気に、開智未来に帰ってきてくださいね。

先生方の未来

 今日から高校2年生たちは海外フィールドワークです。
 ワシントンFWは午後2時に成田駅集合、カナダFWは午後3時30分に羽田空港に集合とのこと。開智未来生の皆さん、パスポートだけは忘れないでくださいね。天気も快晴。快適なフライトを祈っています。
 さて、校長先生と教頭先生が引率していますので、この間、顧問の私が管理職の一人として学校の留守番をしなければなりません。大学の学長にお願いして、11月1日(木)の夕方に校長先生と教頭先生が帰国するまでは、毎日開智未来に出勤することにしました。
 今年になって、月曜日が開智未来、火曜日が週休日、水曜日が大学、木曜日が開智未来、金曜日が大学、土曜日が開智未来、と交互出勤の腰の据わらない生活をしていたので、新鮮な気持ちです。しかも、大学へはDパック、開智未来には鞄で出勤し、毎回荷物を入れ替えていたので、シンプルな生活になりそうです。
 今朝は、始業前に中学3年生の「先端コース」講座を行って、職員朝会を行いました。これから四谷大塚柏校で学校説明があるので、出張になります。3月までの生活に戻ったようで懐かしいです。
 校長時代は肩に力が入っていましたが、本日、朝会でこの間のことについて話をした時に、先生方のまなざしの真剣さと温かさを感じ、いい先生方だなとつくづく思いました。
 先生方はこの開智未来での仕事を楽しんでいるだろうか。自分を生かしているだろうか。それぞれの思いがあると思います。それぞれの人生があります。それがいとおしく感じられるようになりました。
 開校したときに、開智未来の「未来」について、それは生徒たちの未来、保護者の皆さんの未来、教育の未来、日本の未来、そして、先生方の未来と言ったことを思い出します。もちろん、私の未来でもあります。
 それから8年が過ぎようとしています。今はあの時の未来です。私は、この先生方に、もちろん一部ではありますが、どのような未来を差し上げることができたのだろう。ふと、そんなことを考えてしまいました。
 では、これから柏市に行ってきます。柏市にある開智国際大学には今日から11月1日まで出勤しないことになったのに、初日から柏市に行くことになりました。妙な気分です。
 それから、高校2年生の皆さん。勇気をもって意欲的に、充実したFWを送ってきてくださいね。

いい気持ち

 昨日、週休日に大学へ出勤したので、今日は振り替えで自室にこもって『月刊高校教育』の原稿を書いている。
 明後日の昼が最大限度の締め切り。まだ一行も書けていない。そろそろ書き出さなければ間に合わなくなるので、やっとワープロに向かったが書き始められない……。そんな最中にこのメッセージを書いている。
 親サプリで「グズはいけない」と言いながら、筋金入りのグズである。
 「差し迫って崖っぷちに追いつめられれば、神が降りてきて、必ず原稿が書ける」
 そう言い続けて10年が経つ。
 さすがに、これまでなら一行ぐらいは書き始めていた。今回はその一行も出てこない。
 昨日のメッセージに書いたように、「やっぱり焼きが回ったか。」
 今回の原稿のテーマは「反応」である。もちろん、「6つの授業姿勢」の「反応」のことである。言いたいことは、反応という日常語を、教員の側からも生徒の側からも深めて「教育用語」へと高めた、と言うことである。少々、自画自賛であろうか。
 400字詰め原稿用紙11枚。エッセイ風に仕上げることを旨としているので、読売新聞のコラム「編集手帳」よろしく、話を左右へと動かして、まとめてみたい。もちろん、私の力量を超えている。
 先日、編集長と電話で話をした。
 「今、教育現場に元気がないと思うんです。ですから、読者が元気の出るような、頑張っていこうよと声を掛けるような原稿にしたいですね」
 「いいですね。お願いします」
 後悔している。その言葉が足かせになっている。
 われながら、さっさと取りかかればいいのに。でも、日本中にいる読者を元気づけたい。その志を察して、神はきっと降りて来てくれるだろう。
 このメッセージを読んだ開智未来生たちは、顧問の私のグズさに嘲笑するに違いない。私以下だね、と。
  弱みを見せられるのも顧問の特権である、と開き直ってみる。
 やっぱり焼きが回ったか。
 でも、それも結構いい気持ちである。
〈追伸〉
 明日から、高校2年生たちは海外フィールドワークです。中学入学生はアメリカへ、高校入学生はカナダです。準備は出来ましたか。英語が心配な人もいるでしょう。12時間という長いフライトを不安がっている人もいるでしょう。勇気をもって思い切り海外に飛び込んできてくださいね。

ロースト

 昨日のメッセージに表れているように、最近妙にやさしくなってきたように思える。
 今朝、柏駅から開智国際大学へ向かって歩いていると、小雨の中、スーツ姿の母親が幼児を自転車の前に乗せて、駅に向かう坂を上っている。きっと保育園に寄ってから会社へ出勤するのだろう。3歳くらいの男児が私の方をちらっと見た。かわいい盛りだ。共稼ぎだろう。これから大変な時期が続くだろう。男児はどんな人生を歩むのだろうか。
 ある会社の門近くで、初老の女性がカッパを着て草取りを始めようとしている。かなりの歳に見えるが収入が必要なのだろう。人間は生きるために働かなければならない。私はその年齢まで働けるだろうか。
 大学の近くにある家は、2階の雨戸がいつも閉まっている。老夫婦が住んでいるが、現在、2階を使っていないに違いない。昔はこの2階に子ども部屋があって、子どもたちは巣立っていったのだろう。手入れされた庭木に雨露が結んでいる。
  その度に、なぜか胸がつまる。彼らはどんな思いで生きてきたのだろうか。
 焼きが回ったのだろうか。焼きが回ってもほどよいローストなら香りのあるコーヒーになる。オーバーローストでは苦くて閉口だ。
 大学へ行く時は、加須駅まで妻に車で送ってもらっている。今朝も家に戻っていく妻の車を見送っていると妻の運転する姿が見える。彼女はどんな思いで生きてきたのだろうか。
 やっぱり焼きが回ったか。

遅ればせながら

 2学期に入ってから月曜日が休日のことが多く、1か月半ぶりの月曜日の「哲学」(中学1年、中学2年、高校1年)の授業でした。
 それぞれの発達段階に応じて、中学1年「哲学」では「学び合い」を、中学2年「哲学」では「中学2年という時期」を、高校1年「哲学」では「考えるということ」をテーマにして授業をしました。その時々の自分を思い出しながら、タイムマシーンで旅しているような1日でした。
 久しぶりに会ったからでしょうか、真剣に授業を受けている各学年の生徒たちを見ながら、どの生徒もかけがえのない自分の一生を、文字とおり一生懸命生きているのだな、と痛切に感じました。当たり前のことなのですが、一人一人がいとおしいですね。
 生徒たちをいとおしく思う。
 これまでになかった感覚です。
 これまでは、生徒たちを伸ばそう、育てようと思っていました。もちろん、その思いもあるのですが、それ以前に存在自体を大切に感じるのです。
 当たり前のことかもしれません。
 やっと当たり前のことを感じられるように成長したのでしょう。遅ればせながら成長中。生徒といっしょです。

幸せになる方法

 今日は高校募集の体験入学です。80組近い方が参加してくれました。
 私は中学生ミニサプリと親サプリをともに15分間行いました。顧問というやや自由な立場から、中学生たちやその保護者の方たちのことだけを考えて、時には、言いづらいことも遠慮せず正直に話しています。とても楽しいです。
 サプリを聞いている人も私が楽しんで話していることが分かるのでしょう。いい表情で聞いてくれます。
 「点数を上げようと勉強してはいけません。頭をよくすることです。もちろん、頭が良くなれば点数も上がります」
 中学生ミニサプリは、こんな調子で始まりました。
 「頭の悪い人は無表情な顔をして授業を受けます。賢い顔をして、積極的にうなずきながら話を聞きましょう。それから18ページを開けなさいと言われたらすぐに18ページを開けましょう。頭の悪い人はグズグズして反応しません。指先も器用に動くようにしましょう」
 勝手なことを言っていますね。
 親サプリでは、こんなことを話しました。
 「保護者の方にお願いがあります。お子様の前で人の悪口を言わないようにしてください。その毒がお子様を蝕んで、人の悪口を言う人間になってしまいます。人の悪口を言う人間に育ってほしいですか。それに、親から人の悪口を聞き続けた生徒は、何事も人のせいにする人間になってしまいます。自分が勉強しないのに学校が悪いとか、先生の教え方が悪いとか言うようになります」
 うなずいて聞いてくださる中学生たちや保護者の方を見ながら、ありがたくて、嬉しい気持ちに浸っています。
 さて、これから個別相談で学習アドバイスをしたいと思っています。
 人のために生きる。
 これは年配者が幸せになる方法ではないでしょうか。

秋晴れ

 今日の午前中は、中学1・2年生のペア駅伝と中学入試の「探究型入試説明会」が同時併行で行われます。加藤校長と藤井教頭がペア駅伝に関わり、顧問の私が説明会に関わることになりました。
 このペア駅伝は開校年度より行われているもので、今年で8回目になります。共に走る相手の息づかいを感じて他者を理解すること、そして、力を合わせることで一人以上の力を発揮することを学ぶ教育活動です。今年は応援できないのが寂しいですが、きっと頑張ってくれるものと思います。来校の保護者の皆さん、私に代わって応援をよろしくお願いします。
 探究型説明会は、今の中学3年生の入試の際、未来型入試として始まったものです。昨年から、社会探究と科学探究に分けて「探究型入試」と変更し、1回だった入試を2回に増やしました。学びの基礎となる読解力と計算力をそれぞれ「読解基礎問題」と「計算基礎問題」で評価し、さらに、思考・表現力を「探究問題」で問います。大学入試が2020年度から大きく変わりますが、その入試改革と軌を一にする入試です。
 私はこの探究型入試に期待をかけています。この入試で開智未来に入学した生徒は、開智未来の教育でさらに成長し、単に大学入試だけでなく、大学入学後、さらには大学卒業後に社会で活躍して人々に貢献し、身心ともに成長して幸せに生きていけると考えています。
 今日はこれからどのような学びをしていったらよいか、保護者に対してもどのようにお子様を育てていったらよいかについて、説明できたらと思っています。
 最近、自分の年齢について言及することが増えていますが、60年も生きていると何が大切か、何をどの時期に行うべきか、自分をどのように成長させたらよいか、そんなことが多少なりとも見えてきます。そうやってものごとが見渡せるようになって、「探究型入試」の意義を再認識しています。
 秋晴れの中、校庭では中学1・2年生たちが躍動しています。アカデメイアではこれから開智未来で躍動するに違いない小学6年生たちがその準備を始めます。
 清々しい天気が彼らを応援しているようです。
〈追伸〉
 おかげさまで、左膝の痛みも和らいできました。

悲しい自問自答

 昨日は午後3時までお休みをいただき、孫娘の保育園の祖父母遠足に参加してきました。
 これは5歳と6歳のクラスの行事で、子どもたちと一緒に保育園から近くのコスモス畑と公園に歩いて行って、昼食をとって帰ってくるという日程です。妻が仕事で参加できないので、私が行くことになりました。
 8時50分に集合し、歌の披露を受けた後、懐かしいお遊戯を一緒にして、9時半頃に出発。目的地までは手をつないで行進し、2時頃に園に帰ってきました。「身心開放」で恥ずかしさや照れを克服すると、多くの園児と「稚心」そのものになって楽しむことができました。まるで「良寛さん」のようですね。これを世間では「好々爺」と呼ぶのでしょうか。
 若い保母さんからは、「すずらんちゃんのおじいちゃん」と呼ばれて、どんな顔をしたらよいのか困ってしまいました。ちなみに、ウォーキングということなので、私はバリバリのスポーツウェアで、トレイルラン用のリュックを背負い、ランニングシューズのいでたちでした。何しろ、スーパーエイジングですから。
 園児たち同士の会話を聞くのも、楽しいことでした。言い合いになることもありますが、どちらにも言い分があって、子どもなりにいろいろと考えていることがわかります。また、言葉もかなり発達しています。
 生徒たちと比べても、私たち大人と比べてもそれほどの差はないのでは、と思ってしまいます。逆に言えば、その後あまり成長させていない、とも言えます。
 教育というものは、未開発な領域かもしれませね。
 ところで、一夜明けて、1週間前のプレ合格祈願走で痛めた左膝が、再びかなり痛くなっています。
 年齢に抗うべきか、年相応になるべきか、悲しい自問自答をしています。

哲学する庭師?

 昨日は週休日で、先週に引き続き家の植木の刈り込みをしました。
 今回は西側にある、2本の金木犀の木です。20数年前、50センチにも満たない苗木を、何かの景品のようなものとして貰って植えたものです。西側なので目につくことが少なく、無精にも一切手をつけなかったため野放図に育ち、2階の窓に達するほどに巨木化していました。
 枝を間引きしないと木の枝は内部に密集するものですね。枝分かれした枝を選んではノコギリで切り落とし、その上で小枝を植木ばさみで剪定することにしました。
 切りながら、精神や脳の中も、不要な枝を切って風通しをよくしなければいけない。
 不思議なもので、密集した太い枝にノコギリを無心に引いていると、勝手に思考が湧いてきます。これは草取りの時にも起こることです。
 妻と一緒に格闘すること6時間。2本で軽トラック4杯分の枝葉が出ました。
 身体労働というものはなぜかくも気持ちがいいのでしょうか。
 作業の結果が目に見えるから?
 それだけではないように思います。
 今朝、開智国際大学へ向かう車中で、『頭がよくなる思想入門』(新野哲也著、新潮選書)を読み直しました。この本は保護者会報「ビリーブ」で推薦した本ですが、私はこの本を何度も読み返しています。私の座右の書の一つです。ちなみに、すでに絶版となっており、残念です。
 こんな文章が眼に飛び込んできました。
 「理屈の世界に迷い込むと、考えなくてもわかることがわからなくなってくる」
 「直感は現実や身体感覚に根ざしている。一方、意識や言葉は、現実を離れて浮遊する」
 「現実だけに目を向けていると、役に立たない空想がいつのまにか消え去り、目の前にクリアな現実が広がってくる」
 庭仕事や畑仕事と哲学は相性がいいようですね。
 特に庭仕事にはまりそうです。

肩の荷を下ろして

 今日は開智未来での勤務です。早朝のアカデメイアで生徒たちと一緒に勉強しました。今日から中間考査ですが、アカデメイアはいつもと変わらぬ空気です。これが開智未来の素晴らしいところですね。
 顧問となって肩書きという肩の荷を下ろして、ありのままの自分を、子どもの頃を思い出しながら、見つめてみると(自分を見つめるほど余裕があるということですね)、自分というものが、つくづく、「臆病で、不器用で、融通が利かなくて、自分本意で、グズグズしていて、組織が苦手で、人見知り」だと思います。これでよく生きてきたものです。ただ、「飽きずに頑張り続けることができて、身の程知らず」なのでここまでやって来ることができたのかも知れません。
 「嫌われるほどではないが人に好かれる人間でもなく、わずかばかりの愛嬌が救いの人間」と、肩書きがなくなったからこそ、正体が丸見えになって、自分を正しく認識できるようになったのでしょう。
 自分よりダメじゃないか、と思う生徒もいるでしょう。安心してください。それでも人間はしっかりと生きていけるものなのですよ。
 それでも、自己を卑下することもなく、自分を嫌いにならない。だから自分というものは面白いと思えるのは、齢を重ねたからでしょう。
 肯定でも否定でもない自己受容。劣等感も優越感も超えた平常感。それでも成長し続けたいという体内エネルギー。
 AIの発展、資本主義の行き詰まり、ネット社会の進展等、社会の急激な大変化が予想される中、自己受容・平常感・体内エネルギーが重要なポイントとなるに違いありません。
 ちょっと話が大きくなりすぎですね。
 これからの教育はどうあるべきか。人間をどのように育てたらよいか。
 考える時間がたくさんあるのが嬉しいです。

懲りない人間

 今日はどうにか歩行できるようになり、開智未来で元気に勤務しています。
 1時間目は中学3年「哲学」です。ねらいは、言葉と思考。61歳の私が考え尽くしたことを、丁寧に伝えることを意識して授業を行いました。
 「哲学をお子様ランチにしたくはありません」
 こんなことを生徒たちに言いました。
 中学3年という発達段階は考慮しますが、相手は中学生だからと話のレベルや内容を落とすつもりはありません。大人にも通用する、小ぶりですが質も味も良いハンバーグやナポリタン、フライドポテトを提供したいと思っています。
 「人間は一つの美徳があれば、その美徳で立派に生きていけるものです。あなたにはどんな美徳がありますか」と生徒に投げかけたあと、「長所と美徳の違いを説明しなさい」という課題を出しました。
 大人でも難しい問いです。私も考え続けています。
 「自分で使う言葉は自分で説明(定義)できなければなりません。自分で説明できないような言葉を話しているから考えが深まらないのです」
 生徒相手でも真剣勝負できる、現役の人間であり続けたいものです。
 ちなみに、私は「現役の人間とは、全力で走り、全力で生き、成長し続けようとする者である」と定義しています。
 早く足を治して、全力で走りたいです。本当に懲りない人間です。

身の程(つづき)

 昨晩から腰から両足にかけての筋肉痛、さらに、悪化した左膝痛で苦しんでいます。今朝はまともに歩行できない状態で、内臓も少々ダメージを受けているようです。
 これが、今の私の「身の程」なのですね。
 それでも、昨日の「強烈走」をすでに懐かしんでいて、正しくトレーニングして体調を万全にして臨めば、もっと楽しく走れるだろうと考えています。我ながら全く懲りていません。
 今現在かなりの痛みを感じているのに、歩行困難なので大学に出勤できないと欠席連絡をしているのに、さすがに医者に行こうと思っているのに、身の程を忘れてしまっている。
 この自己意識こそ、人間の不思議で面白いところなのかもしれません。
 もちろん、いつかは身の程を受け入れなければならない時が来るでしょう。しかし、それまでは強烈に身の程を忘れて生きていきたいですね。
 自転車で日本中を走り回りたい。野山を歩き回りたい、できれば走り回りたい。開智学園の仕事では若手教員を育てる取組をしたい。日本に開智教育研究所の成果を広めたい(まだ成果すら出してはいませんが)。英語を使えるようにして、勇気をもって海外へ出向きたい。まずは、12月のこいのぼりマラソンで10キロメートルを生徒たちと一緒に激走したい。身体表現発表会で創作ダンスを踊りたい。そして、1月19日(土)の合格祈願走では湯島から再度走りたい。
 人はときどき身の程を言い訳の材料にする。
 身の丈に合わすのではなく、身の丈を伸ばす。
 今日は自宅で静養することにしました。左足がしきりに疼いているのですが、身の程知らずの夢に向かって、一日を過ごそうと思っています。

身の程知らず

 プレ合格祈願走をどうにか走ってきました。
 計画では春日部駅まで35キロメートルを走るつもりでしたが、今の私にはその力がなく、北越谷駅までの25キロメートルまでとなりました。
 走りながら、つくづく「身の程知らず」だと思いました。普通なら身の程の範囲で、せいぜい10キロメートル当たりが順当でしょう。実際、10キロを過ぎてからは足が痛くて、一時期走れませんでした。しかし、不思議ですね。身の程を知らんふりしていると、だんだんと、ゆっくりですが走れるようになってきて、しかも、辛いのですが楽しくなってきて、時々幸せな気持ちにもなってきました。
 身の程知らずだからこそ味わえる幸せ。
 そんなことを感じていました。
 考えてみれば、開智未来を創ったのも身の程知らずだったからでしょう。身の程知らずに、各地でサプリを行って、開智未来生たちが集まってくれました。私が身の程を知っていたら、きっと開智未来はこの世に出現しなかったに違いありません。
 身の程知らずは、けっして自信家ではありません。ただ自分の出来る範囲に対して無知なだけです。
 小賢しく自分を知るよりも自分を知らぬ方がいい。
 これからアスリート、アーティスト、そして、フィロソファーになりたいと身の程知らずに考えています。

強烈

 今日は大学勤務の日。柏駅までの電車の中で『自分の始末』(曾野綾子著、扶桑社新書)を読み返しいると、「いい生涯というものは、例外なく強烈だ」という、鮮烈な言葉に出会いました。
 「強烈な人生」
 私が追い求めている人生のあり方を、見事に表現した言葉を発見して小躍りしてしまいしまた。。
 これまでうまい表現が見つからずに、自分がどのような生き方をしたいのかがはっきりとわかりませんでした。言葉を獲得しないと私たちは自分の知りたいことを理解できないものです。
 よい悪いではない、成功した成功しないではない、人から評価されるされないではない、自分として納得する生き方。
 「強烈な」とは利害でも理屈でも捉えることのできないもので、「鮮やかさ」や「まぶしさ」を伴った形容動詞です。わずかながら美意識も含まれ、かといって審美的ではない。
 県立高校を辞して開智未来を開設した9年間は、私にとって強烈な人生でした。妻子を実家に戻して上越教育大学大学院で学んだ2年間も強烈な時代でした。
 これからは「強烈」を呪文にして毎日を過ごしてみようと思います。
 明日は、プレ合格祈願走を強烈に走り・歩きたいと思います。湯島天神から春日部駅までの激走ならぬ「強烈走」です。実際、左膝痛と両足の慢性筋肉痛で辛くなりそうですが、「強烈走」と考えれば、元気に楽しく・苦しく(楽苦しい:たのくるしい)頑張れそうです。
 まず、これから夕方の会議までの時間を、強烈に草取りをしたいと思います。

「10時間勉強マラソン」実施中

 今日は高校部の「10時間勉強マラソン」です。台風が逸れたので予定どおり8時30分から実施しています。会場はアカデメイア(高校1・2年会場)とリュケイオン(高校3年会場)です。
 アカデメイアでの学習が大好きな私は開校以来、用事がない限りこの勉強マラソンに参加しています。何しろ、10時間アカデメイアで生徒と一緒に勉強できるのですから、こんな幸せなことはありません。残念ながら、本日は午後から家の用事があるので午前のみの参加です。
 この勉強マラソンという教育活動は、私が県立高校の教頭時代に平成18年度に発案しました。その時の勉強マラソンは高校3年生対象で、早朝から夜7時まで、会場となる教室で各自がただ勉強するというものでした。途中、気分転換を兼ねて近くの神社に合格祈願をするというイベントもありました。
 このような50分のユニット学習形式になったのは開智学園に移る1年前、県立高校の校長の時でした。いかに集中して長時間勉強するか。人間の集中力はせいぜい90分が限度と言われています。マラソンでも最初からとばさずペースを守ることが大切。勉強マラソンのやり方も進歩してきました。この県立高校で勉強マラソンを一緒に企画・実施したのが、県立高校を辞めて開智未来に来てくれた工藤先生や寺岬先生で、特に工藤先生は開校以来、この取組の中心となってくださいました。感謝です。
 今日の勉強マラソンでは、2つのねらいを生徒に示しました。一つは「集中力を持続させること」。もう一つは「単位時間学習量を増やすこと」です。単位時間学習量とは1時間当たりに学習できる量のことで、自分の学習量を把握し、その量を増やすよう工夫・努力することが大切です。私もそうなのですが、学習計画を立てるとその計画の半分も達成できません。だから場当たり的な勉強しかできません。この考え方は大人になって仕事でも生かされるはずです。
 参加生徒たちは集中して勉強しています。その中で一緒に勉強できるのですから本当に幸せで、また、予定したこともほぼ100%出来ました。私の単位時間学習量もまだ衰えていないのでは、とさらに幸せな気分になりました。
 多くの先生方が来てくれています。開智未来の先生方は勉強好きです。安心してバトンタッチしてこれから家に帰ります。

向かう力、押す力

 10月11日のプレ合格祈願走へ向けて、昨夕、ジムのルームランナーで5キロメートルほど走ってみました。最近は、自転車やダンスが中心でだったので、久しぶりにジョギングで汗を流しました。
 今朝起きると、筋肉痛に加え、未来祭のダンスで痛めた右膝が悪化していました。今日は歩行も困難です。
 春日部駅までの35キロメートルは、この状態ではちょっと非常識な挑戦かもしれませんね。普通の人ならば絶対にこんな無謀なことはしないでしょう。自分のことながら「変な人間」だと思います。
 「変人であるには力が必要」だと私は考えています。力とはパワーであり、志であり、身体であり、心の力です。
 最近は、ちょっと人と違うことをすると、匿名の無数の、しかも無責任な一般常識によって炎上する時代です。批判が怖くて縮こまっている時代です。
 そんな時代に抗いたいという気持ち、生徒たちへの「愛」(自分で言うのも変ですが、やっぱり開智未来生はかわいいのです)と「感謝」(この学校を選んでくれたことへの感謝です)、そして、頑張っている生徒の姿が、この無謀への原動力となっています。
 当日は、湯島天神に生徒の名前を書いた絵馬を掲げて、全員が大学入試を完走することを祈願し、生徒たちが自分の氏名と意気込みを書いたTシャツを着て走ります。
 絵馬の表面には「全員完走!前へ!! 開智未来中学・高等学校 2018.10.11」と書きました。
 私の無謀が生徒たちの「前に向かう力」を「後ろから押す力」になればと願っています。

恩返し

 今日は大学での会議がなくなったので、急遽開智未来に出勤しました。
 私の出勤日の月曜日、木曜日、土曜日は、始業前にそれぞれ、学びのサプリ講座、東大ゼミ先端コース、そして、東大ゼミがあるので、今年になってから早朝のアカデメイアで生徒たちと一緒に学ぶ機会がありませんでした。今日は久しぶりにアカデメイアで勉強しました。
 やっぱり、アカデメイアは最高ですね。
 開智未来生たちの真剣な気迫というか、清涼で凛々しい空気が私に伝わってきて、身震いするほどの清々しい意欲が湧いてきました。
 彼らから伝わってくるものの、その本体は何なのだろう。
 今日は改めて考えさせられました。
 生命の持っている、成長しようとする力。
 膨大なる未確定な未来。
 代わりに、私が開智未来生に伝えられるものは何だろう。
 老木の厳しさとゆたかさ。
 不滅なる変化への意志。
 どうにか機会をつくって、月に1、2回はアカデメイアで生徒たちと「共振」したいですね。
 さて、別件ですが、10月11日(木)に「プレ合格祈願走」をすることにしました。この日はセンター試験100日前で、高校3年生たちが大学入試で最後まで走り切れるようにと、企画しました。
 開智未来を応援する-これが顧問の私の仕事です。
 もちろん、センター当日の合格祈願走も行いますが、今回は時間をかけてゆっくりと走って、どうにか春日部駅まで約35㎞を目標とし、そこから電車で学校に向かうつもりです。
 老骨にむち打つ姿が、少しでも、生徒たちの困難を乗り切る力になればと願っています。生徒たち、そして、開智未来への、わずかばかりの恩返しです。
 私が開智未来生に伝えられるものは何だろう。
 問い続けていきたいと思います。

ほのかな幸福感

 大学の勤務は時間的に余裕があるので、空き時間に草取りをしています。
 このようなことをしているのは、開智未来の開校時を思い出すからです。もう8年も前になりますが、統廃合された県立高校の跡地に開設したので、校庭は草で覆われていました。開校後も生徒数は少なく、保護者の方の熱心な協力で凌いでいました。朝早く出勤すると、植え込み当たりの草取りをしている保護者の方に何度もお会いしました。
 「うちの子がお世話になっているのでお礼の気持ちです」
 懐かしい思い出です。
 せっかく開智未来に来てくれたのに、その学校が雑草で荒れた学校では申し訳ない。
 学校に到着すると、まずは雑草に目がいき、心が痛んだものでした。
 大学も自然が豊富で、至る所に草が目立ちます。せっかく来てくれた学生に申し訳ないな、と草取りを始めた次第です。
 特に、植え込みに「ヤブガラシ」という、地下茎で繁殖する蔓草が茂っていました。私が住んでいる農村地域では、農家の方が嫌っている植物です。
 草取りの装束に着替えて、各所にある「ヤブガラシ」は完全に取り払いました。
 次は、芝生の中の草です。
 これは途方もない作業になります。カミュの小説『シーシュポスの神話』(新潮文庫)のシーシュポスのように、取っても取っても生えてくる草と格闘しています。
 果たして私が行っていることに意味があるのだろうか。それでもその苦行のような営みに、ほのかな幸福感を感じています。
 カミュはこの小説で「生きることの非条理」を表したと言われていますが、私は途方もない雑草との闘いに、無意味のようでもゆたかな時間を感じています。
 昨日、いつものように草取りをしていると、近所に住む方から「シルバーさん」と声をかけられました。
 「そのような者ですね」と答えながら、楽しい気分になっています。あの時の保護者の方も同じような気持ちだったのかしら。

後半期へ

 台風一過。一昨日は天気は快晴でしたが、台風の置き残した災禍により交通機関が乱れ、午後は放課となりました。準備していた哲学や早朝講座の「学びのサプリ」を実施できなくて、肩すかしの1日でした。
 さて、昨日は週休日で、午前中は自宅の庭や畑の後片づけをしました。ゴーヤ棚は柱が折れ、モロヘイヤや紫蘇はすっかり倒れていました。その他にも、コスモス、皇帝ダリア、バラ、その他の草花も整えました。
 ゴーヤとモロヘイヤは時期が終わったので、これを機に引き抜きました。ゴーヤは120個ほどの実を付け、8月・9月は1週間に5日以上食卓に登場し続けました。ちなみに昨年は200個以上の実をつけました。今年の夏は、猛暑のせいかゴーヤもミニトマトも実のなりが悪く、それに比べモロヘイヤは見事に壮大な林となり、強靱な生命力を発揮しました。
 私の自室から眺められる、庭の中にある小さな畑は、これで、2本のナスの木と満願寺唐辛子1本を残すのみとなりました。目前の葡萄棚も、本日最後の1房を採り、夏の風景はほとんど消えてしまいました。畑の端にある柿の木は、ほのかに実が色づき始めました。
 一年を通して畑を窓から見渡し続けていると、この畑の様相が人生のように見えてきます。
 春から夏にかけての、成長していく野菜の、まばゆい光景。生徒たちを見ているような気分ですね。
 今日は10月3日。大学で勤務です。平成30年度も後半期になりました。

チーム・みらい

 今日は大宮のソニックシティで塾説明会。その後、柏市に移動して開智国際大学の教授会です。
 塾説明会では加藤校長と藤井教頭のあとに「補助的な説明」をしました。リレーの第3走者のような役割で、二人がトップでつないできたバトンを受け取り、最年長者として気持ちよく走らせてもらっているという感じです。
 ちなみに、最終走者は西木広報部長で、私が他チームに抜かれたとしても彼が抜き返してくれる、という設定です。
 昨年までは、自分の力でリードしなければと肩に力が入って、思ったような走りができませんでした。今年は余裕を持って、自分のフォームを意識しながら、時には競技場の風景も楽しみながら走っている感じです。
 今日の塾説明会にきていただいた方には、このリレーチームのバトンパスの見事さを見ていただけたと思います。いかがでしたか。チーム名はもちろん「チーム・みらい」です。
 ところで、昨日の詩の最後の1行ですが、訂正したいと思います。
 「君は「樹」となれり。」を「君は「樹」とならむ。」と変えてください。孫はまだ1歳で、これから「樹」になるのですよね。
 歳を積んで君は樹になるんだよ。きっと立派な樹になるに違いない。
 次の世代に夢を託すのは気持ちいいことです。開智未来の未来も楽しみです。

身の程知らず

 私事ですが、今日は2番目の孫の1歳の誕生日です。
 孫の誕生日に詩をプレゼントしようと思い立ち、6月の孫娘の「涼蘭」の5歳の誕生日に引き続き、二度目の「birthday poem」をつくりました。
 爺バカと言われそうですが、孫を利用して、自分の詩を発表する機会にするという、邪な動機の方が強いようです。
 さて、今回の詩です。
☆  ☆  ☆
「寿樹」
黙していた種子は
双葉となってそっと笑い、
若葉となって風とおしゃべりを始め、
若木となって陽を浴びて天に向かい、遊ぶ。
ときには嵐にあらがい、ときには雪の重みを楽しみ、
十の堅強な枝を持ち、
百尋に葉を茂らせ、
千の実を結んで、壮木となり、
万世のうちの有期に、
寿を積みて
君は「樹」となれり。
☆  ☆  ☆
 下手でも、詩という言葉の形式を、昔の和歌のように、メッセージを伝える手段とする。それが日本の文学の始まりだったのではないでしょうか。
 具体的な誰かに伝えること。その現実性のなかに、人間の感情・感性、そして、言葉が発生するものである。 
 身の程知らずですが、身の程をしらないからこそ楽しめるのだと悟っています。

胡蝶の夢

 一昨日が久喜市の塾での勉強サプリ、昨日が高校の入試講座での「中学生勉強サプリ」と「親サプリ」、そして、今日が中学体験授業での「小学生サプリ」と「親サプリ」と、3日連続で5回のサプリを行いました。
 楽しかったです。最近は保護者の方も私よりだいぶ年下になったので、どのサプリも、聞き手のためになるように、と「やさしい気持ち」になって行っています。そして、楽しんで行えるようになりました。少々熟成してきたのかもしれません。
 サプリは、平成17年に県立高校の教頭時代、高校生対象の「学びのサプリ講座」として始まりました。頭の良くなる方法からスタートしてきましたが、だんだんと生き方の比重が高まり、この頃は、「幸福」というものを意識して行っています。
 いかがでしたでしょうか。
 特に、今年から校長という役割から解放され、より自然体に、サプリの生き方を行えるようになりました。
 私の頭の中でつくったサプリが、私の身体の一部になっている。
 そんな感じです。
 私がサプリなのか、サプリが私なのか。
 これって『荘子』にある「胡蝶の夢」の話のようですね。
 唐突ですみません。以下、インターネットの「コトバンク」の引用で説明します。
 「荘子が夢の中で胡蝶になり、自分が胡蝶か、胡蝶が自分か区別がつかなくなったという『荘子』斉物論の故事に基づく》自分と物との区別のつかない物我一体の境地、または現実と夢とが区別できないことのたとえ」
 胡蝶になって、次の世代に何かを伝えたい。
 「こちょう」と「こもん(顧問)」。ちょっと似ている言葉かな?(いえ、「こ」で始まるしか共通点はないようですね)

苦しみへのチャレンジ

 1週間以上お休みしてすみません。
 『月刊高校教育』の原稿書きがあり、このメッセージの文章を書く余裕がありませんでした。この連載も今年で10年になります。毎月、原稿用紙11枚のマス目を埋めるのに四苦八苦して、毎回、連載を止めようといつも思っているのですが、産みの苦しみを経て書き上げると、また頑張ろうかという気持ちになって、こうして続けています。
 これが男にはわからない母親の気持ちなのでしょうか。
 苦しいことというものは、苦しんでいる時は辛いのですが、それを乗り越えてゴールに達成すると、快感につながるものです。逆に、苦しみのない達成は味気ないものです。
 それでも苦しみから逃れたいと思うのが人情。困ったものです。
 最近、前よりも苦しいことが苦手になってきました。これを老化と呼ぶのでしょうか。困ったものです。
 さて、9月が終わると今年度も後半戦に突入します。
 「苦しみへのチャレンジ」
 これを後半戦のテーマにしようと思います。
 肉体系では、プレ合格祈願走。こいのぼりマラソン参加。ダンス発表会参加。合格祈願走。
 頭脳系では、エンパワープログラム参加。授業サプリ執筆。開智教育研究所の青写真づくり。
 前向きにチャレンジする姿を開智未来生に見せるのが私の仕事だと思っています。

深化・進化

 今日は大学に出勤の日です。柏駅から2キロメートルほど歩くので、Dパックを背負い、最近はハイキング用のシューズて通っています。
 往復で約2時間。電車には待ち合わせ時間も含めて片道1時間20分ほど乗ります。車中を有効に使おうと、座れば読書やメモに専念し、立っているときは考え事をしています。ホームで電車を待っているときはウォークマンで音楽を聴きながら、人知れず踊っています。きっと不気味なオヤジに思われていることでしょう。ちなみに、今日は Ed Shearan の『÷(ディバイド)』で踊っていました。一見ヤバい人です。
 昨日から『唯脳論』(養老孟司著、ちくま学芸文庫、1998年)を読んでいます。養老氏は私の20歳上ですから、彼が今の私の歳に出版した本です。一読スゴい本です。ずっと遙か遠く、彼方の存在です。もともとサプリは養老氏の考えも取り入れているのですが、最近、養老氏の凄さがさらにわかってきました。少しは成長したのでしょうか。
 「あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり、脳の産物に他ならない」
 「現在われわれを捕らえているのは、現実と化した脳である」
 テクノロジーの発達で、私たち人間は、脳の中で想像してきたことを現実にしてきました。空を飛ぶ夢、腕時計で人と話をする夢、時間と空間を超えて誰とでも話ができるという夢。みんな現実になりました。脳で考えたイメージはCGであたかも現実のように画像化されます。ネットという人工的な世界は若い人たちにはすでに現実空間となっています。
 まさに、脳が現実となっているのです。
 しかし、それは本当に現実なのでしょうか。
 氏は「現実とは、われわれを制約するもの」であると述べています。人間は、自分ではどうにもならないこの現実と向き合い、時には抗い、時には屈服されてきました。しかし、脳によって生み出された人工物という現実は、われわれを制約から解き放しました。何でもできるのです。
 人間を制約をしない現実は、本当の現実なのでしょうか。
 私はここで身体に注目します。身体には制約があります。がんばっても50メートルを4秒では走れない。思ったように踊ることはできない。思ったようにギターは弾けない。絵を描くことはできない。そうやって不便な中で現実を取り戻すことが大切なのではないでしょうか。
 そうして、身体を鍛えれば、絵やギターの腕を上げれば、できなかったことができるようになり、私の現実は広がっていきます。脳で空想上の世界を思いのままに広げても、生きた気分にはならないと思うのです。
 現実に制限された人間にこそ、その身体の開発で、一人一人の意味ある世界を持つことができる。
 朝、野田線で考えたことです。
 読んでは考え、読んでは考える。
 サプリをもっと深化・進化させたいと思っています。

英語・世界へ(3)

 2日ぶりに開智未来で勤務しています。やはり、開智未来生と直接関わる仕事は楽しいですね。
 木曜日は始業前に東大ゼミの先端コースの講座があり、14名の中学3年生と一緒に『菊と刀』を英文で読んでいます。この先端コースは昨年度から開講しているもので、英検2級以上を取得している中学3年生に、ちょっと背伸びをして全国レベルの学びを目指したゼミです。
 ちょうど天皇が話題となったところだったので、「日本人にとって「天皇」とは何か?」について考えました。
 「このことを外国の人にどのように伝えますか。日本人ではありませんから、『そーだよね』では通じません。丁寧に説明しても文化の違いから相手はなかなか理解してくれません。理解したとしても納得してはくれないでしょう。その時、どのように論じていきますか?これは単に英語力の問題ではありません」
 世界と関わるということは、もし本気で関わろうとするなら、いいかげんに相づちを打つのではなく、相手の考えを真剣に理解し、自分の考えをねばり強く伝えることが大切です。そんな思いで生徒たちに問いかけました。
 真剣に聴いている生徒たちと接して、自分も背筋を伸ばして生きなくてはという気持ちになります。
  「英語・世界へ」というテーマで3日連続でこのメッセージを書いてきましたが、英語力は後からついてくるもの。やっぱり「飛び込む勇気」ですね。じっくりと考えて覚悟をもって飛び込むのもよし。軽いノリで入り込むのもよし。動き回ったからこそ見えてくる世界、入り込んだからこそ五感で感じる世界が現実世界なのでしょう。
 「エンパワープログラム」の宣伝を連日書きました、このプログラムに多くの生徒が飛び込む、そんなパワーのある学校に開智未来がなることを私は夢見ています。
 もし生徒たちが嫌がらなければ、いい歳でお邪魔かもしれませんが、私も同じ条件の生徒の一人として、萎れかかっている勇気に息を吹き入れて、プログラムに飛び込みたいと思っています。

英語・世界へ(2)

 昨日から「英語・世界へ」について考え続けている。
 「エンパワープログラム」の内容を見ると、1日目のテーマは「ポジティブ」である。まず姿勢を育てて、2日目からは「社会問題を解決するためのスマホアプリを考案しよう」や「20年後に出現する今はない新しい仕事を想像しよう!」を一緒に考えるプロジェクトがある。また、「世界にどのように貢献していくか、そのために何をすべきか」についての個人スピーチもある。
 英語を使うだけではない。英語を使うための姿勢を学ぶように出来ている。それを5~6名に一人、優秀な海外学生がついてディスカッションしていく。日本に飛び込んできた、意識の高い若い海外の人たちと接することは、普段の学校生活では体験できないことである。
 私は開智未来生に、勇気をもって参加してほしいと願っている。
 「どうせ私は将来英語を使わないから」「私は英語が苦手だから」
 自分の未来を切り拓く勇気をもってほしい。
 そういう私自身が勇気がなかったではないか。
 「エンパワー」とは「力を与える」、さらには「勇気づける」という意味の言葉である。昨日から英語の勉強を再開した。何を英語で語りたいか。外国でも通用するためにこれから何をすべきか。答えを出すにはもっと力が必要である。

英語・世界へ(1)

 今日は常体で書きたい。自分を突き放して考えたいと思ったからである。
 9月1日(土)に行った「共育講座:大人のサプリ 2018」(テキストはフィリアにアップしてあります)でこれからの30年の生き方について述べたが、意図的にそっと消したことがある。お気づきになられただろうか。
 「英語・世界へ」というカテゴリーである。アスリートになる、アーティストになる、哲学者になる、という夢は描いたが、世界に進み出るという夢、そのことに伴って英語を身に付けるという目標が消えている。
 開智未来の校長時代、私は英語の勉強に、相当な時間をかけた。カナダやワシントン、そして、ブリティシュヒルズに一緒に行くからである。国際社会に貢献するリーダーになるためには、英語を使えるようにならなければならない。
 校長も率先して行う-これが私の信条であったから、かなり勉強した。
 しかし、やはり英語は苦手である。あれほど勉強したのにものにならない。特に、聴き取る力は決定的に劣っている。聴き取れないと言っても過言ではない。校長を退いて、英語を使う必要性もなくなり、英語の勉強をそっと辞めていた。正直、肩の荷が下りてほっとしていた。
 私は「大人のサプリ」で「自分を始末する方法・自分を全うする方法」として「罪滅ぼして恩返し、取り返しては夢叶え、跡を濁さぬようよう整理して、行李一つ残して自分を全うする」というスローガンを掲げた。
 その中の「取り返し」とは「できなかったこと、やり残したことを行う」ことである。私の最大の「取り返し」は、英語である。受験勉強も含め、中学・高校・予備校時代と相当量の英語学習をした。しかし、話せるようにならなかった。正直のところ、あれほど費やした時間・努力は大学受験にしか役に立たなかった。
 その英語をこのまま終えていいのだろうか。
 たしかに、無駄になるかもしれない英語にかける時間と労力を別のことに用いれば、相当なことを達成することができる。しかし、「やっぱり、英語だけはダメだったな」と末期に自分を振り返るのも口惜しい。
  「英語・世界へ」という夢をなぜ諦めようとしているのだろう。
 英語が苦手なことが本当の原因ではない。「世界へ」向かう勇気がないからだ。そして、世界に通用する哲学・生き方を確立しようという意気込みがないからだ。
 井の中の蛙大海を知らず。小さな世界に逃げ込んでいるからだ。これを「意気地なし」と言う。
 翻って考えてみる。私は世界へ向かって訴えたいこと、他の国の人と言い争っても主張したいこと、他の国の人と一緒に考えたいこと、一緒に創り上げたいことはないのか。
 日本人であること、日本の文化。日本の教育実践文化。近代欧米思想に対抗する多様な考え方を掘り起こして示すこと。
 これらのことを自分のライフワークにするならば、「英語・世界へ」から逃げてはならない。達成できるかどうか、が問題なのではない。「逃げてはならない」ことが重要なのである。
 さて、本年度、加藤校長・藤井教頭となって、「エンパワープログラム」を実施することになった。国内で英語を使い、世界へ踏み出すプログラムである。費用も3万9千円と海外に行く場合の10分の以下である。しかも、海外へ行くより英語を話す時間が多い。
 このプログラムでは英語を話すだけでなく、世界に通用する考え方を学ぶことができる。それ以上に、世界に向かって生きる姿勢を学ぶことができる。海外の優秀な学生と、1日6時間を3日間、コミュニケーションを取ることができる。素晴らしい企画である。
 多くの開智未来生たちに勇気をもって参加してほしいと思っている。私のようにあとで後悔しないように……。いや、私も負け犬で人生を終わらせてたまるか。
 私も「英語・世界へ」を再び掲げることにした。開智未来生たちと一緒に世界に向かっていきたい。一緒に新たな世界を見てみたいと思っている。(つづく)

成長

 未来祭明けの今日は、午前中が片づけで午後から授業でした。私も5時間目に中学1年生の「哲学」がありました。
 生徒たちはすでに気持ちを切り替えていました。きっと昨日、清々しい朝を迎えていたに違いありません。
 哲学の授業の今日のテーマは「振り返ること・抽象的に考えること」。「言葉の第8期生」と里山探究フィールドワーク後に名付けた中学1年生たちに、言葉に焦点を当てて授業を行いました。
 「抽象的とはどういうことですか。言葉で定義しなさい」
 こんな課題を出しました。
 「わからないから書けないではいけません。どんなことでも考えたことを言葉にしてノートに書いてください」
 わからないと考えることを途中で断念して、ノートに書かない生徒がいます。高校生になると考えるのが面倒だから、「あとで先生が答えを言うまで待とう」と何もしない生徒が増えてきます。
 「各グループで全員が何かを書けたところは互いに発表する『学び合い』を始めてください」 うまい方法が閃きました。このように指示をするとどうにか必死に考え始めました。
 「それでは『振り返る』とはどういうことですか。3つ書きなさい」
 とても難しい質問です。大人は「振り返りなさい」「反省しなさい」と、子どもたちに問いただします。しかし、振り返るとはどういうことか、反省するとはどういうことかを説明しません。それでも強く求めてきます。私も小さい頃、先生に反省しなさいと言われて、一体何をしたらいいのかと思ったことがあります。
 大学3年の時、教育学部の主任教授から「問題意識を持て」と言われて、同窓の仲間と「問題意識を持つとはどういうことかを研究しよう」と、その主任教授を特別講師に招いて、揶揄気味に勉強会をもったことを思い出します。
 大人は、十分に考えずに子どもに要求するから、子どもは育たないと私は思っています。
 生徒たちは必死に考えて、あれこれとノートにその定義を書いています。それらを眺めながら、5種類の「振り返り」を示しました。
 「思い出すこと、反省・課題を考えること、成長したこと・出来るようになったことを確認すること、パーフェクトにすること、次に何をするかを考えること」
 実は、5番目の「次に何をするかを考えること」はある生徒の答えを見て参考にしたことです。
 かなり難しい内容ですが、私の説明をしっかりと聴いています。
 言葉そのものが抽象である。
 1学期に比べて、だいぶ頼もしくなってきました。

新しい朝

 「事(こと)」というほどのことではありませんが、ダンス発表という「一事(ひとこと)」をやり遂げて、新しい朝を迎えました。
 私の一番好きな瞬間です。
 何かをやり遂げた瞬間は、新しいことが始まる瞬間である。
 これは私の信条の一つです。
 喜ぶのはその日まで。次の朝には次のことをスタートさせることにしてきました。
 いつもの時間に起きて、いつもの日曜日と同様、葡萄棚のある自室で、次に行う「こと」を確認して、開始しました。
 清々しくて気持ちいいですね。昨日の喜びに勝る幸福感かもしれません。ところで、「清々しい(すがすがしい)」とは、まさにこの瞬間を表現するための形容詞ではないでしょうか。
 さて、身体表現の次は、言葉による表現。これからは言葉、特に、詩に熱中したいと思います。これも年甲斐もなく、新たな挑戦です。
 思ったより身体のダメージが大きく、全身の筋肉痛と、特に左膝が悪くなっていました。やはり、年甲斐もなかったのでしょうか。それでも懲りずに、今日の午後は久しぶりに自転車に乗って「年寄りの冷や水」を流そうかなと思っています。
 未来祭で全力を出し切った開智未来生たちも、きっと清々しい朝を迎えているに違いありません。
 「おはよう!新しい朝です!」

40年

 恥ずかしながら、切羽詰まって、昨日になって初めて、本日のダンスについて本気で考え始めました。
 私が未来祭で踊る意味は何だろう。どんな表現をしたらよいのだろう。特に、舞台でダンス部顧問の西村先生と遠藤先生と一緒に踊るダンスは、それぞれがソロで踊る場面があり、そのダンスの意味を考えました。
 自己流で踊り始めてほぼ1年。基礎もなく、ただ身体で自己を表現する面白さに惹かれて、わが家にダンスルームがあるという「幸運な環境」を活用して、ダンスに熱中してきました。
 身体に関心を持つことのすばらしさ。年齢を超えて身体を楽しむことができること。生きている限り成長できること。そして、身体を動かすことのすばらしさ。
 私にとって、ダンスも哲学の一部です。
 それらを伝えられないか、伝えたい、と考えました。
 今朝も家で1時間ほど動きを考えて、学校でもダンスが始まるまであれこれと試行錯誤しました。
 緊張とともに楽しいという気持ちが、時間に追われる中で、高まってきました。
 本番では、楽しいという気持ちで舞台に立つことができました。どのように踊ったかはよく覚えていませんが、幸せな気分だったことは覚えています。
 さて、この気分は昔感じたことがある。
 それは大学受験です。第1志望校の二次試験で、緊張しつつも問題にワクワクしながら、集中している自分を楽しんでいました。ずっと忘れていたことでしたが、そのことを突然に思い出しました。
 今、40年前の自分に戻ったような気持ちになっています。
 これから高校生たちは後夜祭です。その気分を40年後に思い出せるような生き方をしてほしいと願っています。

ドキドキ

 昨日は膝痛のため、ダンスの練習は行わずに過ごしました。おかげで痛みもかなり引きました。同時に、頭の中にあったイメージもすっかりと消えてしまって、こうなったら、その時の気分で「無分別」に踊ってやれ、と開き直っているところです。
 「美というものは、本来、何かを欠いたものです」(寺山修司著『両手いっぱいの言葉』新潮文庫)
 そのとおり。私の大いなる欠陥ダンスにこそ美は宿る、のである。と、まったくもって勝手で無分別な言い訳・自己弁護を考えている次第です。
 これからリハーサルがあります。けっこうプレッシャーなってドキドキしています。
 何もしなければドキドキすることもありません。ドキドキは何かをしているということです。思い起こせば、子どもの頃はささいなことでドキドキしていました。授業中、先生に指されてドキドキする。テストの始まる前にドキドキする。リレーで待っている時間ドキドキする。好きな子と廊下ですれ違ってドキドキする。
 歳を取るとドキドキすることが極端に減ってきます。そして、ドキドキすることを避けようとします。
 1時間後にリハーサルを控え、幼い頃、かくれんぼで息を潜めて、「おに」の出現にドキドキしていたような気持ちになっています。
 「もういいかい」「まぁーまだよ」
 どんなダンスをしようかしら。まぁーだ決まっていません。ドキドキです。

無分別

 未来祭に向けて、ダンスの練習に励んでいます。
 本気で踊ると、20秒程度で100メートルを走ったように息が切れます。わが家には鏡のあるスポーツルームがありますが、踊っては椅子に倒れ込み、起きあがっては踊り出して……と、歳を考えれば狂気じみています。今朝起きると、左足の膝に少々痛みが生じていました。
 妻からは「年甲斐もなく」と言われました。
 さて、「年甲斐もない」をネットで調べると、「年齢に似合わず無分別である。いい年をして思慮分別がない」とのこと。
 キーワードは「分別」。
 「仏教では、人間の知は分別知で、そのものを偏らずにそのまま受け止める、仏の知を無分別知と言います。ならば、私は年齢に似合わず無分別なのだから、仏の境地にある」と訳の分かったような分からないような、まさに「無分別」な屁理屈をこねています。
 しかし、最期は無分別でありたい。
 これは私の望みでもあります。膝の痛みを感じながら、分別のない生き方を邁進したいと思っています。
 是非、未来祭では私の無分別なダンスをお楽しみください。

真剣な匂い

 今週は未来祭の週です。生徒たちはその準備に動き出しました。いつもとは違う表情が出てきて、まさに「祭」が近づいてきた、という感じです。
 子どもたちのことですから、手際はけっしてよいとは言えませんが、それでも真剣な匂いが漂っていて、ちょっと羨ましくなります。それが若さというものなのですね。
 さて、実行委員会からの依頼もあり、オープニングでダンスをすることになりました。昨年はサプライズでしたが、今年は生徒たちと一緒に盛り上がれるような計画を立てています。でも、ありがたい話です。こんなジジイにダンス発表の機会を与えてもらえるのですから。
 さらに、いい気になって、ダンス部の顧問の西村先生と遠藤先生とチームを組んで、文化祭当日、中庭で5分ほどのダンスパフォーマンスをすることになりました。今日は初めての練習をしました。素人に付き合ってくれる二人に感謝です。
 いい歳で、動きはけっしてよいとは言えませんが、老醜(老臭)ではなく、生徒たちのように真剣な匂いを漂わせられたら、と思っています。

青写真

 昨日、ボランティア除草に除草に先立ち、「共育講座」を行いました。テーマは「スーパーエイジング・3度目の自分への挑戦」。「自分を全うする」そして「自分を始末する」方法をテキストにまとめることができました。このテキストづくりはかなり時間がかかっていて、この夏休みを費やしました。
 一夜明け、赤裸々すぎたかなと思いつつ、自分のこれからの30年の青写真が一応出来上がったことにホッとしています。この通りにはもちろんいきませんが、一つの目安として、「3度目の自分」のスタートを切れそうです。
 講座でも申し上げましたが、このテキストは、私のこれまでのサプリや開智未来の教育をベースにしたもので、この生き方を最期まで続けるとどのような一生になるか、どのようなエイジング像になるかを示すことができたと思います。その意味で、開智未来生に対して、開智未来の教育の究極の姿となります。教育顧問の私か開智未来生に対して行うべきことは、その姿を見せることで、「生きる」っていいな、人間っていいな、と思ってもらえるようにすることです。
 元気いっぱい頑張りたいと思います。
 今朝も、早朝からダンスと詩の勉強をしています。
 「こんなにいろいろなことに手がけすぎでは、手が回らなくなるのでは。自分の統一感がなくなるのではないか」とふと思いました。
 たしかに、ダンス、詩、絵画、音楽、サイクリング、トレイルラン、哲学……等、守備範囲(攻撃範囲)を広げすぎです。
 「そんなことは思わずに、好きなとき好きなことをすればいい。そんな「自由自在人」になばいい」。
 開き直って、思い直しました。これは還暦を過ぎた者の特権に違いありません。
 それから、ボランティア除草へのご協力をありがとうございました。最後になってすみません。
〈追伸〉
 昨日のテキストをフィリアの「保護者用キャビネット・平成30年度」にアップしました。昨日のテキストにはない「付録」も付けました。

一粒で三度おいしい

 土曜日に行われる「共育講座」のテキストがほぼ出来上がりました。タイトルは、「スーパーエイジングへの挑戦」です。目標は2つ。「一粒で三度おいしい生き方を目指す」と「自分を全うする、そして、自分を始末する」です。
 「一粒で三度おいしい」とは、昔のグリコのアーモンドキャラメルのキャッチフレーズ「一粒で二度おいしい」のパロディです。50年以上食べていませんが、子どもの頃、私はグリコのアーモンドキャラメルが大好きでした。アーモンドとキャラメルの2つを楽しめるという意味です。
  「一粒で三度おいしい生き方」とは、人生90年を三等分して、最初の30年は自分をつくる時期、次の30年を自分の領域で仕事を全うする時期です。私も開智未来づくりでこの時期を完結させることができました。そして、60歳からの最期の30年です。
 三度目のおいしさをどのように味わっていくか。そのことを考察しています。それは、自分を全うすることでもあります。60歳で仕事を全うしたので、今度は自分です。4月からこの夏休みまでかけて、考え続け、あれこれと模索してきました。
 「自分を始末する」は、意味深ですね。これは曾野綾子氏の『自分の始末』(扶桑社新書、2011)からの発想です。「始末に負えない自分を始末するのは自分しかいない」「あとの人に私の後始末をさせてはならない」。そんな考えてまとめてみました。
 保護者の皆さんには、少々先の話ですが、参考になれば幸いです。私にとっても、このテキストづくりで、潔くきれいに、第2期の自分を脱皮して、新たな一歩を踏み出したいと思っています。
 しんみりした話になってしまいました。
 ダンサーになる!詩人になる!トレイルランに挑戦する!サイクリングは五感と孤独だ!それからちょっぴり家族愛について……。
 当日は、元気いっぱいのエイジングサプリをご堪能ください。

楽しむ

 今日から本格的に授業開始。
 私も始業前の「学びのサプリ」講座、2時間目が中学2年「哲学」、3時間目がH・S合同の高校1年「哲学」、5時間目が中学1年「哲学」と、4時間ほど授業を行いました。猛暑の夏休み明けというのに、開智未来生は夏休みボケはなく、集中して授業に参加しています。素晴らしいですね。
 生徒たちにこんなことを伝えました。
 「何となく過ごせばただの時間ですが、ねらいをもって過ごせば意味ある時間になる。意味ある2学期を過ごしましょう」
 この時間という言葉を「1日」「1年」「1生」と置き換えることもできます。開智未来生には意味をつくれる人間になってほしいですね。
 さて、私の2学期のねらい(テーマ)を「楽しむ」としました。大変なことも嫌なことも、もちろん、好きなことも徹底して「楽しむ」。そんな生き方をしたいと思っています。
 齢を重ねると、いろいろなことがしみじみと分かってきます。
  『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)
 『論語』の有名な一節ですが、「楽しむこと」は究極の境地ですね。昨日も、夕方暑い中、1時間ほど歩いたり走ったりしました。「トレイルラン」をできるようになりたい。この夏、そんな夢が出来ました。そこでリュックに水筒を入れて、近所の田んぼのある風景の中を、時には歩き、興味のあるものを見つけたときは駆け寄ったりしながら、身体はきつくて苦しいのですが、楽しんでいます。
 なぜ楽しいのでしょうか。走りに自らの意味を持たせたからです。人間というものは奥深いものですね。
 生徒たちと意味深い2学期を楽しんでいこうと思います。
〈追伸〉
 楽しむと笑顔になってきます。また、笑顔になると楽しむことができます。そして、楽しむことで意味が生まれてきます。「未来スマイル」の初心に戻りたいと思います。

2学期始動

 開智未来は今日から2学期です。他の学校より夏休みが早く始まるので、その分2学期が早く始まります。
 始業式で加藤校長の式辞がありました。1学期の始業式はスターティングセミナーの引率中、そして、1学期終業式は大学での勤務だったので、加藤校長の式辞を聴くのは初めてです。肩の荷が下りて、ホッとしながら生徒たちと一緒にメモを取りながら聞きました。
 「満足した夏休みでしたか?」
 生徒たちに問いかけた後、こんな話がありました。
 「ダラダラして、逃げてしまった人もいると思います。誰しもいい生活がしたいと思っています。しかし、何もしないでいい生活は転がり込んではきません」
 やさしい語り口調ですが、奥の深い、しかも、毅然とした言葉です。
 誰しもいい生活がしたい、と思っている。
 すべての生徒を思い遣る、やさしさに溢れる言葉です。みんな自分を大切にしたいと思って、幸せになりたいと思って生きているのですよね。
 その言葉に続いて、何もしないでいい生活は転がり込んでこない、ときっぱりと言い切っています。これは加藤校長の信条に違いありません。優しい中に厳しさを兼ね備えた言葉です。
 思わずメモしました。学ぶということは楽しいですね。同じ言葉をメモした開智未来生もいるでしょう。
 2学期は、生徒たちと同じ気持ちで学んでいきたいと思っています。
〈追伸〉
 9月1日(土)に行われる「共育講座」のテキストを作成中です。スーパーエイジング・サプリと銘打った講座になります。気合いが入っています。楽しみにしていてください。

ワクワクの2学期

 本日から夏期講習(後期)が始まりました。そして、今週の土曜日に始業式があり、2学期が始まります。開智未来は夏休みが早く始まるため、その分、2学期も早く始まります。
 やはり、学校は生徒たちで賑わっていなければ学校らしくありませんね。夏休みボケの表情もなく、生徒たちは「学びの朝」を行っています。校長を退任して顧問となって、より客観的に開智未来を見られるようになりましたが、そのような目で見ても、本校の「学びの朝」は素晴らしいですね。長期休業明け(いいえ、まだ夏休み中です!?)であっても、生徒たちは始業前から楽しそうに勉強しています。それは、人間が本質的に学びが好きだからに違いありません。
 私は始業前に「学びのサプリ」講座を行いました。20人近い生徒が、忘れることなく参加しました。この講座は受講生に「1週間分のやる気」を提供することをねらいとしたものですが、かえって私の方が生徒たちからやる気をもらっているようです。
 サプリ講座ではこんな話をしました。
 「今日から後期講習で土曜日が始業式です。いつから2学期なのかがわからないのが開智未来の特徴ですが、新学期のスタートは生徒自身が決めるべきだと思っています。それが開智未来なのです。夏休みがまだ納得できていない人は、最大、授業の始まる来週の月曜日から2学期が始まると考えてもよいでしょう。長期休業中にしかできない『がっつりした学習』をあと1週間で仕上げましょう。すでに納得できる夏休みを過ごした人は、今日から弾丸スタートを切ってください。弾丸スタートのポイントは『グズグズしない身体、クリアーな感覚、高速の脳』です」
 さて、開智未来のワクワクの2学期が始まります。

のど元過ぎれば

 昨日から急に涼しくなりました。
 今日、正午の外気温は29度。猛暑に慣れてしまった身体には物足りなく感じます。我ながら環境への適応力に驚いています。
 考えてみれば、今から半世紀近く前のこと、私の中学・高校時代の夏はこの程度だったのですね。日中も風通しのよい家の中では、エアコン無しで昼寝が出来ました。それでも「暑い夏」だと感じていました。それが今や「涼しい、物足りない」と思ってしまうのですから、年々凶暴化する猛暑・酷暑に、自らジャングルの熱帯人となったのかもしれません。
 これからの時代は「暑さに強い人間」が生き残る。
 最近、そのように考えています。
 暑さに弱い人間は、夜も含めて一日中エアコンの効いた屋内に居て、暑さに強い人間だけが外を活動している。日本に、弱暑の民と強暑の民、2つの民族が出現する。弱暑の民は部屋の中でコンピュータに向かい、強暑の民は、幼い頃に読んだ絵本よろしく、槍と盾をもった腰蓑の部族よろしく、半袖半ズボンの帽子姿で片手に日傘、片手にペットボトルをもって、強烈な日差しの中を闊歩する。思考方法も弱暑の民と強暑の民は違うかもしれません。
 動物も昆虫も弱暑種は秋に活動し、強暑種は真夏に活動する。植物もそうなるかもしれません。地球が温暖化する中、適者生存の原理に基づき、強暑の民や種が生き残って進化していく。私は強暑の民で、日焼けした姿で走り回っている。
 猛暑をネタに妄想をしながら、アフリカ起源の「ダウンビート」のダンスを踊って楽しんでいます。
 もう少し、猛暑を楽しみたいな。のど元過ぎれば熱さ(暑さ)忘れる、です。これは人間が強い証拠でしょう。

久しぶりのサプリ

 今日は高校募集の体験授業があり、そこで「中学生勉強ミニサプリ」と「親サプリ」を行いました。久しぶりのサプリでした。
 サプリとは、突き止めると、「自分の機能を高める実践方法」です。ですから、私自身が自分の機能を高める生き方をしていなければ、サプリ講座を行う資格がありません。姿勢、顔の表情、言葉の使い方、話の展開等々、サプリの姿で私の状態が分かってしまうので、結構緊張します。それが心地よくもあり、日々の生き方を頑張れる要因でもあります。
 この夏は身体機能を高める実践をしてきたので、今日のサプリは身体的には自信をもって臨めました。参加した方々には、私の声や身体から何かを感じていただければ幸いです。
 今日の参加者の一人から、「上の子が昨年サプリを聞いて偏差値が30アップをしたという報告を聞きました。これまで18ポイントが最高でしたので、驚きました。偏差値が40台から72まで伸びたそうです。その結果、県立の進学校へ進んだそうです。サプリを聞いて、すぐに『学びのサプリ』(学事出版)を購入し、2回読んで生き方を変えたとのこと。その行動力や積極性が彼を変えたのでしょう。
 「家に帰ったら、教養・知性を高めるよう、そのためには読書が必要だ伝えてください」
 保護者の方にお話しました。
 サプリが求めているのは「生涯学力」です。60歳を過ぎても成長する生き方です。彼がこれからどのように成長するか楽しみです。
 さて、来週から開智未来では夏期講習が始まります。事実上の2学期がスタートとなります。早々に、8月20日(月)の朝には「学びのサプリ」があります。成長した自分になって開智未来生たちと会いたいと思っています。
 私のやる気の根元は、開智未来生にあるのですね。

猛暑の夏休み

 長らくメッセージをお休みしました。
 今日は久しぶりに開智未来で勤務しています。この間、2日ほど開智国際大学へ行きましたが、それ以外は完全夏休みで自宅で「5・5・5」生活を続けていました。
 皆さんはこの猛暑の夏をいかがお過ごしでしたか。
 7月のメッセージで「猛暑」について何度か書きました。この猛暑にどのように対応するか。早起きして朝の涼しいうちに勉強して……。あとは図書館などで生活する、などと暑さから避難することばかり考えていました。
 実際に、この2週間は、汗まみれになって日中に草取りや家の片づけをしたり、さらには、90㎞のサイクリングしたり5時間のハイキングをしたりと、猛暑の中、毎日動き続けました。そうすると、暑さが嫌にならなくなってきました。それどころか、この暑さの中動き回れる自分に自信が付いてきました。
 よし、これからアスリートになろう!そんな途方もない夢も生まれました。
 逃げないことが大切。この当たり前のことの重要性に改めて気付きました。
 逃げたら何でもマイナスになってしまう。逃げずに積極的に立ち向かうとそこに意味が生まれる。
 人生というものもそうなのかもしれません。
 仏教では、生・病・老・死を「四苦」と言います。「四苦八苦する」の「四苦」です。この四苦も、逃げずに積極的に立ち向かうと意味が生まれるのでしょう。
 生きること、病になること、老いること、そして、死ぬこと。これらは避けられないものですが、誰もが避けたいと思っていることです。しかし、それらも立ち向かっていけば意味が生じてくるのでないでしょうか。
 猛暑から学んだことです。
 猛暑だったからこそ、私にとって有意義な夏休みになりました。
 猛暑の2018年の夏、平成最後の夏をお楽しみください。

「5・5・5」生活

 3日ほど「顧問からのメッセージ:顧問感覚(コモンセンス)」をお休みしました。この間、高校3年生の進学講習を除いて学校は休みとなり、本格的な夏休みとなりました。
 この完全夏休みの期間は「5・5・5」で生活する!
 たいして考えもしないで、語呂がいいのでこんな目標を立てました。
 「5・5・5」とは、1日24時間のうち、5時間勉強する、5時間家事をする、5時間身体エクササイズをする、という意味です。残りの9時間は食事、睡眠、洗顔、入浴等の時間です。
 5時間の勉強は、これまでの完全夏休み期間と比べるとやや少なめですが、家事を多くするために減らしました。
 この3日間は、庭と畑の草取り、葡萄の袋かけ、網の清掃と窓ふき、2階納戸の整理……、と猛暑に負けず汗だくになって動き続けました。やるべきことをリストアップすると10数項目になります。まだまだたくさんやるべき事があります。これも身心のトレーニングと考え、テキパキと頭と身体を動かそうと考えています。
 意外と大変なのは「身体エクササイズ」です。日中を避けて、早朝や夕方に散歩や自転車をしたり、夜にダンスをしたりと頑張っているのですが、せいぜい2時間です。そこで、五感を鍛えることもエクササイズだと、ギターで指先を使い、音楽を耳を澄まして聴いて聴覚を養い、テレビも焦点を当てて見て視覚を鍛えています。これらもエクササイズとしました。それでも5時間にならないので、「身体エクササイズ」を「身心エクササイズ」と変更して、心を動かしたり、脳を動かしたり、身体を動かしたりと、まさに全身のトレーニングに励んでいます。
 こうやって3日間を過ごすうちに、この生活がサプリそのものであることに気付きました。
 今日は4日目。
 サプリで猛暑に立ち向かい、充実した1日にしたいと思います。
 猛暑も楽しからずや。元気に過ごしていきましょう。

駆け回る身心・駆け回る知性

 今日は中学体験授業。台風が通過し、強い日差しが戻る中、129組の方が参加してくれました。
 私も満員のアカデメイアで「親子サプリ」を行いました。
 メモを取ってサプリを受けることが定着しているようで、多くの小学生がノートを持参していました。目を輝かせて私の言葉をもぎ取っている姿がまぶしかったです。
 昨晩、「駆け回る身心・駆け回る知性」という言葉を考えました。
 今、私は自転車に乗ったり、本格的にウォーキングを始めたりと、身体的にもアクティブに生活しています。足腰もかなり鍛えられてきました。
 実は、私が目標としているのは、野山を駆け回ることなのです。子どもじみていると思われるでしょうが、散歩やハイキングの途中、美しい花や興味のあるものへ、子どものように走り寄る人間になりたいてのす。
 そのためには、まず「駆け回る身体」がなければなりません。いろいろなものに感動し興味をもつ「駆け回る心」がなければなりません。
 そして、さらにいろいろなことを深く広く考えられる「駆け回る脳」も得たいと思っています。
 それが「駆け回る身心・駆け回る知性」です。
 本日サプリを聞いてくれた小学生のように、いつまでも「まぶしい姿」でいたいですね。
 雨も上がりました。これから家に帰って、自転車で野分け後の利根川を走り回る予定です。脳や心は身体から。80歳までは駆け回れる人間でいたい、と密かに思っています。

真剣サプリ

 台風が心配されましたが、「高校説明会・勉強サプリ」が無事終了しました。約70組の方に参加いただきました。
 やはりサプリは楽しいですね。
 子どもたちの、伸びようとする真剣な表情に接することができるからです。私自身も本気で伸びようと、サプリを実践しています。子どもたちは私の真剣さを受け止めて、真剣さで返してくります。
 本気で死力を尽くして打ち合ったテニスのラリーのような感じです。
 皆、本気で伸びたいと思っているのですね。しかし、その本気が、世間では、また、学校では揶揄されたり、バカにされたりして、本気で伸びたいと思っている姿を隠して、息を凝らして子どもたちは生きているのでしょう。だから、本気で伸びようというサプリの雰囲気に安心して、真剣な表情をするのでしょう。
 自分を偽る必要はありません。自分に対しては正直であり続けましょう。
 子どもたちに訴えたいと思います。
 さて、明日は中学校体験授業で「親子サプリ」を行います。すでに130組近くの方が申し込んでいます。私のライフワークであるサプリを、一緒に楽しみたいと思っています。
〈追伸〉
 台風が日本列島を西へ横断する恐れがあるとのこと。災害が再び起こらぬよう、人々がこれ以上苦しまないよう、祈っています。

明日は本格サプリ!

 明日は開智未来で「高校説明会・勉強サプリ」が実施されます。私にとっては、久しぶりの本格的な「サプリ」です。
 サプリは平成17年、県立高校の教頭時代に「学びのサプリ」として高校3年生を対象に開始したもので、本校の教育もこの考え方に基づいてつくりました。
 高校生向けのサプリは、本校での「哲学」の授業に継承され、生徒募集活動の中で、「中学生勉強サプリ」や「小学生サプリ」が行われるようになりました。また、保護者向けの「親サプリ」や「大人のサプリ」、教員向けの「教員サプリ」や「管理職サプリ」なども開発しました。
 今は、還暦を過ぎた身として、「エイジング・サプリ」も研究中です。その成果は9月1日に実施する、本校保護者向けの「教育講座」で発表しようと思っています。80歳定年、平均寿命100歳の時代に向けた、身心や脳の鍛え方・楽しみ方を考えてみたいと思っています。
 さて、明日の中学生勉強サプリですが、今から気合いが入っています。
 夢の持ち方、やる気の出し方、脳の機能を高める方法等、猛暑の中で高校入試に向かって「頑張りたい」と思っている中学生の心に届くサプリになればと思っています。
 楽しみにしていてくださいね。
 台風が心配されていますが、一緒に台風を吹き飛ばしましょう。

土壇場の幸せ

 今日は『月刊高校教育』の原稿締め切り日でした。
 言い訳なのですが、猛暑で苦労しました。朝早く涼しいうちに原稿を書こうと、4時に起きて頑張ってきましたが、すでに気温は30度近く、おまけに蝉も鳴き出してきて、筆はまったく進みませんでした。通常は、締め切りが迫ると寝ている間に論理展開や文章が浮かんでくるのですが、こちらも熱帯夜でまったく夢にすら出てきませんでした。
 しかし、神様は私を見捨てなかったようです。今朝は気温が27度、蝉が鳴き始めたのは4時40分で、寝ている間に文章も浮かんできて、4時から10時までの6時間で一気に書き上がりました。
 この状態を、私は「神が降りてくる」と表現していますが、どうして人間というものは切羽詰まらないと神が降りてこないのでしょうか。
 それでも、お尻に火がつくと必ず神が降りてくる。このことが自信となって、さらには「自分は逆境に強い」と変に論理を飛躍させて、自分の支えとしています。
 脳というものは不思議なものですね。
 活性化してフル回転すると気持ちいいほどに信じられない力を発揮します。ただ凡人は、切羽詰まって崖っぷちに立たないとその状態にはなりません。天才は常に脳が活性化しているのでしょう。
 神が降りてこなくなったら、私の知的活動は終わりかな。
 もう少し、土壇場を楽しみたいです。

猛暑を制する

 熊谷で41.1度を観測し、国内最高気温を更新したとのことです。日本の天候は一体どうなったのでしょう。
 開智未来の気温はどうなのかと思い、アップルウォッチのAIに「今の外の気温は?」と尋ねると、「ああ寒い、39度です」と答えました。思わず聞き間違いかと再度尋ねると、やはり同じ答えです。ついにAIがジョークを言うほどの猛暑なのか、と思ってしまいました。
 さて、今朝の「学びのサプリ」で学力を上げる条件として、「暑さに強い人間になること」を示しました。
 この夏の暑さは来年度以降も続くでしょう。この暑さに負けないことが成功の条件になるに違いありません。暑くてもがんばれる人間。もちろん、一日中エアコンに入っていればいいのですが、それでは自然の脳の働きが弱まるような気がします。また、冷房の部屋の中で動かないでいれば、夏以降体調を崩すはずです。
 今、私は次のようなことを実行しています。
 夕方や早朝の涼しい時間に外気に触れて積極的に身体を動かす。
 暑い日中も、短い時間、温泉に入ったような気分で外気に触れる。
 汗をかいたら水分や塩分の補給に努める。
 栄養のバランスのよい食事をとる。
 暑さを避ける、という消極的方法だけでは強くなれません。あえて暑さに挑んで強くなるという積極的方法も大切です。猛暑という逆境も、さらに強くなる契機にしたいと思っています。
 厳しさや苦しさにあえて挑む。もちろん、科学的な知見を尊重する必要がありますが、これはすべてのことに言えますよね。
  暑さに強い人間を育てた学校が進学実績を上げる。
 そんな時代が来ると本気で考えています。

自分を選ぶ

 昨日と本日、さいたま新都心のスーパーアリーナで「彩の国教育フェア」が開催されています。これは埼玉県内の公立・私立高校が集まって、それぞれのブース(出店スペース)で学校の説明をするという催しで、開智未来も開校前年から参加しています。
 初めの頃は、知名度もなく、「……未来?」。未来という学校名にはなじみのない言葉が加わっていることもあり、奇妙な学校という印象を持たれたようです。
 ブースを訪れる人も少なかったので、私が「ミニサプリ」を大道芸人よろしく、会場で行って人を集めたものでした。昨日などは、混み合うというほどではありませんが、普通にブースの席は埋まり、開校8年目、ようやく新設校期間を終えたと実感しました。
 今年は顧問となったので、初めてサプリをせずに過ごしました。かわりに、学習アドバイスコーナーを設けて、希望者の相談にのりました。昨日は、7名ほど。生徒募集というより、私の趣味や貢献活動という感じです。いかがでしたでしょうか。本日も9時半から12時まで開設しますので、もしこのメッセージを読んで興味を持った方は、開智未来のブースまで来てください。お会いできることを楽しみにしています。
 さて、私はこの「彩の国教育フェア」という催しを、ずっと不思議に思っています。確かに一同に県内の高校が集まるのですから、一日で複数の学校の説明を聞くことができます。しかも、1対1の説明ですから、臨場感や接触感を味わうこともできます。しかし、セールストークという言葉だけの世界です。
 私は「スーパーアリーナ」という閉じた空間に1日いると、「物産市」や「お祭り」に来たような気持ちになります。盆踊りの舞台に、電灯を点した夜店の群。呼び込みの声がリズミカルに響き、べっこう飴の香りがどこからか漂う。家族連れ、友達と手をつないで、店々を覗き回る。
 それも楽しいことだし、子どもたちが世界を知る第一歩でもあります。
 しかし、祭のあとは、うら悲しさがあるものです。それに、自分の進む方向を「ちょい味見」しながら「消費」するのは、高校選びの本質から逸れているのではないか、と私は感じています。
 「ここでその高校が分かったと思ったら間違いですよ。実際にその高校に行って、学校や先生や生徒の姿を直接見てくださいね」
 ミニサプリでは、そんなことをずっと言い続けてきました。
 中学3年生の皆さん。
 高校を選ぶためには、まず自分を見つめること。これからどんな生き方をしたい。そのためにはどんな高校で学びたい。
 高校を選ぶということは、自分を選ぶということ。素敵な自分を目指してくださいね。
 では、会場でお会いしましょう。